3ー⑩ 冷たくてあたたかい
「いままで優しく接してくれてありがとうございました」
蓮池の青年れんは静かに微笑んだ。
それはれんが時折見せる、穏やかに細めた目元と緩やかな唇の曲線。芙蓉のまなじりと丹花の唇。
しかしいまの彩羽は気づいている。それは見せるための笑顔であり、ただ泣きたくなるほどの彼の優しさから生まれた所作であると。そして同時に全ての幕が内側から閉じられて、その後にはなにも残らない。
彩羽にとってはここから先は未知だった。勇気、決断、肺活量、全てを動員して抗うことに決めた。わからないことはこわくて、ここで出口へ向かいたくなる。けれど彼も同じなのかもしれないと信じたい。
「もうわたしに、あなたの蓮池には来るなということですか」
「いえ。そういうわけでは」
「ではどういう意味ですか」
「ええと……」
「嬉しかったとおっしゃってましたよね、以前に」
「はい」
「いまの、わたしのこれも一方的ですか」
果てしなく澄みきっていて触れることができない彼の奥深い水の底まで、どう潜ればたどり着けるのかわからない。とりあえずいまは、この諦めを包み込んだ優しすぎる微笑を否定することに全力を注ぐ。
「そんなことはないです。しかし……」
「しかし?誰かを想う気持ちは自由じゃないんですか。今度、わたしに同じことを言ったら怒ります」
「すみません。怒らないでください。ぼく自身もわからないんです」
眉をかすかに歪ませて顔を背け、青年の白磁のように透きとおる頬が彩羽の瞳に映る。
「あの日、星合の夜のあと、……彩、羽さんを思い浮かべると、なぜかなにも喉を通りません。一緒にあなたのテントに入るべきじゃなかったとも思いました」
れんは窓際の壁際に立ち、髪を耳にかけて、小さく決意したようにゆっくりと言葉を繋いだ。
「もちろんぼくの身体は空腹を覚えますが、いざ目の前に準備しても摂取する気が失せます。なので芙蓉に食べてもらっていました。胸が刺されたように痛みますが、これは飢えからくる胸やけなんでしょうか。なのに同時になにかで満たされている気もするし、戸惑っているんです」
「こんな症状ははじめてで、マキオさんには大抵の人間が一度は経験する通過儀礼のような『やまい』だと言われました。ぼくは彩羽さんにうつしてはいけないと思って……」
目を伏せて青年は苦く微笑んだ。
「すみません。なにを言っているんだか、意味がわかりませんよね」
彩羽は口元に手をあて、笑いたいような泣きたいような気持ちを抑え込んだ。
「わたしも」
こみ上げるなにかで胸がつまる。そして震えがちに言った。
「一緒です」
蓮池の青年は顔を上げて彩羽を見た。
「え?」
続けて彼女から今月に入って体重が2キロ落ちたと聞き、心からいたわる表情になった。そして無意識に彼女の手をとろうとしてためらった。
彩羽から手のひらを見せて差し出すと、れんはぎこちなく冷たい手を重ねた。相変わらず彼女の肌はあたたかくて柔らかくて、ちいさな手のひらを撫でるとしっとりしていた。
彼女に触れるのはいつ以来だろうか。半端な自分のつめたい皮膚が触れても構わないのだろうか。いままでは自分の体温など気に留めたこともなかった。
これは暗い池の底で描いていた夢想ではない。懐かしく、待ち焦がれた2人きりの時間だった。
「ぼくと会うことで、あなたを傷つけることになりませんか」
「あっ」
彩羽はわざと眉間にしわを寄せる表情をつくった。
「いまなんて言いましたか」
「……すみません」
青年の微笑みから翳りが消えた。もう同じ問いはしなかった。
飛燕荘の残りの窓の分厚い遮光カーテンを隙間なく閉め、れんはブラインドを下ろした。紫外線から家具や調度品を守るため。そして2人の姿を隠すため。熱を帯びた窓の縁が、カナリア色に彩られて染まる。
れんの生成り色のリネンシャツは蓮池にかかる朝の霧の匂いがした。彼の手のひらは相変わらず冷たかった。けれど彩羽と接している部分だけはわずかに温かくなる。そう思うことにした。
翌朝の早朝、蓮池のひとつの蕾が咲いた。先端だけが淡い紅色に滲んだ花弁は誰にも知られず、昇る太陽にも見つかることなく再び静かに閉じた。
第3章おわり
第1部 完




