第四十七話
ディノの勢いにアーシェはびくんと起きると、目をパチクリ瞬いた。
「……おはよう、ディノ」
ほんわりと微笑む笑顔は、とても喜びに溢れたものだ。決闘により意識を失っていた間、彼女はずっと心配していたのだろう。
アーシェは水を、と呟くと、床に置いてあった水瓶からコップに水を掬いとり、ディノに手渡した。
眠りすぎた手が、軋みながらもディノの口に水を運ぶ。
ディノは水を一口含んで、ようやく喉が渇いていることに気付いた。コップの水を飲み干すと、今度は水瓶を持ち、それを豪快に喉に流し込む。
口から溢れた水で毛布をびしゃびしゃにした頃、ようやく喉の乾きは収まった。
ディノの様子に笑みをこぼしながら、アーシェが問掛ける。
「痛いところはありませんか」
「ん、ヘーキ。飲みすぎで苦しいくれぇだな」
ディノはたぷたぷとうねる腹を叩いて明るい声を返した。声の反面、感情はほの暗いものだった。それは、落とされた視線が標している。
濡れた水瓶の底に映る己の顔。幾度も目にした、変わらぬ眉ね、瞳、頬、唇。都を旅だった頃と何一つ変わりはない。
けれど、
「アーシェ」
「なんですか?」
「俺も、行きたい」
ディノの唐突な言葉に、アーシェは目を丸くさせた。驚きに象られた網膜には、対照的に、ディノの飄飄とした表情が転写される。
待ち望んでいた言葉だったのでアーシェはすぐに答えた。
「ディノ、勿論ですよ、三人で旅を」
「違うんだ」
弾くような言葉。意外な返しに、アーシェは真意が分からず眉間に皺をよせる。
「ディノ?」
「そういうことじゃ、ないんだ」
呟き、顔をあげるディノ。その表情は緊張が抜けただけで、凪いたものではなかった。
燃える双鉾は静かに燈を光らせる。どこか苦悩しているようにも思える。
ディノの目は懇願を呈していた。そう、彼はすがっていた。
「アーシェ、俺はさ、」
吐き捨てるような口火。だが、口調は穏やかに。
「なんだかよく分からないんだよな、いつも」
「え?」
「俺は、月に行くっていうアーシェの目標を、馬鹿馬鹿しいと思ってたんだ。叶うはず無い、死んでしまうのがオチだって。アーシェにもそんなこと言ったよな。」
「けど、それはさげずんでたわけじゃないんだ。たぶん、そうだな、……アーシェのことが羨ましかったんだ」
口にして、頷く。
「うん、羨ましかった。俺は何かに、無謀なことなのに、挑戦するっていう気持ちをもてるアーシェが羨ましかったんだ」
だって俺は、と呟いて、ディノは黙り込んだ。
だが、意を決したように。
「ここではない何処かに行くんだって気持ちで里を出たんだ。なんか、なんだろう……里は俺の本当の居場所じゃない気がした。どこか足りないような、自分の力を出しきれない、そんな気がした。だから、やるんだってはりきって、出たんだ」
なのに、
「やりたいことをやるんだ、楽しいことをしてやるんだって、そう思って出てきたのに。なのに俺は結局、おんなじだった。里と同じ。安全な場所にいて安全な仕事を選んで愚痴ばかりを溢して、だから当たり前に、足りなくて」
だから、
「バカにしてたんだ。夢を語って夢に向かうやつらを、バカにして、自分の気持ちを押し潰してた。そんで、死んだら安心するんだ、俺は正しいって、俺は間違ってないんだって。……俺は心の底でずっと、アーシェの旅が失敗することを望んでたんだ」
核心。
熱意に感化されながらも、その熱に飛込むことが出来ず、そればかりか醜い嫉妬を抱え、それを隠すようにかりそめの善意で塗りたくった心。歪みきってしまった、羨望。
自分を否定するのが恐ろしくて塞いでいた本心が、堰をきり溢れる。罪悪感を伴って、それはディノの首を僅かに絞める。
ふと、ディノの耳元に、鈴のようなアーシェの呼び声が鳴った。声に促されるようにディノは続ける。
「それだけじゃない。俺は、ルキが言ったとおり、足手まといなんだ。ここに来るまで、何度もアーシェに助けられた。もし、一緒に旅へ出たら、きっと迷惑がかかる」
震える声。気を緩めたら、涙が流れてしまいそうだ。
「俺は、足手まといなんだ」
暗い心の奥底から、冷たい視線がディノを見つめている。その主を、ディノはしっている。
過去の自分。先ほどまで自分だと思っていた、殻。寂しい音をたてながら、じっと見据える。戻ってこいと、脅えている。
ディノはその殻を一蹴するように、強く言い放った。
「だけど俺、行きたいんだ」
強く、強く。
「もう自分に、嘘は吐きたくないんだ。俺は弱いけど、俺は卑怯だけど、行きたいんだ」
ディノはアーシェに体を向けると、そのまま頭を下げた。布団に頭がつくほど、深く下げた。
そして、震える声色で、懇願した。
「俺をどうか、連れてって下さい」
薄い涙と熱い喉でかすれた、ディノの訴えを、アーシェは無言のまま見つめる。
暫くの沈黙。酷く静かな、部屋の空気。
アーシェはひたすら沈黙を続けている。言葉でも失ってしまったかのように。仕方ない、見損なったと思われても仕方ないほどに、酷いことを言ってしまったのだから。
絶望が、侮蔑するかのようにこみあげる。
「お願いだ……」
今にも消え入りそうな声色。ディノは祈るようにきつく目を閉じている。この願いを、掴むために痛みを伴うほどに願う。
そんなディノの肩に、ふいに温もりが染み込んだ。ディノは、恐る恐る顔をあげた。
アーシェが、微笑んでいる。
「ねぇ、ディノ。私も、同じなの」
「え?」
呟きに似たアーシェの言葉に、ディノは驚いて問掛けた。同じとは、どういうことか。
アーシェは言葉を探しながら、ゆっくりとディノの手を握り締める。
「私も弱いの、私も、すごく怖いの、本当は、ずっと……」
逃げて、しまいたかった。
その言葉に、ディノは酷く困惑しながらアーシェを見つめた。鋼のような決意を持つアーシェの、意外な感情。
いいや、確かにそこにはあった。光をたたえて揺れる瞳の奥底に。今まさに、ようやく、ディノは少しの脅えを感じとっていた。
「だけど、ディノに会って、頑張らなきゃいけないと思ったの。仕事でも、私のために色々なことを教えてくれて、剣を振ってくれた。だから不安でも、怖くても、前に進もうと思えた。引きかえしちゃいけないと思えた」
いつから、すくみあがっていたのだろう。どうして、気付かなかったのだろう。
「私は、ディノがいたから、旅を続けることができた。そしてこれから、本当の意味で旅が始まる。けれど、私は止まらない。だけど、やっぱり怖いんだ」
アーシェの決意は、けして強いものではない。けして、己だけの感情から生まれるものではなかったのだ。
「アーシェ……」
二人は、傷付きやすい、痛いほどの思いを互いに抱き、ずっと隠していた。同じ、という言葉は、あまりにも正しい。一人は諦めで、一人は決意で、熱を隠していたにすぎなかったのだ。
「私は、自分の弱さを受けとめるために、そして旅を続けるために、ディノと一緒に行きたいの」
最初から二人は、互いに反応しあい、変化していた。
出会ったときから二人は、共に道を歩んでいたのだ。
そう、ずっと。
「一緒に、旅をしませんか?」
ハシェイブの最西に、失われた国境はある。“失われた”と添えられた理由は、そこが既に国境の意味を無くした場所であることをさす。
東を見ると、竜を神と崇める国エアドラド。西を見ると、草ひとつない不毛な砂漠、灰の大地。
かつて大きな国があった西の大地に、生きる人はいない。世界に穴を空けたようにぽっかりと、人が分布していない場所。
灰の大地より西に行けば、人はいるだろう。東に行けば、人はいるだろう。南に行けば、人はいるだろう。そして北には海がある。灰の大地に、人はいない。
それ故に、ハシェイブのこの場所は失われた国境と呼ばれていた。そして今、ディノたちは失われた国境に立っていた。
「ルキ様、気を付けて下さいね。くれぐれ無理は、なさらないように。我々はルキ様の帰りをずっと待ち続けますから」
ルキの部下のひとりが、感極まってルキの手を握り締める。苦笑するルキ。
とは言っても、気持ちが穏やかなのはルキだけだ。ルキを囲む騎士達はみな、目に涙を浮かべている。
彼等はよほど、ルキの指導力に惚れているのだろう。あるいは信頼し、尊敬しているのだろう。
それが自身にはもったいないように思え、ルキは照れるように答えた。
「あぁ、また共に剣を振ろう」
熱く握手を交すと、ルキの手はほどかれた。ゆっくりと踵を返し、味わうように一歩を踏みしめる。後ろ髪をひかれるように、ゆっくりと。
――ルキが次に守るべき者達のところへと。
「女々しい部下がいると大変だなぁ」
ディノは、待ちすぎて固くなった筋肉を伸ばすように立ち上がると、溜め息をついた。その動作に、ルキはニヤリと口を歪める。
「お前も、似たようなものだろう」
「はぁ!?」
「決闘は、駄目ですよ」
すかさず、二人の間に飛込むアーシェ。焦りの中、不安そうに止めるアーシェに、ルキは微笑みながらかえした。
「決闘ではなくて、躾だ」
「はぁ!?」
「駄目ですってば!」
オドオドとするアーシェ、早くも闘志を燃やすディノを交互にみると、ルキは面白そうに目を笑わせた。
「冗談だ。早く進まなければ、砂漠の真ん中で枯れることになるぞ」
器用に話を折られたディノは「はい、はい」と適当に答えて、砂漠へと足を進める。
「ふふ、頑張りましょう!」
三人は深く深く、前方に広がる世界を見据えた。
上空には青い空が丸く浮かび、風化し割れた大地には砂が舞っている。境がぼやけ、空と池が霧のように溶けこむ。照り付ける日差しは、痛いくらい強い。
ディノは背伸びをしながら、その情景の遥か向こうを仰ぐ。世界にぶつかるように、全身を伸ばしながら呟く。
「そんじゃ、」
足を前へと、背後にある光に押し出されるように、前へと。
願いを託されているのも自分で、背中を押されているのも自分だ。
優しい暗闇から目覚めて、自分が自分の前をゆく。足を進める。
今、ただ、ひたすらに。
「……行こう!」
完




