55通目【悪意の浸食】
様子を見ていたらしいスカーレットは、少し考えて「行っておいで」と笑顔でうなずいてくれた。
「お祖母様、しかし」
「ウィリアム。リゼットの安全のために休憩室まで分けたのはお前だろう?」
「それはそうですが……」
「廊下には衛兵もいる。心配はいらないさ。それに……せっかくデビュタントを迎えられたんだ。リゼットにも友人を作る時間は必要だろう」
「ありがとうございます! 休憩したら戻るようにしますので」
「私も王に呼ばれたから少し二階に行ってくる。また後で」
笑顔のスカーレットと、難しい顔をしたままのウィリアムに見送られ、リゼットはイネスと聖樹の間を出て休憩室へと向かった。
休憩室にひと気はなかったが、テーブルにクッキーやチョコレートなどのお菓子や果物、それに小さなサンドイッチなどの軽食が並べられていた。飲み物もワイン以外にも何種類も用意されている。
「控えている給仕に言えば取り分けてくれますわ」
イネスはとても親切で、舞踏会が初めてのリゼットをフォローしてくれた。所作もとても上品で、生粋のお嬢様とはこういう人を言うのだろう。
いや、付け焼刃でもあのスカーレットが指導してくれたのだ。自分もきっと一端の令嬢らしく仕上がっているはず。自信を持たなければ。
こんなご令嬢とお近づきになれるなんて、本当になんて素晴らしいデビュタントだろう。
舞踏会にリゼットが参加できるよう取り計らってくれた、王女やスカーレット、ウィリアムに感謝していると、休憩室に他の招待客が入ってきた。
給仕から果実水を受け取り振り返り、ギクリとする。
休憩室に現れたのは、王太子と話していた令嬢だった。新たな婚約者候補なのだろうと思った相手が、数名の令嬢を連れてこちらに向かってくる。
アンリと踊っているところを見られていたとしたらまずい。何せ彼は婚約者候補を差し置いて、王女レオンティーヌの次にリゼットをダンスに誘ったのだから。
見られていませんように、と強く願ったが、その願いは届かなかった。
「はじめまして。リゼット・フェロー子爵令嬢。ジオネ侯爵家のエルヴィールと申します」
エルヴィールと名乗った令嬢は、はっきりと敵意のこもった目でリゼットをねめつけた。
これは間違いなく先ほどのダンスを見られている。思わず頭の中でアンリに恨み言を叫んでしまった。
「は、はじめまして。エルヴィール様」
「……イネスさん。ご苦労様」
エルヴィールが隣のイネスに声をかけたので、リゼットはギョッとする。
イネスはバツが悪そうにおじぎをすると、ささっとエルヴィールたちの後ろに移動した。離れるときに小声で「ごめんなさい」と言われてはじめて、ようやく自分が休憩所に誘導されたことに気づいた。
絶望的なまでに鈍い自分にショックを受けつつ、リゼットはさっと部屋に視線を走らせる。
(給仕がいなくなってる……?)
いつの間にか、テーブルの横にいた女性給仕が姿を消していた。彼女もまたエルヴィール嬢の息がかかったものだったのかもしれない。
こうなると、廊下にいた衛兵も怪しくなってくる。リゼットが助けを求めても誰も来ない可能性が高い。
「リゼットさん。どうして王太子殿下があなたをダンスに誘われたのかご存じ?」
「それは……」
どうしよう。何と答えるのが正解かさっぱりわからない。
たぶん誘ったのはからかい目的です。そうやって自分やウィリアム、周りの反応を楽しんでいるのです。
そう正直に答えられたらいいのだが、いくらなんでも王太子への不敬に当たる。たとえそれが真実であったとしてもだ。
なんて厄介な、と内心頭を抱えていると、エルヴィールに詰め寄られ思い切り足を踏まれた。
「い……っ」
「王族の皆様に取り入るのが随分上手なようね」
「と、取り入るなんて。そのようなことは……」
「とぼけてもムダよ。あなたの義理の姉君から聞いたわ。姉君の筆跡を自分のものだと吹聴して、王女殿下の指南役になったそうね?」
ここでジェシカの名前が出るとは思っていなかったリゼットは、唖然とした。
まさかこんな風に他人を使って、間接的に嫌がらせをしてくるとは。どうしてあの人はこんなにも憎しみを向けてくるのだろう。
「実力もないくせに女伯に取り入り、王女殿下に近づき、狙っていたのは王太子殿下の隣なのでしょう? 王宮でも人目もはばからず迫っているそうじゃない」
「何て恥知らずなのでしょう!」
「汚らわしいわ!」
「デビュタントだからと、お優しい王太子殿下が一曲踊ってあげただけなのに、勘違いしているのではなくて?」
優しい? あの王太子が?
勘違いしているのはエルヴィールのほうではないだろうか。そう言いたくても言えないのがもどかしい。
どうやら王太子の新たな婚約者候補は、彼を見た目通りの物腰柔らかで繊細さと清らかさを持つ天使のような王子だと思い込んでいるようだ。
(大変だわ。勘違いしたまま結婚なんてことになったら……)
あまりにも目の前の令嬢が不憫で同情してしまい、それが顔に出たようで、恐ろしい形相で睨まれた。
「何なのその目は。選ばれるのは自分だとでも言いたいの?」
「い、いえ。むしろ絶対に選ばれたくはないと言いますか……」
「どういう意味⁉」
「も、申し訳ありません!」
思わず本音が漏れてしまい、慌てて自分の口を塞いだがもう遅い。
エルヴィールは我慢ならないと、他の令嬢に「やってちょうだい」と指示を出した。
控えていた名前も知らない令嬢たちが、リゼットの肩や腕を押さえこんでくる。リゼットをここまで連れてきたイネスは青い顔でおろおろと周囲をうかがっていた。
「リゼット・フェロー。あなたのような汚れた心を持った方は、王宮には相応しくないわ」
「何を……やめてください!」
エルヴィールがテーブルからワインボトルを取ると、グラスにたっぷりと注ぎ、それを勢いよくリゼットのドレスにぶちまけた。
「わかったら。さっさと家に帰ることね。お優しい義理の姉君が馬車を用意してくれているそうよ」
避けることもできず真正面からワインを浴びたリゼットは、濃厚な香りに酔いそうになりながら、自分の体を見下ろした。
ワイン色に染まってしまったドレスにぼう然とする。せっかくスカーレットがリゼットを想い用意してくれた、特別なドレスなのに。
「身のほどを知りなさい。あなたのような方には社交の場に出てほしくないわ。家に帰って貴族のふるまいを勉強することね」
エルヴィールたちの馬鹿にするような笑い声にも、リゼットは反応できずにいた。
ただただ、悲しかった。もっと早くに気づいて逃げ出していれば、妖精のドレスを守ることができたのに。
「あなたの言葉、そのままあなたにお返しいたしますわ」
突如、部屋に凛とした声が響いた。




