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幸せの値段

作者: 長谷川誠
掲載日:2026/05/14

 藤本浩之がその家を初めて見た時、父親は子供みたいに笑っていた。             「どうだ。これが俺たちのマイホームだ」  白い二階建ての家だった。新しく造成された住宅街。整った道路。似たような家々。まだ若い木しか植えられていない公園。                                                                                                       


どこを見ても“新生活”の匂いがした。  だが、その家だけ妙に安かった。  周囲の家より、二千万ほど安い。 「本当にこの値段でいいんですか?」  母親が何度も不動産屋に確認していた。  店員は曖昧な顔で笑う。 「前の住人が急いで手放したがってまして。」  店員はそれ以上は説明しなかった。  父親も気にしていない様子だった。 「安いならいいじゃないか。家なんて住めれば十分だろ」  浩之もその時はそう思っていた。  狭いアパートから抜け出せる。  自分の部屋がある。  それだけで嬉しかった。


そして、引っ越しから一週間後。  藤本家はマイホーム購入の記念旅行へ行った。  海辺の観光地だった。  父親は珍しく機嫌が良く、何枚も観光地を撮っていた。 「せっかくだ。家族写真も撮ろう」  通りがかった観光客にカメラを渡し、家族写真を頼む。  父親、母親、浩之、妹の美咲。  四人で並んだ。  背後には青い海。  父親は浩之の肩を抱きながら笑っていた。 「やっと普通の家族になれたな。」  シャッター音が鳴る。  そして、藤本家は家族写真を撮った。


しかし、 最初に態度を変わったのは母親だった。 「この家、なんか安っぽくない?」  夕食の時、突然、そう言った。  父親が顔を上げる。 「は?」 「床とか。壁紙とか。やっぱり安い家って感じするのよ」  それを聞いた父親は苦笑した。 「そんなの気にしても仕方ないだろ」 「あなたはいいわよね」  母親は箸を置いた。 「一生ここに住むのは私なのよ」  それからだった。  食卓の空気が悪くなったのは。


そして、父親は残業を増やした。  ローンのためだった。 「少しでも貯金しないとな。」  そう言って笑う父親の顔は、日に日に疲労に満ちていった。


 帰宅するのは深夜。 そして、休日も仕事。けれども、それとは裏腹に母親はさらに苛立つようになった。 「もっといい家に住みたかった」 「こんな住宅街、みんな余裕ある家ばっかりじゃない」 「うちだけ浮いてる」 それから、父親は黙って酒を飲むようになった。  美咲は食事中ほとんど喋らなくなった。  浩之だけが、何も言えずにいた。 ある夜、浩之はリビングに飾られている記念旅行の家族写真を見て違和感を覚えた。 「あれ?」  父親の顔色が悪かった。  旅行の時は笑っていたはずなのに、今見るとひどく疲れた顔をしている。  気味が悪かった。


そして、翌日、 父親の顔はさらに暗く見えた。  まるで影がかかっているみたいだった。


「なあ、この写真変じゃない?」  母親に浩之がそう聞くと、 「気のせいでしょ」母親は冷たい口調でそう返しただけだった。


 その時だった。  父親が激しく咳き込んだ。


そして、 ある日、父親は会社で倒れた。  極度の過労だったらしい。  病院で見た父親は、別人のように痩せていた。  それでも父親は笑った。


「家を買うって大変だな」  その一週間後。  父親は他界した。    


 葬式の夜。  浩之は一人でリビングにいた。  ふと、家族写真を見る。  息が止まった。  父親の姿が薄くなっていた。  父親の輪郭が曖昧だった。  まるで消しかけた鉛筆みたいに。 「……なんだよ、これ」  目を擦ってもう一度見る。  やはり薄い。


そして、 翌日には、父親の姿は家族写真からは完全に消えていた。  そこだけ不自然な空白になっていた。  


 それから、  母親は壊れていった。 「この家のせいよ」  「もっといい家なら違った」 「もっとお金があれば」 「安物なんか買うから」  深夜、母親が一人で泣いている声が聞こえた。  そして浩之は気付く。  今度は母親の姿が、写真の中で薄くなっていることを。  


 今年の冬の日。  母親は首を吊って自殺した。  美咲は泣き続けた。 「もう嫌だよ……」  だがその数日後。  美咲も消えた。  本当に、消えた。  学校から帰ると、部屋には誰もいなかった。  警察も来た。  だが誰も、美咲が存在していた証拠を見つけられなかった。 「妹さんなんて、最初からいませんよね?」  警察官にそう言われた時、浩之は背筋が凍った。   


 リビングの家族写真。  そこには浩之一人しか写っていなかった。  だが、その顔は少しずつ変わっていた。  輪郭と目や口元。  知らない顔になっていく。 「……誰だよ」  浩之は洗面所へ向かった。  鏡を見た。 変わってしまった家族写真と同じ顔だった。  


 その瞬間。  インターホンが鳴った。  浩之はふらつきながら玄関へ向かう。  ドアを開けた。  見知らぬ家族が立っていた。  上品そうな父親に  綺麗な服の母親。  そして、中学生くらいの少年。 「今日からこちらに住む佐藤です」  父親が穏やかに笑った。  母親も嬉しそうに言う。 「高く買いましたけど、本当に素敵なお家ですね」  その瞬間。  浩之は息を止まる。  佐藤家の息子の顔が、今の自分と全く同じだった。  少年は不思議そうに首を傾げる。 「お母さん、この人誰?」  だが母親は困ったように笑った。 「誰もいないじゃない」  浩之は震えながら洗面所へ戻った。


 そして、  鏡を見ると  鏡の中には、薄暗い洗面所だけが映り、鏡には、なにも映っていなかった、、。(終)

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