86通目【小さな友との再会】
久しぶりに訪れた自邸の食堂は、ハロウズ伯爵邸やロンダリエ公爵邸のそれよりもずっと狭いはずなのに、がらんとしていて広く感じた。
継母の指示で食事は部屋でとることが多かったので、ここで四人でテーブルを囲んだ記憶はほとんどない。
それよりも母が生きていた小さな頃の記憶のほうがよほど鮮明だ。
しかし父と母の姿はいまここになく、残っているのは父のものだった当主席に座っている自分だけ。
温かな暖炉の火のような思い出がある分、わびしい気持ちになる。
「リゼットお嬢様? 苦手なものがございましたか?」
野菜のムースとスモークサーモンのジュレという鮮やかな前菜を前にぼんやりしていると、メイドのマノンが心配そうにそう声をかけてきた。
リゼットはハッとして慌てて笑顔を作る。
そうだ、席についているのは自分ひとりだが、食堂には給仕をしてくれるマーサもポーラも、執事のモルガンもいたのだ。
「何でもないの。とても美味しいで……美味しいわ」
気を付けていても、ついつい敬語になってしまいそうになる。
子爵家の当主としての自覚を持つためにも、普段からの振る舞いや言動はそれらしさを意識しなければならない。
(でも、何だかとても自分が偉そうにしている感じがしちゃって違和感しかないのよね)
子爵家当主らしい振る舞いに慣れる日は、果たして訪れるのだろうか。
「それはようございました。メインは仔羊のトマト煮込みですよ。ハロウズ伯爵様が新鮮な食材をたくさんくださいましたから、シェフがはりきっておりました」
「ツヤツヤの大きな苺もいっぱい届いていましたよ! デザートはその苺とフランボワーズのムースに、パリパリのチュイルです。ちょっとだけムースを味見させていただいたのですが、甘酸っぱくて最高でした!」
「これ、ポーラ!」
「ふふっ。楽しみで……だわ。スカーレット様にお礼の手紙を書かなくちゃ」
口に運んだ前菜は旨味がたっぷりで美味しいはずなのに、どこか物足りなさを感じてしまうのは、やはり一緒に食事をする相手がいないからだろうか。
(ウィリアム様をお引き留めすれば良かった)
駅で父を見送り邸に戻ってきたあと、ウィリアムはゆっくり手紙が読みたいだろうと言って、早々に帰ってしまった。
また明日様子を見に来るので、そのとき手伝えることがあれば言ってくれと言い残して。
手伝いよりも、明日はぜひ夕食に誘おう。そう決めて、シェフにも伝えるようモルガンに指示を出した。
出来たらウィリアムが毎日立ち寄って、一緒に食事をしてくれたらいいのに。
そんな子どものわがままのようなことを考えてしまい、自分がちょっぴり情けなくなった。
(大丈夫よリゼット。きっと慣れればひとりの食事も楽しめるようになるはず!)
とりあえずいまはマノンたちに心配をかけないように、しっかり食べなくては。
明るいマノンたちとの会話に救われながら、リゼットは当主一日目の夕食を終えるのだった。
***
父の主寝室はそのままにしておくと決めたので、リゼットは子どもの頃に使っていた日当たりの良い部屋をまた使うことにした。
少し前まで使っていた、ウィリアム曰く物置部屋のようなあの薄暗い部屋は、さすがに当主ともなり使うことはできない。
継母や義姉の荷物は父がすでに処分していたようで、明日からはいちから家具の入れ替えや模様替えを各部屋分することになりそうだ。
特にスカーレットやウィリアムがいつでも泊まれるように、客間は早急に整えておきたい。
爵位を継承したことを、繋がりのある貴族に知らせる手紙も出さなければいけないし、教会への挨拶に次に王宮に上がるときの準備もある。
「やることがたくさん。何から手をつけたらいいのかわからなくなるくらいだわ」
愚痴のようなひとりごとを呟きながら、リゼットは窓辺で紅茶を二杯淹れた。
虹色につやめく月光薔薇の夜蜜をたらして、スプーンでよくかき混ぜる。ふわんと香る涼やかな匂いに自然と頬が緩んだ。
母の残してくれた手紙の束から一通を手に取る。
母からの手紙はすでに何通か開封し、目を通していた。まずはいままで自分が迎えてきた誕生日分の手紙をと思い、『〇才になったリゼットへ』と宛名に書かれた手紙を優先的に読んでいる。
他にも『お父様に叱られて泣いているリゼットへ』『シャルル兄様とケンカをして仲直り出来ずに困っているリゼットへ』『自分のことが嫌いになってしまったリゼットへ』など、意識して覚えておかないと読み時を逃してしまうような手紙もたくさんあるのだ。
〖十三歳になったリゼットへ
今年もお庭の紫陽花は大きな花をつけたかしら? いまでもリゼットは紫陽花が好き?
小さな頃、あなたはお庭に出るたびに紫陽花のもとに走って、紫陽花に顔を埋めていたのよ。あなたのほっぺも紫陽花のようにまんまるとしていたから、お花がひとつ増えたわとお父様と笑ったのだけど、リゼットは覚えているかしら?
いいえ、きっと覚えてはいないわね。あなたはもう十三歳の、大きなお姉さんなんだもの!
そろそろデビュタントに向けて、ダンスの練習が始まる頃ね。
ダンスの才能に目覚めて、華麗なステップを踏むリゼットが頭に浮かぶわ。……いいえ、ごめんなさい。あなたは私に似て運動が少し苦手なようだから、もしかしたら練習に苦戦しているのではないかしら。
運動音痴の先輩であるお母様からのアドバイスはひとつだけ。ダンスの相手に身をゆだねること!
私はいつもあなたのお父様に身も心もゆだねていたわ。ゆだね過ぎて踊っている際中にぼんやりとしてしまい、怒られてしまったほどよ〗
読んでいる途中で、吹き出してしまった。
そうか、母もダンスが苦手だったのか。きっと母が生きていたら、ウィリアムと練習をするリゼットを見て『さすが私の娘』と苦笑いしたことだろう。
そしてデビュタントで踊るリゼットの姿に、笑顔で拍手をくれたはずだ。『よくしっかり相手に身をゆだねた』と。
「ダンス……見てほしかったなぁ。結局お父様にもきちんと見てもらえなかったもの」
自然と笑えていたのに、ゆっくりとその笑顔がしぼんでいく。
どうがんばっても、やはり寂しさが胸に押し寄せる。静かな夜だから特に。
家族との思い出が詰まったこの邸に、ひとりきりになってしまった。
もちろん住みこみの使用人たちはいて愛すべき人たちではあるけれど、リゼットを当主として献身してくれる彼らと家族になることは、まだ難しそうだ。
「……さみしい」
ぽつりと、そんな呟きを紅茶に落としてしまった。
すぐに溶けて消えるような小さな呟きだったが、波紋のように余計に物悲しい気持ちが広がっていく。
「だ、大丈夫! きっと慣れれば平気になるわ。私はもう大人。立派なレディだもの」
大丈夫、大丈夫。そう言い聞かせながらも、押し寄せてくる寂しさに潰れそうになったとき、シャランと繊細なガラスのベルのような音がした。
その妖精の羽音は、いままででいちばん大きく近くに聴こえた。
《体は大きくなったのに、君は寂しがり屋なままだね》
突然聞こえた不思議な子どもの声に、ハッと顔を上げると。
紅茶をいれたもうひとつのティーカップ縁に腰かけて腕を組む、小さな小さな少年の姿があった。
「……妖精、さん?」
その少年の背中には、ステンドグラスのような模様の入った四枚の羽が、月の光を浴びて輝いていた。
とうとう筆休め含め100話に到達いたしました! ここまで毎日お付き合いいただいた皆様に心から感謝申し上げます!
今後は連載ペースを落とし、改稿を進めたりプロットを立てたり、丁寧に書いていきたいなと思っております。
別作品の連載もしていく予定ですので、できたらお気に入り登録やブクマをして、のんびりお付き合いいただけますと幸いです(•ᵕᴗᵕ•)




