【折られた絆】
「何を、言って……」
「あんたが世話になってる、女伯爵もいずれそうなるわ。だからリゼット、あんたはうちに戻ってくるべきなのよ。デビュタントも迎えていないグズが、王女に指南なんて笑わせるわ。あんたはね、あたしたちの代筆だけしてればいいの。それだけで不幸になる人を減らせるわ」
そう思わない? とジェシカは口調だけはぞっとするほど優しく囁いた。
だがその表情は冷めきっていて、リゼットは何か得体の知れない恐ろしさを感じ、いますぐこの場から逃げ出したくなる。
(でも……)
机の上で拳を握り、一度ぎゅっと目を閉じたリゼットは、恐怖を振り払うよう目を開く。
もう逃げてばかりではいられないのだ。
「それは、出来ません」
「……は?」
「一度お受けした仕事を投げ出して、家に戻ることなどできません。それはあまりにも、スカーレット様や王女様に失礼です。……お義姉様たちが代筆をご所望でしたら、もちろんお手伝いします。そのときはどうぞご依頼ください」
もしかしたら、ジェシカがリゼットに会いに好まない図書館にまで来るほど、手紙の返事が滞っているのかもしれない。
それで帰ってこいと言っているのかも、と思ったリゼットの言葉だったが、ジェシカは動きを止めたまま身体を震わせはじめた。
真顔で小刻みに震える姉の様子に尋常ではないものを感じ、リゼットはパタリと本を閉じた。
ノートや文房具を片付け、ジェシカの手の中にある万年筆を最後に納めるべく手を伸ばす。
「……お義姉様。それを返していただけますか?」
ジェシカはリゼットの問いかけのあと、ようやく震えを止めたかと思えば、万年筆を後ろの男に手渡した。
「あんたって、本当にバカね」
これまで何度も何度も繰り返し聞かされた、リゼットを嘲る言葉が吐き出されるのと同時に、男が万年筆を持つ手に力をこめるのがわかった。
思わずリゼットは音を立てて立ち上がる。
「やめて!」
そう叫んだ瞬間、バキリと砕ける音がした。
破片が男の手からぱらぱらと落ちる。
まるで花を手折るかのように、いとも簡単にリゼットの宝物は壊されてしまった。
あまりにも軽々しく、リゼットの思い出と尊厳は傷つけられたのだ。
あの万年筆で手紙を書いていた、母の姿が脳裏によみがえる。
丁寧に手入れをされ使われていた万年筆。リゼットが受け継いでからも、大事に大事に使ってきた。
きっリゼットに寄り添い力を貸してくれていた妖精も、大切に思っていたことだろう。
突然声を上げて立ち上がったリゼットに、周囲の視線が集中した。護衛騎士が「リゼット様?」と駆け寄ってくる。
「あんたの大切な人をこんな風にされたくなければ、さっさと戻ってきなさい」
愉悦のにじんだ声で言い捨て、ジェシカは席を立った。そのまま何食わぬ顔で男を引きつれ去っていく。
リゼットは砕かれて捨てられた万年筆を前に、ただぼう然とすることしかできない。
「どうしました、リゼット様? いまの令嬢と何か?」
言いながら、騎士が入口の別の護衛に向けて何か合図を送る。
捕まえるか聞かれ、リゼットは震える手で万年筆の残骸を拾いながら首を振った。
たとえジェシカを捕まえたところで、彼女は何も反省などしないどころか、リゼットへの言動を認めることさえしないだろう。それくらいはわかる。
ジェシカの悪意は、気づかないふりをし続けるにはあまりにも強く、執拗すぎた。
「そ、それより、スカーレット様の所へ行ってくださいっ」
「ハロウズ伯爵の……? 王宮に向われるということですか?」
「私ではなく、あなたが。それでウィリアム様に伝えて、スカーレット様を守ってください。早く」
「一体何があったのですか? やはり先ほどの女性が……」
「いいから、お願いします!」
騎士は入口にいたもうひとりが戻ってきたのを見て彼を呼ぶ。
彼を遣いに出すから詳しく話してほしいと言われるが、リゼットは落ち着いて考えることが出来ずに首を振る。ただ、スカーレットとウィリアムが危ないかもしれないから守ってほしいと伝えるので精いっぱいだ。
「わかりました。ウィリアム様にそのまま伝えますから。まずはハロウズ邸に戻りましょう」
リゼットはまじまじと騎士の顔を見つめ、やがて首を振った。
安全なハロウズ邸に戻りたいが、その前にやらなければならないことがある。
「お屋敷に戻る前に、行きたいところがあります。このあと向かう予定だったワロキエ商会に」
「ですが……」
「お願いします。いますぐ行きたいのです。こんな……こんなこと」
万年筆の砕けた小さな欠片もあますことなく拾い、ハンカチに包んで胸に抱く。
(ごめんなさい、本当に、ごめんなさい……っ)
心の中で謝罪を繰り返しながら、リゼットは唇をきつく噛みしめる。
誰に、何に謝っているのか自分でもはっきりとしないまま、何度も何度も謝った。
「ワロキエ商会に、行きます」
彼なら、もしかしたら――。
モノクルの美貌の紳士を思い浮かべたリゼットは、彼に一縷の望みをかけて歩き出すのだった。
***
「申し訳ございません。商会長はただいま商談中でして」
リゼットがワロキエ商会に飛びこむと、応対してくれたのはジーンではなく商会員の若い女性だった。
ジーンはいま別の顧客の対応をしているという。
「い、いつ頃終わる予定でしょうか? 私、はやくジーンさんにお願いしなければならないことがあって、どうしても、伝えなくちゃいけなくて……」
言いながら、リゼットは自分がめちゃくちゃなことを言っていると頭ではわかっていた。
今日は予約をしていたわけではないし、急いだところで万年筆の状態が良くなるわけではない。
それがわかっているのに、なぜ逸る気持ちが止められないのか、自分でも理解できなかった。
「……リゼット・フェロー様。こちらにおかけになってお待ちください。ただいま確認してまいります」
ロビーのソファーに促され、腰かけると、柔らかな座面に包まれた。
少しほっとしたが、手の中にあるハンカチの包みを目にすると、やはり胸が苦しくなり体が震える。
「リゼット様?」




