56通目【努力の跡】
エルヴィールたちが驚いたように振り返ると、複数の足音がバタバタとなだれこんでくる。
「お、王女殿下⁉」
「なぜこんな所に……!」
侍女や近衛を引き連れて、王女レオンティーヌが現れたのだ。
青褪めるエルヴィールたちの横を通り過ぎ、王女が真っすぐにリゼットのもとにやってくる。
「大丈夫ですか、フェロー先生」
「殿下……。えへへ、ちょっと、油断してしまいました」
力なく答えたリゼットに眉を寄せると、王女はエルヴィールたちを振り向いた。
強い口調で「どういうことですか」と彼女たちを糾弾する。
「私の指南役にこのような幼稚な嫌がらせをするなんて。このことはお兄様にも報告させていただきます」
「ご、誤解です! リゼットさんが、ご自身でワインをこぼされて!」
「フェロー先生はお酒が飲めないのに? そうでしたよね、先生」
「ええと……」
確かに酒は飲めない。正確に言うと飲んだことがない、だが。
そもそも、これまで飲む機会がなかったのだ。デビュタントもまだなのだからと、継母はワインや果実酒もリゼットに禁止した。確か義姉のジェシカには、デビュタント前から許可していたが。
だから王女には「まだお酒を飲んだことがなくて」という話はしたことがある。飲めるか飲めないかはわからないのだが、物は言いようらしい。
「ですから、それは、デビュタントだから特別に飲んでみたいと彼女が……」
「もういいです。あなた方に割く時間がもったいないわ。ヘンリー卿。彼女たちを別室に連れていきなさい。それから彼女たちの親を呼んで家に帰らせて。今後王宮への立ち入りを禁じます」
「そんな! 王女殿下!」
「違うのです! 実は、この娘、いえ、指南役の義姉に騙されて……!」
ヘンリーたち近衛騎士が、嫌がるエルヴィールたちを連れて行こうとする。
そのとき、抵抗した誰かの靴が目の前に転がってきた。可愛らしい花飾りがついた靴だが、よく見ると履き口の部分がこすれ、茶色く汚れがにじんでいた。
それが靴擦れによる血のあとだと気づいたとき、リゼットは濡れたドレスを握りしめながら「お待ちください」と彼らを止めていた。
「彼女たちを帰らせる必要はありません」
「フェロー先生……?」
いぶかしげにこちらを見るレオンティーヌに、リゼットは申し訳ない気持ちで笑いかける。
「王太子殿下への報告も、しないでいただけませんか?」
「なぜです、先生? この方たちは、あなたの義姉にそそのかされてこのような行為に及んだのでしょう?」
「はい。ですから、私の家族の不始末で私に害が及んだだけです。なので私が始末をつけるべきかと思うのです」
転がってきた靴を拾い、近衛騎士に捕まったままの令嬢たちを見る。
その中で不自然に身体を傾けさせていたのはエルヴィールだった。
「エルヴィール様」
「な、何ですの……。ドレス代ならお支払いしますわ! 謝れとおっしゃるなら――」
「義姉がご迷惑をおかけしました」
「……え?」
リゼットは跪き、靴を差し出した。
エルヴィールが動かないので「失礼」とドレスの裾をめくる。やはり靴は彼女のものだったようで、素早く白い足に靴を戻す。
素敵なデザインだがとてもヒールが高い靴だ。こんなに足に負担をかけてまで、自分の美しさを最大限にして王太子と踊りたかったのだ。
「エルヴィール様は、王太子殿下をとてもお慕いしていらっしゃるのですね」
「そ、そうよ……それが何だというの? 私は殿下の婚約者になる日をずっと夢見ていたの! それなのにポッと出のあなたなんかに……」
「あ。私のことを気になさる必要はございません。王太子殿下はおそらく私のことを目新しい玩具くらいにしか思われていないので」
にこやかに言って、リゼットは立ち上がる。
ここはきちんと説明しておかなければならない。リゼットが王太子とどうこうなる未来など、絶対に訪れないのだと。
「は? お、玩具?」
「大変僭越ではありますが、エルヴィール様はもう少しよく相手の本性……いえ、正体……いえ、人となり? を見極められたほうが良いのではないかと思うのです」
「あ、あなた、私を馬鹿にしているの⁉」
「とんでもない! エルヴィール様は、大変純粋な方なのだなと感動いたしました。だからこそ、エルヴィール様の純粋な恋心を利用した義姉を、到底許すことはできません。私は心配なのです。純粋なエルヴィール様が、また悪しき心を持つ人物に騙されはしないかと」
大真面目に語りながら迫るリゼットに、エルヴィールたちは困惑したように後ずさりをする。
騎士や侍女たちまで一緒に下がるのは少々傷つくのでやめてもらいたい。
「心配ですって? あなたが、私を?」
「はい! なので、もしお許しいただけるのでしたら、私からお手紙をお出ししてもよろしいでしょうか?」
リゼットのお伺いに、一瞬部屋が静まり返った。
「……手紙? なぜ私に手紙など」
「私にスカーレット様の代筆者や王女殿下の指南役になる実力があるのかお疑いのようでしたので、これはもう実際にお手紙を書いて、それを読んでいただくのが良いのではないかと! もしお認めいただけたら、ぜひエルヴィール様からお返事をいただけるととても嬉しいです!」
「嬉しいですって、なぜ私が返事を……」
困惑しきった顔でエルヴィールは呟き、黙りこむ。
イネスたちも顔を見合わせるが、リゼットの真意を測りかねているようだ。真意もなにも、そのままなのだが。
「……返事を書けば、王太子殿下には今日のことを秘密にしていただけるの?」
「ああ、そんな! 強請っているわけではありません! 返事の有無は関係なく、殿下に今日のことをお話しするつもりはありませんので、ご安心ください」
胸を張るリゼットに、なぜかヘンリーが何かに耐えるような顔をして小刻みに震えている。
その横では王女がため息をついていた。
「……どうして、そんなに良くしてくださるの? 私は愚かにもあなたの義姉にそそのかされて、本当は非のないあなたにひどいことをしたのでしょう?」
「そうかもしれませんが、それよりもエルヴィール様が心配なので。このままではエルヴィール様がとても傷つくことになるのではないかと思うと、何もせずにはいられないと申しますか。餌食、いえ、被害者を減らしたいと申しますか……」
色々と正直に話してしまうわけにはいかないので、どうしても曖昧なことしか言えない上に語尾が尻すぼみになってしまう。
もどかしく思っていると、「なるほど……」とそれまで黙って見ていた王女が動いた。
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