デブリ 3
博士は何も言わなかった。
ただ、爛々と光る瞳でテオのことを見るばかりだ。
彼女との接触を求められているのだとテオが理解するには充分だった。
「ああっと、こんにちは」
無理くそ作った笑顔で手を振ってやる。
「……こん、にちは」
彼女は、テオを真似たようにぎこちない笑顔で手を振り替えしてきた。
彼女の正体はすぐに判った。まるで気力を感じない、日陰に転がる石のような沈静、あるいは無気力は、間違えようがない独特だ。
彼女は、患者だ。
生存欲弱者、『人』よりも『物』の衝動を大きく抱えた生物として劣等している存在。
彼女は、『デブリ』だ。
はたり
手を落とした彼女は再び元の姿勢で佇んだ。
貫頭衣と呼ぶのであったか。
一枚の布に穴を開けただけのように簡易な作りをした衣服を、彼女は身に纏っていた。かつてはテオも身に纏っていた物だ。
彼らの自立の一歩は、衣服の改善を自ら求める声から始まる。
それに気づき、改善を望むことこそが重要で、つまりは、怪しい光彩の瞳を持つ彼女は未だに、自らを取り巻く環境に関心を持つことのない患者だと言うことだ。
「彼女はね、君の妹だよ、テオ君」
博士は顎に手を添え、もう片方の手ではテオの肩を抱いて言った。
「妹、ですか」
まさか言葉通りに受け取るはずがない。
彼女はテオと同じように博士が興味を抱いたサンプルだと言うことだろう。
博士は「そうだとも」と頷き、部屋に入って少女の隣に腰掛けると、長い髪を梳くように撫で始めた。
「テオ君にはね、この娘の家族になってもらうんだ。手を繋いで導いてやり、疲れたときには隣で一緒に座る。助け合い、支え合い、愛情を根拠にした無償の関係を築いて欲しいと思う」
博士の視線は少女の頭を越えて、ベッドサイドに向いていた。
懐古厨の博士にしては珍しい、ディジタル媒体のフォトスタンドだ。保存されているデータが一件しかないのか、それともそういう設定にしているのか、スクリーンの画像は髭が生えていない博士と女性が並んでいる一枚から変わらない。
顔には出さず、テオは驚いていた。
博士とは長い付き合いだが、変人というレッテルばかりが目立って、女性の影なんて一度たりとも、チラつきすらしなかったのだから。
食欲も二の次に研究に打ち込む博士のことだから、性欲なんてものは生来持ち合わせていないものと思っていた。
そっちの方が、よっぽど冗談に聞こえるけれど。
「さあ、君もいつまでもドアの前に立っているんじゃなくてこっちへ来て、この娘の名前を呼んでやってくれ」
促されて、おずおずとテオは少女の前まで歩いた。
少女は人形然としていて、博士に撫でられるまま髪を揺らばかりだった。
目の前にいたってその瞳はテオのことを認識しているとは思えなかった。
そんな有様だというのに、博士は二人が近づいただけですっかり全部うまく出来ていると思っているらしい。ますます笑みを大きくしたのだ。
「ツクモ、この人が君のお兄ちゃんだ。前にも言った通り、君にとって重要な人間だ。仲良くするんだよ。テオ君、この娘の名前を教えてなかったね。ツクモと言うんだ。これからよろしくやってくれるね。頼んだよ」
博士の他人の物事さえ勝手に決定してしまう悪グセに、今更、抗議をするつもりはない。これはもう刷り込みと言って間違いないだろう。症状が回復する前からテオが博士の指示に従うことは当然のことだった。
得たいの知れない液体を渡されて飲めと言われたら飲むし、走れと言われたら走る。今日だって往診の予定日ではなく、突然取り付けられた約束だったが、こうして博士に会いに来ている。
「さあ、妹の名前を呼んでやってくれ」
内心でいくら、名前さえたった今教えられたこの少女を妹だなどと思える訳がないと考えていてもテオは結局、博士に従うのだ。
「ツクモ」
「……う、ん」
かすかに少女の喉が動いて、かろうじて聞き取れた。
博士が言うには、テオは少女と助け合わなくてはならないらしいが、どう頑張ってみても少女がテオのことを助けてくれる姿が想像できなかった。
それどころか、きっとテオはこれから少なくない時間をこの少女の介助に充てなくてはならなくなるだろう。そのことを考えたら頭を抱えたくなった。
「博士。これって博士の研究に取って大事なことなんですよね?」
「もちろんだとも。テオ君とツクモ。君たち二人が私にとって最も大事なことなんだ」
せめてもの抵抗に釘を刺すようなことを言ってみたが、博士はちっとも言い淀むことなく首肯した。
「だからね、テオ君――」
二人の手を無理矢理引っ張ってシェイクハンドさせた博士はツクモ、テオの順に顔を覗き、声を低くして言った。
「君がツクモの面倒を見るんだ。ほかの誰にも任せてはならない。また、君だけはツクモを拒絶してはならない」
それは、とても恐ろしい宣告に聞こえた。
「……はい、博士」
いつもいつも繰り返してきたセリフだ。
これまでと同じことを今回もしただけだ。
そのはずなのに、この返事だけは、なぜだか言った後にも胸の内に違和感となって残り続けた。へばりついた心地の悪さをどうにかしたくて、『待った』を言おうとしたが、既に博士は満足して頷いてしまっていた。
博士が決めていたことは、本当に決まったことになってしまっていた。
奥歯を噛み締めたテオは、せめて不安の正体を少しでも手に入れられたらと、目の前の少女を見下ろした。
「……」
少女は不変だ。
妖しい虹彩の瞳を、何処を見るためでもなく、ただくだに開いて、そこに座っている。
人とは思えない、まるで置物のように、そこに在る。
指示が無ければ彼女はいつまでもそうしているのだろう。
彼女の一体どんなところに博士が興味を持ったのか、隣接している宿舎に囲われている他の『デブリ』とは異なる点とはいったい何なのかを知ることは、博士の口を通してで無ければ不可能だ。
そして、博士が実験の内容についてわざわざテオに説明することは無い。サンプルであり、モルモットであるテオが知る必要があると、博士は考えない。
大丈夫、これまでと変わらない。そうとも、博士の言うとおりに協力したらいい。難しいことなんてなにも無い、テオにとって、実験とはそういう物なのだから。
悪い予感なんて迷信だと、テオは何度も自分に言い聞かせた。
後になって、思考を放棄したその怠慢こそが、テオにとって最も大きな後悔に育つことになる。
テオは博士に思考を依存していたのだ。
そうなった原因は、博士との付き合い方が常に一方向だったこともそうだし、何より例の悪グセのせいだ。
『なぜ?』、『どうして?』が言えない、それは他者に『生き方』を依存することだ。
自分の命を自分で守れない『デブリ』と、自分の命を他者任せにしている『傀儡』とでは、どれほどに違いがあるのか。
テオがそのことを思い知ったのは、博士が失踪して間もなくだった。