表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蓮の糸 第1部 The Lotus Threads.  作者: 村井由弥
第3章 蓮始開(蓮はじめてひらく)
PR
30/30

3ー⑩ 冷たくてあたたかい

「いままで優しく接してくれてありがとうございました」

 蓮池の青年れんは静かに微笑んだ。


 それはれんが時折見せる、穏やかに細めた目元と緩やかな唇の曲線。芙蓉のまなじりと丹花(たんか)の唇。

 しかしいまの彩羽は気づいている。それは見せるための笑顔であり、ただ泣きたくなるほどの彼の優しさから生まれた所作であると。そして同時に全ての幕が内側から閉じられて、その後にはなにも残らない。

 

 彩羽にとってはここから先は未知だった。勇気、決断、肺活量、全てを動員して(あらが)うことに決めた。わからないことはこわくて、ここで出口へ向かいたくなる。けれど彼も同じなのかもしれないと信じたい。


「もうわたしに、あなたの蓮池には来るなということですか」

「いえ。そういうわけでは」

「ではどういう意味ですか」

「ええと……」

「嬉しかったとおっしゃってましたよね、以前に」

「はい」

「いまの、わたしのこれも一方的ですか」


 果てしなく澄みきっていて触れることができない彼の奥深い水の底まで、どう(もぐ)ればたどり着けるのかわからない。とりあえずいまは、この(あきら)めを包み込んだ優しすぎる微笑を否定することに全力を注ぐ。


「そんなことはないです。しかし……」

「しかし?誰かを想う気持ちは自由じゃないんですか。今度、わたしに同じことを言ったら怒ります」


「すみません。怒らないでください。ぼく自身もわからないんです」

 

 眉をかすかに(ゆが)ませて顔を背け、青年の白磁のように透きとおる(ほお)が彩羽の瞳に映る。


「あの日、星合(ほしあい)の夜のあと、……彩、羽さんを思い浮かべると、なぜかなにも(のど)を通りません。一緒にあなたのテントに入るべきじゃなかったとも思いました」

 

 れんは窓際の壁際に立ち、髪を耳にかけて、小さく決意したようにゆっくりと言葉を繋いだ。


「もちろんぼくの身体は空腹を覚えますが、いざ目の前に準備しても摂取する気が失せます。なので芙蓉に食べてもらっていました。胸が刺されたように痛みますが、これは飢えからくる胸やけなんでしょうか。なのに同時になにかで満たされている気もするし、戸惑っているんです」


「こんな症状ははじめてで、マキオさんには大抵の人間が一度は経験する通過儀礼のような『やまい』だと言われました。ぼくは彩羽さんにうつしてはいけないと思って……」


 目を伏せて青年は(にが)く微笑んだ。

「すみません。なにを言っているんだか、意味がわかりませんよね」


 彩羽は口元に手をあて、笑いたいような泣きたいような気持ちを抑え込んだ。

「わたしも」

 こみ上げるなにかで胸がつまる。そして震えがちに言った。


「一緒です」

 蓮池の青年は顔を上げて彩羽を見た。

「え?」


 続けて彼女から今月に入って体重が2キロ落ちたと聞き、心からいたわる表情になった。そして無意識に彼女の手をとろうとしてためらった。

 

 彩羽から手のひらを見せて差し出すと、れんはぎこちなく冷たい手を重ねた。相変わらず彼女の肌はあたたかくて柔らかくて、ちいさな手のひらを()でるとしっとりしていた。

 

 彼女に触れるのはいつ以来だろうか。半端な自分のつめたい皮膚が触れても構わないのだろうか。いままでは自分の体温など気に留めたこともなかった。


 これは暗い池の底で描いていた夢想ではない。懐かしく、待ち()がれた2人きりの時間だった。


「ぼくと会うことで、あなたを傷つけることになりませんか」

「あっ」

 彩羽はわざと眉間(みけん)にしわを寄せる表情をつくった。


「いまなんて言いましたか」

「……すみません」

 青年の微笑みから(かげ)りが消えた。もう同じ問いはしなかった。


 飛燕荘(ひえんそう)の残りの窓の分厚い遮光(しゃこう)カーテンを隙間(すきま)なく閉め、れんはブラインドを下ろした。紫外線から家具や調度品を守るため。そして2人の姿を隠すため。熱を帯びた窓の(ふち)が、カナリア色に(いろど)られて染まる。


 れんの生成り色のリネンシャツは蓮池にかかる朝の霧の匂いがした。彼の手のひらは相変わらず冷たかった。けれど彩羽と接している部分だけはわずかに温かくなる。そう思うことにした。


 翌朝の早朝、蓮池のひとつの(つぼみ)が咲いた。先端だけが淡い紅色に(にじ)んだ花弁は誰にも知られず、昇る太陽にも見つかることなく再び静かに閉じた。


 第3章おわり

 第1部 完


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ