【スティラピス】
「あの日、ジーンさんのおかげでボヤ騒ぎで済んだのかもしれません」
「私の、ですか?」
「ええ。ジーンさんからいただいた、月光薔薇の夜蜜を、早速紅茶に入れて妖精さんに振舞ったのです。そうしたら、妖精さんが姿をちょっぴり現して火事を知らせてくれました!」
「妖精が火事を? 本当ですか?」
「本当らしい。リゼットについている妖精は、リゼットがよほど大切なようだ」
驚くジーンにスカーレットが言い、リゼットはそうだといいなとはにかむ。
これまで存在を知らずにいた分、リゼットも妖精を大切にしていきたい。
「そうですか……。おふたりのお役に立てたようで光栄です」
「はい! ジーンさん、本当にありがとうございました!」
「私からも礼を言うよ。大切な邸を失わずに済んだ。ありがとう」
リゼットとスカーレットからの感謝に、ジーンは「もったいないお言葉です」と胸に手を当て優雅に礼を取る。
さらりとジーンの絹糸のような髪が揺れる様子は美しく、いま彼の背中から妖精の羽が生えても驚かないななどと考えた。
「本日は、ご注文いただいた品が完成いたしましたので、お持ちしました」
そう言うと、ジーンはグローブをはめた手でジュエリーケースのような小さなビロード張りの箱を開いてみせた。
そこに入っていたのは宝石の輝く指輪……ではなく、シグネットリングだ。
あのボヤ騒ぎがあった日に、いくつかのデザイン案を受け取っていたリゼットの印章。公爵邸に来てから選んだデザインをワロキエ商会に伝えたのだが、たった三日前のことだ。
「も、もう完成したのですか?」
「はい。当商会の職人が全力で仕上げました。どうぞ手にとってお確かめください」
箱ごと受け取り、リゼットはまず色々な角度からリングを眺めた。
不思議な色をしているが、一体何の素材で出来ているのだろう。一見金色に見えるが、よく見ると緑がかっていて、角度によってその濃さも変わる。
「とある翡翠色の湖の底でのみ採れる、スティラピスという岩石を加工した金属で出来ています。妖精が好む金属と言われており、柔らかく加工に向いているのが特徴です」
「スティラピス……綺麗ですね」
「そういえば、昔スカーレット様が原石をご購入されたと記憶しておりますが」
同席していたスカーレットにジーンが話を振ると、スカーレットは軽く肩をすくめてみせた。
「ああ。趣味でいくつかね」
「そうなのですか? いつか見せていただけるでしょうか……?」
「私の邸に戻ったら、すぐにでも見せてやろう」
スカーレットは他にも、妖精にまつわる逸話があるような石や宝石を集めているらしい。
本当かどうかもわからないものも揃っているが、趣味だからそれでいいのだそうだ。リゼットは伯爵邸に帰る楽しみがひとつ増えたことが嬉しかった。
自分に寄り添ってくれているという妖精も、好ましい石を見て喜んでくれるといいなと思う。
印章の部分のデザインは、リゼットが想像していた以上に細かく彫られていた。
妖精の羽のステンドグラスのような模様の部分と、スカーレットをイメージした小さなバラの部分。どちらの彫りも繊細でうっとりため息をついてしまう。
「た、試しに押してみてもいいでしょうか?」
「どうぞ。こちらをお使いください」
ジーンはサッとインク台と紙を出し、インクを拭う布巾まで用意してくれた。
ありがたくそれらを使わせてもらい、ドキドキしながら出来たばかりの印章を押印してみる。ゆっくりとリングを離すと、繊細な彫りが見事にそのまま表現されていた。
インクの微かなにじみまで計算され尽くした彫りだったようで、リゼットはその出来栄えに感動する。
「すごい……見てください、スカーレット様! こんなに素敵な印章が!」
「ああ……」
印が押されたほうの紙をスカーレットに見せると、彼女は目を丸くしていた。
そこでハッと気づく。スカーレットのシグネットであるバラをデザインに入れたことを、いまのいままで秘密にしていたのだ。
「あ……じ、実は、ジーンさんにお願いして、デザインにバラを追加したのです。スカーレット様をびっくりさせたくて……」
「私を驚かせようと?」
「はい。スカーレット様の代筆者になれたことは、私にとって思いがけない幸運だったのと同時に、誇りなのです。だからスカーレット様のシグネットであるバラをどうしても入れたくて……っ⁉」
もしかして失礼だっただろうかと、途中から不安になったリゼットを、スカーレットが細い腕で強く引き寄せた。
ふわりと香るバラの匂いに包まれて驚くリゼットに「まったく……」とスカーレットが優しい声で囁いた。
「お前は、何でこんなに可愛いのだろうね」
「スカーレット様……」
「嬉しいよ。ありがとう。私の可愛い代筆者」
そんな愛に満ちた言葉をかけられて、リゼットは胸の奥から熱いものが込みあげてきた。
ダメだ、いま泣いたらスカーレットのドレスを濡らしてしまう。そう思うのに離れられない。
だからリゼットはいまだけ、ちょっとだけ、と甘えてスカーレットの肩口で愛を与えられる喜びを嚙みしめるのだった。
***
「机に向っているときのフェロー先生は、本当に姿勢がよろしいですね」
代筆するリゼットの姿を見ていた王女が、感心するようにそう言った。
あまり自分では意識したことのないリゼットは、褒められてうっかり手元が狂いそうになり慌てる。
リゼットの母も手紙を書いているときはとても姿勢が良かった。それ以外のときはそうでもないというか、ちょっぴり猫背だったような記憶がある。
選定で一緒になったララやルークも姿勢がぴんとしていたなと思い出した。
「姿勢はとても大事です。もちろんそれぞれ書きやすい姿勢や集中できる姿勢などあると思うのですが、姿勢が良いと文字列が曲がっていないか、文字の大きさが変わっていないかなど、手紙全体のバランスを見ながら書くことができます。それに姿勢を良くすることで腕が固定できるので、圧倒的に楽でもあるのです」
継母たちの代筆をしていたとき、あまりの手紙の多さに疲れてしまい、姿勢が悪くなっていたことがある。そのときは比例して腕への負担が大きくなり、腱鞘炎も長引いて大変だった。
「知りませんでした。そういうものなのですね」
感心するレオンティーヌの横で、王太子アンリが「確かに」と訳知り顔でうなずいている。
なぜ彼はリゼットが王女宮に来るたび毎回いるのだろう。
「剣術も乗馬も、何事も姿勢は大事だな」
「ええ、本当に。政務に真面目に取り組む姿勢もとても大事ですわね」
冷めた目で兄を見るレオンティーヌには、すでに「いつも邪魔者がいて申し訳ありません」と謝られていた。
とんでもないと返すしかなかったが、確かになぜいるのか目的が不明だし、よくわからない茶々を入れてくるしで、正直やめていただけないものかとは思っている。
「できました、王女殿下! いかがでしょう?」




