筆休め【悪巧み】
その夜、予定より遅れて帰宅したフェロー子爵は、厳しい顔をしていた。
頼みごとをするのなら今日ではない。それは明らかだったのに、母メリンダは耐えきれずおずおずと夕食をとる子爵に話しかけてしまった。
「あなた、あの女伯から返事は来たのですか?」
子爵は答えず、ワイングラスを傾ける。
眉間のシワは濃くなるばかりだが、母はそれでも続けた。
「いつまでリゼットを女伯に預けているおつもりですか? あの子はフェロー家の娘ですよ。まさか、ハロウズ伯爵の養子にするおつもりで?」
「……そんなことは考えていない」
「でしたら期限を決めませんと! このままずるずると長引かせれば、女伯から養子縁組の話を出されるかもしれませんよ」
「ありえない。リゼットはフェロー家の嫡子だ。伯爵もそこまで他家のことに首を突っこむことはなさらない」
ジェシカは伯爵のセリフにぎりりと奥歯を噛みしめる。
フェロー家の嫡子。まだそんなことを言っているのか。
あのどんくさく、手紙を書くことしか能のないリゼットが、爵位など継げるはずがない。
だからこそジェシカが人脈を広げているのではないか。
夜会と聞けば出かけ、より条件の良い男を探し、いまでは社交界で筆跡の美しい“注目の令嬢”という立場に上り詰めた。
それはリゼットの代筆があったからで、いま立場は揺らぎつつあるが、義妹がこの家に戻ればどうとでもなる。
ジェシカが良い婿を取り、子爵家を継ぐ。そしてリゼットには代筆者としてジェシカを補佐させる。
フェロー家にとってそれが一番理想的な、あるべき形だ。それが一番うまくいく。
そう、ずっと、うまくいっていたはずなのだ。
「わからないではありませんか! 事実、あなたのお手紙を無視してリゼットを返さないのですから!」
「元はといえば、お前が伯爵からの手紙を勝手に処分していたからだろう!」
テーブルを叩き、声を荒げた子爵に驚いて執事やメイドが飛んでくる。
こぼれたワインや汚れた皿を下げ、使用人たちが出ていくと、子爵は頭が痛いとばかりにため息をついた。
「ハロウズ伯爵には面会の申しこみもしている。だがそれが叶ったとしても、伯爵は簡単にリゼットを家に戻すことはなさらないだろう」
「なぜです! 自分の娘でもないのに!」
「そう。この家には自分の娘でもないのに、あの子をいいように利用する母親がいるからだ」
冷たく言い放った伯爵に、メリンダが愕然とした顔をした。
控えている使用人たちも、顔を見合わせ何事か囁いている。
その様子にジェシカは内心舌打ちした。この男は、いまさら一体何なのだ、と。
「私は、あの子の母親ですが……?」
「義理のな。血の繋がりがなくても、娘を大切にする母親もいるのだろうが、お前はあの子に何か母親らしいことをひとつでもしたことがあったか」
「もちろんです! 子爵家の娘として必要なマナーを教えていました! 手紙の代筆もその一環で……」
「リゼットに教えていたのなら、お前も自分でできるはずだろう。ならばリゼットを呼び戻すことなく、たまった手紙の返事くらい自分で書けるはず。そうだな?」
「それは……っ」
母が続く言葉を見つけられずうつむいたとき、ジェシカは思わず本音をこぼしていた。
「自分だって、父親らしいことなんてしていなかったくせに」
その呟きは、思いのほか食堂に大きく響いた。
子爵も、母も、使用人たちも、ジェシカを見たまま動きを止めている。
これまで子爵の前では殊勝な態度を心がけていたジェシカだったが、もういいやと投げやりな気持ちになっていた。
どうせこの男は、結局自分と血の繋がりのあるリゼットを優遇するのだ。
「……ジェシカの言うとおりだ。だから私は、正直いまのこの家にあの子を呼び戻したいと本気で思ってはいない」
「あなた!」
「それにハロウズ伯爵がリゼットを返すとしたら、それは私が覚悟を決めたときだろう」
「覚悟……? とは、何の」
「離縁し、お前たちをこの家から追い出す覚悟だ」
子爵の重々しい宣告に、食堂が静まり返る。
ジェシカは手のひらに爪が食いこむほど握りしめ、子爵を睨みつけた。
「あ、なた……そんな、離縁だなんて」
「……もしくは、お前たちを別宅に移し、別居するかだ。それでスカーレット様が納得されるとは思えないが」
「なぜそこまで女伯の意向を気にしなければならないのですか! 私たち夫婦のことですよ⁉」
「忘れているようだが、彼女は先王殿下の妹君だ。降嫁されたとはいえそれは変わらない。そして先王殿下は王位を退かれたとはいえ、いまだ影響力の強いお方だ。しかも妹君を溺愛しておられる。わかるか? スカーレット様を敵に回すということは、王家を敵に回すのと同義なんだ」
フェロー家など簡単に潰される。父はそう言いたいのだろう。
身分制度がある限り、王族の命令が絶対であることは揺るがない事実だ。
(気に入らないわ。せっかく貴族になっても、結局まだまだ上がいてキリがない)
誰よりも自分が一番上に立つ、という安心感と優越感に浸るのは不可能なことのだろう。
だとすれば、やはり自分よりも不幸な人間を増やすしかない。誰かが不幸になればなるほど、相対的にジェシカが幸せになれる。
そしてジェシカが愉悦を覚えるには、特に身近な人間に落ちぶれていってもらうのが手っ取り早いのだ。
だからリゼット・フェローには、どうしても不幸になってもらわなければならない。だというのに――。
「……今日、王宮で近衛騎士が剣を抜き私闘を行う騒ぎがあった」
突然フェロー子爵がそんなことを言い、厳しい顔をしてジェシカを見た。
「騒ぎを起こした近衛騎士は謹慎の処罰を受けた。デュシャン伯爵の子息、シャルル殿だ」
「シャルルが……?」
あの腹の中はたいして美しくもないくせに、外面だけは誰よりも整えているシャルルが処罰を受けるなど、にわかには信じがたい。
だが、あの男が問題を起こすとしたら原因は何かを考えたとき、ジェシカはハッとした。
「リゼットですか? リゼットが王宮にいたんでしょう!?」
「……そうだ。シャルル殿がリゼットを連れ戻そうとして、居合わせたアンベール子爵……ロンダリエ公爵家のご子息に阻まれ、剣を抜いたらしい。そのことで私も呼ばれ聴取を受けた」
「なんでリゼットが王宮に⁉ デビュタントも済ませてないくせに!」
「王女殿下の代筆者が、リゼットに決定したそうだ。今日はその選定で参殿していたらしい」
「は……?」
あのリゼットが、本当に王女の代筆者になった?
ジェシカは冗談だろうと笑いそうになったが、子爵はなぜか父親面でどこか誇らしげに「三蹟の弟子たちが候補者として集まり競った」とか「その中で王女殿下直々にリゼットが指名された」とか「王太子殿下までリゼットの手紙を褒めていた」などと聞いてもいないのにぺらぺらと語った。
子爵がリゼットの功績を語れば語るほど、怒りが魂の底から湧いてくる。
シャルルも本当に使えない。あれだけ焚きつけてやったのに、まるで役に立っていないではないか。
「あなた、リゼットが外で代筆をすることに反対していたんじゃ?」
「それは……いまも、そうだ。ただ、娘の成長が誇らしいだけで。と、とにかく、これ以上フェロー家の恥をさらすわけにはいかない。お前たちはくれぐれも問題を起こすことのないように。手紙の返事は自分でやるか、他の代筆者を探せ」
子爵はまた問題を起こすようなら離縁を覚悟するようにと言い残し、自室へと去った。
母は悔しそうだったが、それ以上に手紙の返事をどうするかのほうが重要らしく、どうにか代筆者を探さなければと、メイドにこれまで届いた手紙を集めるよう指示を出している。
ムダなことだと、ジェシカは冷めた目でそれを見ていた。
どうせ他の誰を代筆にしたとしても、リゼットの筆跡には遠く及ばないだろう。
リゼットはやはり手元に置いておくべきだ。
そうすれば誰よりも近くで、リゼットの不幸に涙する姿を楽しむことができる。
「あんただけ幸せになんて、させないから……」




