3通目【女王の依頼】
慌てて使用人たちに指示を出し、なんとか客人ふたりを客間に案内することに成功する。
しかし初めてのおもてなしという大仕事に、リゼットはすっかり緊張してしまっていた。
使用人たちも大丈夫なのかとハラハラした様子だったが、いまフェロー家で邸に残っているのがリゼットしかいないのだ。客人の相手を使用人がするわけにはいかない。
引きこもりだろうが何だろうが、リゼットがお相手するしかないのである。
とにかく、王族にするように恭しく丁寧に対応することを心掛けた。
「で、では、母はスカーレット様のサロンで手習いを賜っていたのですね」
「そう。三年ほどいた。誰よりも手紙に対する熱意の高い子だったから、すぐに私の手を離れたがね。他の者にはない才能もあった」
ティーカップ片手に、スカーレットが懐かしさを滲ませながら語る。
紅茶に落ちる視線は穏やかだが、どこか寂しげにも映った。
「信じられません……母が三蹟のおひとりの弟子だったなんて」
「私はお前に会ったこともあるよ」
「ええっ⁉ ほ、本当ですか⁉ どうしましょう……全然覚えていなくて」
「赤ん坊の頃のことだからね。とても小さく生まれて、セリーヌはいつもお前を心配していた」
母の名前を久しぶりに聞いたリゼットは、じんと鼻の奥が熱くなった。
もう誰も、父さえも母の名を口にすることがなくなって久しい。数少ない母の絵も写真も、持っているのはリゼットだけだ。
自分と同じように母の存在も忘れ去られてゆく。そのやりきれない想いが、スカーレットによって救われていくようだった。
「真っすぐで一生懸命な良い子だったのに、私より先に逝ってしまうとはね……。神様ってのはつくづく残酷だ」
「確かに母は早くに亡くなりましたが、スカーレット様と母は、それほど離れていないのではありませんか?」
スカーレットの言い方が不思議でそう尋ねると、女伯は目を丸くしてまた弾けるように笑った。
「あはははは! 本当に面白い子だね」
「えっ? えっ? 私、何かおかしなことを……?」
なぜ彼女が笑うのかわからず戸惑っていると、それまで黙ってスカーレットの背後に立っていたアンベール子爵こと、ウィリアムがため息をついた。
ウィリアムにも席を勧めたのだが、今日はスカーレットの護衛だからと固辞されたのだ。スカーレットは放っておいていいと言うが、先ほどからリゼットは厳めしい表情で目の前に立ったままでいるウィリアムが気になって仕方がなかった。
「リゼット嬢。この人は私の父方の祖母に当たる」
「……え?」
ウィリアムの言葉に、リゼットはふたりの顔を交互に見た。
祖母? ということは、ウィリアムは孫?
ハロウズ伯爵家とロンダリエ公爵家のふたりは、一体どんな関係だろうかとは思っていたが、まさか本当に?
しかもウィリアムはロンダリエ公爵の嫡男だ。ということは、王女を母に持つ現公爵の子。その祖母であるスカーレットは、伯爵と名乗っているが王女様なのでは。
(王族に接するようにと思っていたら、本当に王族だった……)
「つまり、お前の母は、私にとっては娘のような年に当たる。実際、私の娘であるウィリアムの母親は、セリーヌのふたつ上くらいだ」
「えええっ⁉」
告げられた真実にマナーや作法が頭から吹き飛び、リゼットは素直に心のままに驚いた。
スカーレットの髪や肌には確かに年を重ねた証は刻まれているが、とてもそこまで高齢には見えない。内側から発光するような美しさや、洗練されつくした所作がそう思わせるのだろうか。
ウィリアムの母、と言われたほうがずっと信じられる。
「お祖母様。年若い令嬢をからかうものではありません」
「私は何もしていないだろう。若く見えすぎても良いことなんて何もない。見せたい人ももういないしね」
そう言ったスカーレットの表情があまりにも悲しげだったので、リゼットは慌てて話題を変えるべく身を乗り出した。
「あ……あの! それで、本日は我が家にどのようなご用件でいらっしゃったのでしょう?」
「そうだった、肝心なことを話していなかったね。今日はリゼット、お前に頼みたいことがあって来たんだ」
「私に、ですか? でも私は、デビュタントもまだの半人前ですが……」
そんな自分に頼みだなんて、とリゼットが不思議な気持ちで首を傾げると、スカーレットはカップを置いてため息をつき、ウィリアムはわずかに眉を寄せた。
「お前が十六になるのにデビュタントを迎えていないのは問題だが、私の頼み事にはとりあえず支障はないよ。頼みというのは、他でもない。お前に私の代筆をしてほしいんだ」
「……え? 代筆、ですか? 私が代筆……って、スカーレット様の⁉」
彼女の代筆をするということは、ルマニフィカ王国の誇る三蹟のひとり、スカーレット・ハロウズの代筆をするということだ。とんでもない大役である。
突然降ってわいた話に、リゼットは一瞬頭が真っ白になったが、すぐに疑問が浮かぶ。
「あ、あの……三蹟のおひとりであるスカーレット様が、なぜ代筆を……?」
「ああ、その話がまだだったね。私は病を患ってね、長く王都を離れ領地で療養していたんだ。その間にセリーヌが亡くなり、葬儀に行くことも出来なかった。すまなかったね」
「そうだったのですか……。とんでもない、そのお気持ちだけで十分です。ご回復されて何よりです」
「ありがとう。まあ、病は治ったんだが、後遺症が残ってね。これがリゼットに代筆を頼みたい理由だ」
そう言って、スカーレットは自身の右手を挙げて見せた。
軽く握りこんだように形で固まったその手は、よく見ると小刻みに震えている。
ハッとリゼットが顔を上げると、スカーレットはどこか皮肉げな笑みを浮かべて右手を下げた。
「命は助かったが麻痺が残ってしまった。それもペンを握る右手に。これでも大分動くようになったが、いまだティーカップも持てやしない」
言われて初めて、それまでスカーレットが左手でティーカップを持っていたことに気がついた。
馬車から降りてきたとき、ウィリアムの手を取っていたのは左手。握手を求め差し出されたのも、確かに左手だった。
「まったく気がつきませんでした……」
「簡単には気づかれないくらいに振舞えるようになったから、ようやく王都に出てきたのさ。だが知名度だけ残っていても、実際はもう私は三蹟ではない。ペンも持てない私は、ただの老人だ」
「そんなこと……」
「いいんだよ。心残りはあるが仕方のないことだ。だがせっかく王都に戻ったんだ。友人たちと手紙の交流ができないのは寂しいと思っていたたんだ。そういうわけだからリゼット。私の代筆を頼まれてくれるかい?」
「私で……よろしいのですか? 私はデビュタントもまだで、誰も存在を知らないような、何者でもないただの小娘です」
正直、心が躍るような依頼だ。本当はすぐにでも、ぜひやりたいと引き受けたい。
けれどこんな自分がスカーレットの代筆を引き受けて、彼女に迷惑がかかってしまうのではないかという心配のほうが勝った。
しかしリゼットは、眉をひそめて首を振る。
「……お前にそう言ったのは継母かい? 知っているよリゼット。社交界ではいま、フェロー家母子の筆跡が素晴らしいと、話題になっているらしいじゃないか」
「そう、なのですか? 私は邸からほとんど出たことがありませんし、知り合いもいないので社交界のことはよくわからなくて」
「友人が見せてくれたんだ。そのフェロー夫人からだという手紙を。素晴らしいからぜひ読んでみてくれとね。確かに筆跡は美しく、引用されていた詩もセンスがあり、素晴らしい手紙だった。そして……筆跡があまりにもセリーヌのものと似ていた」
「あ……」
優しいスカーレットの微笑みに、じわりと熱いものがこみあげてくる。
「リゼットはいつも、どんな気持ちで代筆をしていた?」
「いつも……? あまり意識していませんでしたが、この方に良いことがありますようにと」
「そうか……伝わってきたよ。他の者には書けない、特別なものも感じた。確信したよ。これは現フェロー子爵夫人の直筆ではない、と。リゼットが代筆したものだろうとね。そんなお前に、私の手紙を代筆してほしいんだ」
とうとう、リゼットは涙を耐えることが出来なくなった。
顔を手で覆い、客人の前だというのにみっともなく泣き崩れる。
母が亡くなり、継母たちが来てからというもの、ずっとずっと自分の中でせき止められていた感情が、涙とともにあふれ出て止まらない。
「もう誰にも、私の存在など、知られることはないと……っ」
寂しかった。そう、寂しかったのだ。
世界でひとりぼっちになってしまったと。これから先もそうなのだろうと。そうやって半分諦めながら生きてきた。
嗚咽をもらして泣くリゼットの目の前に、そっとハンカチが差し出された。
いつの間にか後ろに立っていたウィリアムが、怒っているのか同情しているのか、よくわからない表情でこちらを見ている。
恐るおそるハンカチを受け取ると、隣にスカーレットが移動してきて、なぐさめるように抱きしめてくれた。
「私にはすぐにわかったよ。セリーヌの筆跡を見て何度も練習したんだろう。これまでよくがんばったね、リゼット」
ひとりぼっちの自分を見つけてくれるのは、父でも幼馴染のシャルルでもなかった。
母が、天国の母が遠くから連れてきてくれたのだ。
リゼットはハンカチで目元を拭うと、意を決して顔を上げた。
スカーレットの右手を取り、きりりと彼女を真っすぐに見つめる。
「スカーレット様。あなたの代筆、お引き受けいたします」
「いいのかい?」
「はい! 絶対絶対、やらせてください! 何でもします! お掃除でも、靴磨きでも、お庭の草むしりでも!」
スカーレットの為なら何でもしたい、という気持ちが溢れてそう言ったのだが、ウィリアムに「やるのは代筆だろう」とあきれたように言われ、やはりスカーレットに笑われてしまうのだった。
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