4通目【長い夜の終わり】
スカーレットたちの見送りに外へ出たとき、ちょうど馬車が一台駆けこんできた。
馬車から降りてきたのはリゼットの父、フェロー子爵だ。義母たちは一緒ではないので、邸からの報告が行って仕事終わりに王城から直接駆け付けたのかもしれない。
父は出てきた瞬間から顔色が悪かったが、スカーレットを見て更に顔面を蒼白にした。
「久しぶりだね、フェロー子爵」
「ハロウズ夫人……なぜ、あなたが」
混乱しているのか、挨拶も返さず礼も取らない子爵に、スカーレットがスッと目をすがめた。
「いま私は伯爵夫人ではない。ハロウズ伯爵だ」
「……失礼いたしました、ハロウズ伯爵。それで、本日はいったいどのようなご用件で我が邸に?」
「白々しい。こちらからの手紙を散々無視しておいて、なおその態度か」
えっ? とリゼットは父の顔をうかがった。
しかし父もまた、リゼットと似たような戸惑った顔をしている。
「手紙……? まさか」
「はぁ……飽きれた。お前は妻の手綱を握るのはおろか、使用人の教育すら出来ないのかい」
愕然とした様子の子爵に、スカーレットは失望したとばかりにため息をつく。
「何度セリーヌの墓を参りたいと、リゼットに会わせてほしいと送ってもなしのつぶて。いい加減たえかねてこうして直接訪ねたわけだが……正解だったね」
「大変、申し訳ありません……」
「天国のセリーヌも泣いているだろうよ。こんなに愚かな夫の元に、大切な娘をひとり残していかなければならなかったことを」
まだまだ続きそうなスカーレットの苦言に、ウィリアムが「お祖母様」静止の声をかける。
父が助かったとばかりにそちらを見たが、ウィリアムはウィリアムで威圧感たっぷりの上背と鋭い目つきで父を震えさせた。
「ふん。……フェロー子爵。いや、ダニエル。リゼットに私の代筆をしてもらうことになった」
「……は? 引き受けたのか、リゼット⁉」
焦ったように振り向く父に、リゼットは控えめながらうなずいた。
まさか、反対されるのではと不安になる。せっかく心躍る素敵な役目をもらったのに。
「はい。お引き受けしました。ダメ、ですか? スカーレット様は、お母様の先生だったのですよね?」
しかし父は、怒りに満ちた表情でスカーレットと向き直ると「お帰りください!」と叫んだ。
「お父様!?」
「貴女はまた私から家族を奪う気か⁉」
「奪う? 何を言っている。セリーヌは病気で亡くなったのだろう」
スカーレットの言う通りだ。それにセリーヌが病に倒れるよりも前にスカーレットも病を患い、領地に移り療養していたと言っていたはずだ。
「貴女が私の妻に余計なことを教えたから、妻は無理をして身体を壊したんだろう!」
「セリーヌは手紙が好きだったんだ。だから私はその世界を少し広げてやっただけだ」
「だが彼女の手紙が評判になればなるほど、彼女に届く手紙は増え、仕事も雑事も抱えきれないほど膨れ上がった! 貴女を師事しなければ、セリーヌは死ぬことはなかったんだ!」
初めて聞く父の慟哭のような叫びと母の過去に、リゼットは驚くことしかできない。
スカーレットはしばらく沈黙したあと、深いため息をついた。
「だから、リゼットを社交界に出さず、邸に閉じこめたのか?」
「娘を母親の二の舞にさせるわけにはいきませんから。私なりにこの子を守っているのです」
「守る? 飼い殺し、使い潰すの間違いだろう?」
スカーレットの鋭い指摘に、一瞬父が口ごもる。
「……私がいなくなってから、セリーヌは更に無理をしていたんだね。だがダニエル。リゼットを本当に守りたいのなら、お前がやるべきなのはリゼットに自分を大切にする術を教えることじゃないのか」
「それは……」
「すでにリゼットの代筆した手紙は、社交界で評判になっている。このままではお前の後妻とその連れ子に、リゼットはいいように使われ続け、身体を壊すことになるんじゃないのかい」
「……メリンダたちには、もうリゼットに代筆させないよう言い含めます」
「それを素直に聞く女ならいいがな」
スカーレットが鼻で笑い、父は上手く反論することが出来ず黙りこんだ。
いましかない、とリゼットは父の腕をつかんだ。
「お願いします、お父様! やらせてください! どうしても、スカーレット様のお役に立ちたいのです!」
「お前は、どうして……」
父が渋い顔をする。反対される、とリゼットは身構えたが、父は俯いただけだった。
スカーレットが肩を下ろし、一段声を和らげた。
「もちろん報酬は払う。リゼット個人にね。必要ならダニエルにも別に支払ってやろう。何か問題はあるか?」
「いえ……かしこまりました」
「リゼットには私の邸に通ってもらうことになる。明後日、迎えを出す。……余計なことをさせるなよ、ダニエル」
「……承知しました」
スカーレットの念押しに、父は下げていた頭をさらに深く下げた。
それに満足したようにうなずくと、スカーレットはそれまでの厳しい表情は嘘だったかのように、優しく微笑んだ。
「では、リゼット。明後日邸で待っているよ。今夜は会えて嬉しかった」
「私もです、スカーレット様。明後日またお会いできるのを楽しみにしております!」
リゼットが心からそう言うと、スカーレットは頭を撫でてくれた。幼い頃、同じようにしてくれた母の手を少し思い出した。
ふたりを乗せた馬車が邸を出ていくのを、リゼットは最後まで見送った。
馬車が見えなくなっても、その場から動くことができない。そうしていないと夢から覚めてしまいそうで。
「お会いできてよかった……。スカーレット様はとても美しくて、かっこよくて、優しい方ですね! 憧れの三蹟のおひとりがあんなに素敵な方で、しかもその方の代筆をさせていただけるなんて、夢のようです」
興奮のままリゼットが言うと、父は一瞬、眩しいものを見るような、痛ましいものを見るような、複雑な顔をした。
「結局お前も……いや。彼女はいまだ社交界に影響力のある方だ。粗相のないようにしなさい」
「はい! あの、許可してくださり、ありがとうございます。お父様」
「勘ちがいするな。賛成したわけではない。……無理だと思ったら、伯爵にどんな圧をかけられようと代筆は辞めさせる」
厳しい声で言われ、リゼットは顔をキリリとさせてうなずく。
「フェロー家の評判に傷をつけるなということですよね。わかっています。スカーレット様の顔にも泥を塗ることにもならないよう、精いっぱい努めますから!」
リゼットの気合をたっぷりこめた言葉に父は表情を険しくしただけで、何も言うことはなかった。
だがなぜか邸に入っていく背中が少し、寂しげに映るのだった。
***
ハロウズ伯爵家の馬車の中では、祖母と孫は無言で向かい合い座っていた。
カラカラと車輪の回る音と小窓からの月明かりが、馬車内を満たしている。
ウィリアムは元々口数が多いほうではない。スカーレットは無口ではないが、余計なことは口にしない性質だ。ふたりになると、自然と静寂が訪れる。
ウィリアムにとっては悪くないと感じる、数少ない時間だ。
「どうだった?」
ふと、窓の外を眺めていた祖母が口を開いた。
紅を塗った唇をキュッと楽しげに引き上げてこちらを見ている。
「どう、とは?」
「リゼット。可愛い子だっただろう」
先ほどまで会っていた、小柄な娘の姿を思い浮かべる。
世間知らずで、人畜無害。リゼット・フェローの印象はそんなものだ。
「さぁ。ただ……私を怖がりませんでした」
ウィリアムの見た目が、軍人らしく女子どもに慕われるものではないことは、自他ともに認めるところだ。大抵は怯えられるか泣かれるかだが、リゼットはどちらでもなく、ただじっとウィリアムを見上げていた。
「そうだね。あれはお前をじっと観察する目だった。きっとお前のその目立つ容姿を表現する文章でも考えていたんだろう」
くつくつと笑う祖母は、いつかを懐かしむように目を細める。
実の孫より、教え子の子のほうが可愛いようだ。
可愛い部分など欠片もない自覚があるウィリアムに、特に思うところはない。ただ——。
「それより、彼女が本当にそうなのですか」
「ああ。友人の元に届いたあの子からの手紙は、間違いなくね」
「それは、お祖母様と同じということでしょうか」
「どうだろう。まったく同じかと言うと違う気がするが、まだわからないね」
だが、すぐにわかるだろう。
スカーレットはどこか確信しているように言う。ウィリアムにはさっぱりだが、きっと祖母たちのような特別な人間にしかわからない何かがあるのだろう。
「これから楽しくなりそうだ……」
呟いた祖母の瞳は、以前より活力に満ちて見えた。
病を患い、夫を亡くし、気落ちしていた祖母が昔の溌剌とした姿を取り戻しつつある。
それはあの小動物のような、とぼけ――無害な少女のおかげなのだろう。
ウィリアムは見上げてくるリゼットの顔を思い出し、つい漏れた笑いをかみ殺すのに苦労したのだった。