デブリ 2
エレベーターで地下へ降りて、個人研究室が並ぶ廊下を突き当たりまで進む。
『―――』
「わかっていますったら、そんなに急かさなくたって、ああ、はいもちろんです。博士はとても期待されている人で忙しいのは承知していますから。……ほら、着きましたよ」
こん、こん
内開き扉が開いたせいで、三回目は空ぶった。
「やあ、よく来たね」
通話のシグナルは終了していて、さっきまで耳元で聞いていた声は目の前の男の口から出ていた。
「さあ、入って入って」とテオの肩を抱いて招き入れる男からはコーヒーの香りがした。それが趣味ではなく、カフェインの効果を期待した実用的な理由に基づいた常飲で、もっといえば、中毒症状も若干含まれていることをテオは知っている。
病気を研究する施設の研究員が中毒者だなんてジョークにしたって大してウケないだろうに。
最近習った授業の内容ではカフェインの危険性が喚起されていた。
近年とうとう酒造制限がアルコール度数八パーセントから五パーセント以下にまで引き下げられた。煙草、酒と来て、次に何が睨まれているのか、まあ、お察しだ。
そのことを言ったところで、彼を含めたコーヒーの愛飲者は『まあ、自分たちが現役の内は大丈夫だろう』と言ってカップに手を伸ばす。
その怠慢の対価はきっと、すっかりマイノリティになった後生の文化人が支払うことになるのだろう。
なんにしろ、テオにはカフェインを嗜む文化を継承する予定はないから、関係ないことだ。
「いや、よかった、うん、時間は大丈夫だね。よかったよかった」
扉を閉めた眼鏡を掛けた中年男はしきりによかったと言って、デスクの上をガサゴソとやる。
それが、なんとか自分を落ち着かせるためにやっているように見えたから、テオは顔をしかめた。
昨日今日の関係じゃない、彼――ナラバ博士の挙動不振さはテオも知るところだが、今日は輪を掛けている。
「あの、どうして、今日は大事な実験でも? なら、ボクはここで待っています」
「ちがうちがう、実験なんかないさ。うん、ごめんよ、私が急がせてしまったせいだね、ああ、わかってる。でもね、今日はどうしても君に会わせたい子がいてね、それで、ほら、君の経過の記録もつけなくてはいけないし、ああ、あった!」
並んだファイルの隙間からバインダーを引っ張り出したナラバ博士はカチカチとインクのペンを鳴らす。
研究員の中でも紙媒体を執拗に使い続けるのは彼くらいだ。そういうところが変人呼ばわりされる理由の一つだろうに。
「じゃあ、最近どう? 死のうと思ったことは?」
「特に思い当たりません」
「あっそ」
それだけのやりとりでナラバ博士はいくつかある項目のすべてにチェックを入れていく。
これもいつものことで、今更真面目にやられてひとつひとつ答える方が面倒だから、テオも黙っている。
「さあ、終わったぞ!」
バインダーをデスクの上に放り投げて、ナラバ博士は歓声をあげた。
「それで、会わせたいっていうのは?」
テオが問いかけると、ナラバ博士は「もちろんそのことだとも!」と答え、白衣のポッケに手を突っ込みあれじゃないこれじゃないと、取り出したアンプルやら器具やらペンを苛ただしげに机に並べ、とうとう博士のID情報が登録してあるカードを見つけ出した。
ほとんどの研究員は生態情報を施設のコントロールルームに登録しているから、カードなんて持ち歩かない。施設内のカメラや、読み取り機器に指を滑らせさえすれば、それで認証が済むからだ。
簡易さを拒絶する頑な姿勢が理解できなくて、いつか、テオは博士に尋ねたことがある。
すると、博士は、『私は自分の物が自分じゃ制御できない形になることが不安でたまらないんだよ』と、困った顔で答えてくれた。そこに、手を伸ばすことさえ諦めた寂寥を認めた気がしたのは、はたして気のせいだったのだろうか。
「こっちだ、テオ君、来てくれ」
仮眠室になっている奥の扉へと、ナラバ博士はテオの腕を引いた。
床に散らばっている資料を踏まないように気をつけようとしたが、ナラバ博士自身が平気で蹴っ飛ばして踏みつけるものだから、テオだけ気にするのも間抜けな気がして、結局早々に諦めてインクの染みついたいくつかの紙面を靴で掻き分けて歩いた。
博士はやや興奮した面持ちで、カードを機器に通そうとして、止まった。
「テオ君、きみ、学校ではクラスメイトと仲良くできているかな?」
「はい、ボクの学校の評定は博士にも共有されていると思いますが、なにか気になる点でもありましたか?」
それは、……正直に言えば困る。
博士がテオの生活に何かしら不穏を感じたと言うことであれば、テオは経過観察処分を撤回されてしまうこともあり得る。
以前のような質疑と知能テストを繰り返すばかりの生活に戻るなど、考えただけで、うんざりだ。
「違うんだ、私が聞きたいのは、ただそう、えっと、クラスの女の子とのコミュニケーションはどうなんだろうと言うことでね」
「クラスの女の子とですか?」
これは一体どんな意図を持った質疑なのだろう。
この質疑にどんな回答をしたら、生きる意思を持っているとアピールできるのだろう?
それとも、この質疑に含まれのは社会適合性の有無だろうか。
だとしたら、露骨な性差別を意識させる回答は危険だ。この手の話題はどこの畑にも露骨な反応を示す党が存在する。
共感、順応は人が地球の支配者になる上で最も必要とされた能力だ。そうして人という種に培われた本能は、特別にこそ強く訴えかける。
特別であるからこそ、孤独にストレスを感じ、徒党を求め、声高に主張の言う名のシュプレヒコールを上げたがる。
いたずらに刺激するのは得策ではないだろう。
「はい、この間、クラスで勉強会をする機会があったのですが、ボクは残念ながら文系がさっぱりで、クラスの女の子に教えていただきました。彼女は根気強く教えてくれて、そのおかげで翌週の小テストで過去最高点を取れたんです。うれしくて、思わず彼女のところに行って、ありがとうと言いました」
どうだろうか。
あくまで、自分という個人を下げて女性を持ち上げた回答だ。これなら性差別発言に該当しないはずだ。勉強会は本当にあったが、本当は彼女にお礼なんて言いに行かなかった。
そもそも、勉強会なんて形ばかりだ。あの場所に求められていたのは、勉学の向上ではなかった。擬似的な連帯感だ。『みんなで何かを成し遂げた』そう言うための根拠を欲したに過ぎない。
『ここどうするの?』『教えられるよ、代わりにこっち教えて!』『うん、まかせて!』機械的に繰り返される連続に、辟易しながらテオも組み込まれて時間を過ごした。そして、小テストが終わって、笑顔を浮かべて『やったね!』を言った。たったそれだけ経験だった。
「ああ、そっか。うんなるほど。……いいさ、別に、なるようにしかならない」
博士はテオの回答をどう解釈したのか。
それは計り知れないまま、博士は止めていた手を下に下ろし、カードを機器に読み込ませた。
「さあ、ご対面だ」
興奮で紅潮する博士の横顔から、テオは、左右に開く扉に眼球を動かす。
そこには、少女がいた。
ベッドに腰掛け、微動だにさえしない。
じっと、一体いつから見つめ続けていたのか、テオと博士が現れた扉へ大きな瞳を向ける少女がただ一人だけいた。




