21通目【在りし日々】
本編の続きです。
母の名を呼んだ男性は、我に返ったように「失礼いたしました」と頭を下げた。
「申し訳ありません。あなたによく似た方がいたので、勘違いを……」
「待ってください! あの……セリーヌは、私の母の名前です」
「え……では、もしかしてリゼットちゃん!?」
驚いたようにリゼットの名を呼んだ男性は、慌てて自分の口を手で塞いだ。
周囲に人がいないことを確認して、ほっと胸を撫でおろしている。
「何度も失礼いたしました……」
「いえ。私のことをご存じで?」
男性は姿勢を正すと、丁寧に頭を下げた。
「申し遅れました。私はフィル・ビオ。王立図書館長を務めております」
リゼットはフィルが三十歳ほどに見えていたので、館長と聞いて驚いた。
館長、と役職につく人は何となく白髪や白ひげなど高齢のイメージだったが、こんなに若い館長だったとは。
フィルは警戒心を抱きにくい、柔らかな雰囲気をまとう誠実そうな男だ。
「私はリゼット・フェローと申します」
「ああ、やはり……。あの小さかったリゼットちゃんが、こんなに大きく……」
「フィルさんは、私をご存じなのですね。申し訳ありません。私は覚えていなくて……」
「覚えておられないのは当然です。セリーヌ様と一緒にここによく遊びに来られていたとき、あなたはまだこーんなにお小さかったのですから」
手で自分の膝の上あたりを示すフィルの目は、少し涙ぐんでいた。
「本当ですか? でも、この図書館は子どもは入館できないと聞きました。だから私、ここに来た記憶はうっすらあったのですが、記憶違いだったのかなと思っていて」
ああ、とフィルはおかしそうに目を細めて笑った。
その目はリゼットに誰かを重ねているように感じた。誰かとは、やはり母に違いないのだろう。
「確かに、当館は十四歳未満の入館はお断りしております。ただ、当時の図書館長はとても鷹揚な方でして。それに常連だったセリーヌ様とは、祖父と孫のような関係でとても仲がよかったので、リゼット様のことをひ孫のように可愛がっていたのです」
「まぁ……」
では、うっすらと記憶にある大人の誰かの存在は、その図書館長だったのだろうか。
とても優しい手に頭を撫でてもらった覚えがある。
「当時私は新人職員でしたが、あまりの溺愛っぷりにあきれてしまうほどでした。常連様のお子様であっても特別扱いするのはどうかと思っていたのですが、気づけば図書館員全員がリゼット様のとりこになっておりました。セリーヌ様が本を読まれている間、リゼット様を誰がお世話するか争奪戦でしたね。もちろんそこに当時の館長も含まれております」
「そ、争奪戦……?」
「リゼット様はとてもおとなしく愛らしいお子様でしたので。素直で笑顔が可愛らしくて、まさに天使のようでした。私どもはセリーヌ様がリゼット様を連れて来てくださる日を楽しみにしていたものです。ああ、でもセリーヌ様は最初、リゼット様を図書館長に紹介するためだけにお連れしたようでした。それを図書館長がまた連れてきてほしいとねだって、定番化したと記憶しております」
「定番化……」
どうやら幼い頃リゼットは、ここでこっそり過ごすことが常習化していたらしい。
何と言ったらいいのかわからず、リゼットは微妙な顔でフィルの話を黙って聞いた。「ご迷惑をおかけしました」と言うのも「その節はありがとうございました」と言うのも違う気がする。
「当時の館長がもういないのが残念です。三年前に退職いたしまして。お会いできていたらきっと若返るほど喜んだことでしょう」
「ふふ。私もお会いしてみたかったです。私、フィルさんたちにたくさんお世話になったのですね……」
「……あっ。そうだ、少々ここでお待ちいただけますか? すぐ戻りますので!」
そう言うなり、リゼットの返事も聞かずフィルは早足で去っていった。
ぼう然と見送り、リゼットはステンドグラスの窓を振り返った。
まだフィルは戻りそうにないので席につく。小さな空間に置かれた机の上で、運んできた本を一冊ぱらりとめくってみた。
どれくらいそうしていただろう。
ふと顔を上げると、フィルが目を細めて隣にたっていた。
「やっぱり似ていらっしゃいますね」
「私ったら、気づかずに申し訳ありません」
「いいえいえ。集中するセリーヌ様も、そのような感じでした。本を読まれる横顔そっくりで、時間が巻き戻ったのかと思ったほどです」
そんなに似ているのだろうか、とあまり自覚のないリゼットは自分の頬を撫でる。
最近立て続けに母に似ていると言われている気がして、不思議な気分だ。嬉しい、というのとも少し違う気がする。どちらかというと戸惑いのほうが大きい気がした。
「フィルさん、それは?」
フィルが手に持っているものに気づき、本のようだったので尋ねてみる。
彼は笑顔で「これをお渡ししたくて」と差し出してきた。
「こちらは、リゼット様がお絵描きに使われていたノートです」
「えっ⁉ 私が、お絵描きに……」
「前図書館長から、保管しておくよう渡され今日までお預かりしておりました。ご本人様にお返しできて感無量です」
本当に、フィルは心から喜んでくれているのが伝わってくるのだが、伝われば伝わるほどあまり当時を覚えていないことが申し訳なくなってくる。
このノートの絵を見れば当時を思い出すこともあるかもしれない、とリゼットはありがたく受け取った。
「それからこちらは、セリーヌ様が愛読されていた本です。セリーヌ様は読書家でいらっしゃったので、様々な本を読まれていましたが、この本は特に何度も借りられていたと記憶しております」
そうフィルから手渡されたのはとても古い装丁の本だった。
タイトルは『妖精と青い屋根のおうち』。
リゼットは驚いてフィルの顔を見上げた。彼はとても穏やかに微笑んでいた。
「あなたに必要な本ではないかと思いまして」
「……ありがとう、ございます。その、本当に」
「いえ。では、どうぞゆっくりとご利用ください」
フィルはまた丁寧な一礼をして去っていった。
彼がいなくなり、リゼットは机の上に本とノートを置く。
厚いノートをぺらりとめくってみると、そこには無地の紙にところ狭しと走るぐにゃりと曲がった線があった。
はじめは形にすらなっていないものばかりだったが、段々と顔らしきもの、花らしきものが増えていく。かろうじて読める字も現れた。
ここで過ごしたかつての自分の姿が目に浮かぶようだ。
だが後半のページに描かれていた絵を見た瞬間、リゼットは手を止め目を見開いた。
「これ……」
そこに描かれていたのは、恐らく幼い頃のリゼット自身と、羽の生えた小さな人。それは妖精に違いなかった。
***
本を持って約束の場所へ戻ると、すでにウィリアムが机で本を広げていた。
リゼットを見て、ここに座るように、と隣を示してくる。向かいに座ろうとしていたリゼットだが、素直にウィリアムの隣に移動した。
「すみません。お待たせしてしまいました?」
「いや、これを読んでいたから気にするな」
「……あの。やっぱり私、小さい頃にここに来ていたみたいです」
リゼットが声をひそめて言うと、ウィリアムは目を見開いて「どういうことだ?」と顔を寄せてきた。
そのまま内緒話をするように、リゼットは先ほどあった出来事をウィリアムに教える。
図書館長に母と間違われたこと。母が当時の図書館長と仲が良く、リゼットを特別にこっそり入館させてくれていたらしいこと。たくさんの図書館員に見守られて幼い頃を過ごしていたらしいことを。
「幼いリゼットは、相当愛らしかったんだな」
「え、えへへ……」
「当時を知る職員がいて良かった」
「はい! 母がよく読んでいたという本を教えていただきました。それから、私がお絵描きをしていたノートも取っておいてくださったようで。これなんですが」
自分と妖精を描いたと思われる絵のページを見せると、ウィリアムは片眉を上げて「ほぉ」と呟く。
「妖精か」
「はい。絵本を見て描いたのかもしれませんが、もしかしたら……」
「きっと実際に見えていたんだろう。リゼットの絵の妖精は、私が絵本で見て知っているものとは少し違う」
言われてみれば、確かに有名な絵本『妖精のペン』に出てくる妖精とは違う特徴がある。
絵本の妖精は、大きな花びらのような形の羽が二枚だが、絵の妖精はステンドグラスのような模様の羽が四枚ある。
それから絵本の妖精には触覚のようなものがあるが、絵の妖精にはそれがない。代わりに何か、冠かカチューシャのような飾りをつけているようだ。
「でもこれ、見えていた証拠としてはちょっと弱い気が……」
「まぁ、お前の想像力が非常に豊かだっただけかもしれないな?」
からかうように言われ、リゼットは唇を尖らせた。
ここのところ、ウィリアムによくからかわれている気がする。
「怒ったのか? これをやるから、機嫌を直せ」
そう言ってウィリアムがリゼットの手に乗せてくれたのは、銀に光るプレートだった。
プレートには“王立図書館入館証”と印字されている。仮入館証ではなく、正式なものだ。
「ウィリアム様、これ……!」
つい大きな声を上げてしまったリゼットの唇を、ウィリアムが指でそっとふさいだ。
青い瞳が、いたずらに成功した子どものように笑っている。
図書館が静かすぎるせいだろうか。
ドキドキと、胸の鼓動が大きく響いてきこえた。
後でもう一話更新予定です!




