第四十六話
霧雨が朝とともに髪の毛を撫でていた。朝もやに囲まれていて、視界がひどく悪かった。
ディノはひとり、展望台の上に、いた。
ここがどこなのか、ディノは勿論わかっていた。里の入り口にある、監視用の展望台だ。頭上では襲撃用の鐘がぶら下がっていて、もう何十年も鳴らしたことがないのだ。
今日がいったい何日なのか、今日なにがあるのかも、ディノは知っている。今日はみんながいなくなった日だ。
展望台の格子の間から見下ろす景色には、人はひとりも映らない。そればかりか、影さえもない。静寂が厳かに寝息をたてるばかりだ。
ディノは不思議と寂しさを感じていなかった。なぜなら、自分がこうなることを知っていたからだ。もうずっと前から知っている。ディノはいつも置いてけぼりをくらうのだ。
ディノは沈黙の中、胸に抱きしめていた木彫りの熊を撫でた。紅葉の手が少しざらついた樹の肌をなめる。無感情でなでさすっていると、ちくんと痛みが走った。みると、棘が刺さっている。しばらくそれを見つめてから、ディノは展望台から降りることにした。
展望台の脇にある縄に繋がられたザルにゆっくりと入る。すると、ザルは地面から大きな石を持ち上げる代わりに、ゆっくりとディノの身体を大地へと下ろしていった。
地面に降下してから、ディノはザルから降りる。ザルは今度はものすごい速さで持ち上げられ、かわりに石が落ちてきた。石は大体あかんぼうくらいの大きさをしている。幼いディノより、ちょっと軽いくらいだ。
幼い?あれ?
そう思い、手のひらを見つめる。なんて小さい手だろう。歩き出すと、足元がふらつく。頭が重いのだ。
そうだ、僕はこんなに小さい。
自分の幼さに驚きながら、ディノは歩いた。誰もいない里の間を、とぼとぼとひたすら進む。本当に生きるものはディノしかいない。
おぼつかない足取りで、向かう先は勿論、家だ。この間ひっこした、新しい家。
そういえば家に来る前、キリアはこういっていた。「新しいお友達に会いに行くんだよ」
だけど、その言葉は間違いだった。ディノはわくわくして里に着いたが、ディノと友達になってくれるものなど誰一人いなかった。そればかりか、同年代のこどもさえいないのだ。
友達はいない。そして今は、キリアもいない。
ディノの周りには、誰一人、いない。
ディノは立ち止まった。そして周囲を見渡した。
テントのような変な建物で作られた閑散とした里は、死んだように息をひそめる。
「誰も、いないの?」
か細い声が静けさを押しやる。
「僕はここにいるよ、本当にだれもいないの?」
今度は叫ぶように周囲に呼びかけた。それでも返ってくる声はない。ディノを、ただ沈黙だけが見つめている。
「どうして、」
ディノがぐしゃりと顔をまげる。喉の奥が痺れるように熱くなって、うまく呼吸ができない。
「どうして、」
吐き出す息はひどく熱っぽい。指先は寒くないのにぶるぶる震えている。
「どうして、」
首の後ろが、ひどく痛む。
たまらない。
「さびしいわけがないじゃないか!」
ディノは嵐のように絶叫した。だが木霊するのは自分の声だけ。叫んでも返るのは自分だけ。
ついにディノは疲れきって、大地に膝をついた。まだ柔らかな肉にはガサガサに乾いた大地は優しくはないが、かまわずディノは横たわった。もう、なにもかもがどうでもよく感じられた。叫んでも、叫んでも、ディノは置いていかれる。待ってと懇願しても、連れてってと駄々をこねても、おいてかれる。
ひとりならば、死んでいることと同じじゃないか。
ディノは目を瞑った。とめどめなく涙が溢れてきた。悲しみなのか、怒りなのか分からない。
眠ってしまいたい。なかったように眠って、忘れてしまいたい。
生きている、ことを・・・。
「おい、何してんだよ」
突然の声。目を開いて、ディノは飛び上がった。
「いつまでも寝てんじゃねーよ」
声の主。それはルキだった。四歳歳の違う自分の兄。ルキは呆れたような顔でディノを見下ろしている。同じ子供なのに、ルキは変に迫力がある。ディノは思わず、へたりこみそうになった。
「大丈夫?泣いてるの?」
ルキと打って変わって迫力のマイナス点な声。アーシェだ。ルキの背に隠れるようにして、少し背の高いアーシェが微笑んでいる。
「泣き虫は駄目よ、あんまり泣いていると病気になってしまうんだから」
そう言うと、アーシェはディノに手をのばした。意味が分からず頭を傾けると、アーシェがのばした手でディノの手を握り締めた。
「一緒に、いこう?」
意外な言葉に驚いて、アーシェを見上げる。
「置いていくんじゃないの?」
「なんだ、置いてって欲しいのか」
ディノの質問に、ルキが笑って言う。ディノはぶんぶんと勢いよく頭を左右に振った。あっそ、と言ってルキは歩き出した。アーシェもそれについて行く。勿論、ディノも続いた。二人にくらべ、なんて拙い足取りだろう。ふらふらになりながら、それでもディノは必死に続く。どこまでも、どこまでも。
いつの間にか霧雨はやんで、朝もやの向こうに青空が見えていた。
ディノはゆっくりと目を開けた。頭が少し重たく、喉が渇いている。どうやら、眠って夢を見ていたらしい。どのような夢だったかはもう忘れていたが。
身体を僅かに動かすと、きしんだ音が身体を包む布団の向こうから聞こえた。どうやら、木のベットに横になっているようだ。身体は頭と違って不思議と軽やかだった。顔を少しそらすと、窓が目に入った。ガラスの向こうに映る景色は、エドガーとも違う見知らぬ土地だった。エドガーに比べて建物が低く古く、田舎町であることは予測できる。
「起きたか」
ディノの目覚めに気づいて声をかけたのは、ルキだった。いつもどおりの無表情だ。だがどこか、その感情の見えない顔に親しみを覚えた。怒りも憎しみも、不思議と消えている。
「ここは、どこだ?」
「ハシェイブだ」
「ハシェイブ?なんで?アーシェは?」
質問攻めに面倒そうな顔をすると、ルキはディノのすぐ横を指し示した。促されるように見やると、アーシェがベットの脇に上体をあずけるようにして眠っている。すやすやと眠り、ときおり微妙に笑みを浮かべる。なんだか気持ちの悪い寝顔だ。
「さっさと準備をしろ、それが起きたら出発だ」
「へ?」
ルキの言葉の意図が分からず、ディノは凝視を返した。ルキはディノとアーシェを交互に何度も見てからため息をつくと、
「足手まといじゃないんだろう?」
とだけ呟き、きびすを返した。
寝室を出て行くルキの背中を目だけで追ってから、扉が閉まるのを確認し、ディノは再び横になった。呆然としながら、ルキとの会話を思い出す。
ハシェイブ・・・アーシェが起きたら・・・出発・・・。マジかよ?
こみ上げる嬉しさ。まるで湧き水のように体中を満たしてゆく。我慢できなくなって、ディノは街中に聞こえるような大きな大声とともにガッツポーズをした
「おっしゃああ〜〜!!」
アーシェが、小さく痙攣した。