そのに すうぃつ
背後から、除雪機みたいなゴゴゴッという音こそしないが、体中の毛穴という毛穴から蒸気を噴出させているようで、特に湯気などは上がっておらず、怒髪天を衝く勢いで某少年マンガの登場人物のように髪を逆立てそうな勢いだけは十分に感じられる剣幕で、F岡さんが二人を咎めた。
「ちょっと、あなたたち。何してるの!?」
二人だけの妄想に入ってくるんじゃないよ、F岡さん、後で飲み物にストリキニーネかテトロドトキシンかアマルガムか、裁断したエロ本、もしくはDVDの破片を混入させてやるからなと、憤死寸前で前後不覚に陥っていた雛口くんは、F岡さんに、シベリア中西部、雪深い山の麓にある、孤立した文化を持つ地域を牛耳る呪術師が、年に三回の豊穣と繁栄の祭儀の際に使用したとされる老化促進の呪い(過ぎ去りし季節を衰退させ、新たなるものを迎えるための、という意味合いであると、雛口くんは知っていた)の呪文を無心で唱えていたが、F岡さんは呪文には耐性があるのか、ヘナヘナと弱る様子もなく大声を響かせていた。その指差した先に、五十ミリリットルほど残ったペットボトルの水が、棚に無造作に放置されていた。
「ここに置いたの、あなたたち?」
金髪は反発した。
「知らないです。私たちが見た時には、もうこうなってました」
「本当? それに、これうちの商品じゃない? 勝手に開けて飲んだの?」
「だから、私たち知らないって言ってるでしょ。なんで私たちがそんなことしなくちゃいけないのよ。意味わかんない」
金髪は不満そうに言った。
「そうだ」と雛口くんも二人の女性の肩を持つ。それ以前に、雛口くんは妄想にふけりながらも、ずっと二人を見守っていた。彼女たちは、水を手に取ってすらいない。雛口くんがさっき棚の前を通った時には、おかしな様子はなかった。考えてみるに、あの泥酔した女性が飲んだ可能性が高かった。
そう思って愚昧なる同僚の首根っこをしめつけて駿河問いの刑に処してやろうと、物陰から体を半分乗り出した時、二つの事象が、雛口くんの意思と体を押しとどめた。
最初に耳に飛び込んできた一つ目の事象。それは、黒髪キャラTの、感情がありありと表れた、しかし同時に、冷静さを宿した、声であった。
「私たちじゃありません。そんなこと言うなら、カメラ見てみたらいいじゃないですか。ちょうどこっち向いてるのがあるじゃないですか」
確かに、その場所は監視カメラの視界に入っていた。確認すれば彼女たちの疑いも晴れるだろう。しかし、F岡さんは顔をしかめると、とんでもないことを言い出した。
「そんなこと言って、確認してる間に逃げるつもりでしょう。そんなしょうもない手に引っかかると思ってるの? 馬鹿にしないでよ!」
F岡さんの怒声に、二人は悄然とその場に立ちつくしてしまった。
F岡さんはなおもたたみかけた。
「だいたいさ、若いからってそんなだらしない格好で、こんな夜遅くまで外を歩いてるなんて、あなたたちどうかしてるわよ。髪もそんなに染めて、お父さんやお母さんが見たらなんて思うか」
もう我慢ならない、これでは二人が可哀想だと、ポケットに忍ばせておいた(はずの)駿河問い用に持っていた縄と小分けにした石を、さっきまであったのになとあちこち探しながら、雛口くんが身を乗り出しかけた時、F岡さんの方から、雛口くんは大声で呼ばれてしまった。
「雛口くん! どこ行ったの! ちょっと来て!」
雛口くんが一瞬迷った、その間隙を縫うように、金髪が抵抗の意思をあらわにした。
「どうして人呼ぶの。私らじゃないって言ってんじゃんか!」
やめなよ、と黒髪が金髪を制した。
「ちょっと店員さん。もういいよ。お金払えばいいんでしょ」
「そういう問題じゃないの」とF岡さん。
「それに」と会話を一度区切って、黒髪が言った。
「彼女が髪を染めているのは、私のせいなんだから。何も知らない店員さんにそんなこと言われる筋合いはないわ」
金髪が、困惑したように黒髪を見つめた。
「な、何よ……」とたじろぐF岡さん。
「私は幼い頃に両親に捨てられて、孤児院で育った。随分いじめられたりもしたわ。私はそんな私でいるのが嫌で、髪も染めて、お化粧もとびきり奇抜なやつをして、何度も退学になりかけた。でも彼女は、私と全くの逆だった。彼女は普通の家庭で普通に育った。『私ってこれからもずっと平凡な、こんな私で居続けるのかな』って、最初私はそれを聞いた時、心の底から腹が立った。本当の自分なんて何の価値もない。むしろ唾棄すべきものだと思っていたから」
黒髪はそこで軽く息を吸い、呼吸を整えた。
「だから、私が退学になりそうになったある時、彼女が私なんかよりずっと明るい金髪で、突然学校にやってきた時には驚きを通り越して、呆れ返ったわ。みっちり二時間くらい、生徒指導の先生に二人して絞られた後、彼女に理由を尋ねて、私は思わず笑ってしまった。『普通じゃないことをしたら、少しは自分も変われるのかなって思って』――そこで私は彼女に言ったの。『じゃあ、私たちは全く別の理由でこうしてここで一緒にいるんだね』って」
黒髪はその場面を思い出すように微笑んだ。
「そこから私たちは、仲良くなったわ。そうしてお互い客観的になることで、私は私が捨てようとしていたもの、彼女は彼女が欲しがっていたものを、意識し、理解できたのよ。彼女の金髪は私のかつて欲していた、別の自分、擬装。そして、私は素の自分に返って、彼女がかつて求めたありのままの自分を、それぞれ生きているのよ。誰にだって文句なんて言われたくないわ」
F岡さんはただ黙して、根を張ったマロニエの木のようにその場で突っ立っていた。
雛口くんは、その様子と、背後の窓ガラス越しに、キラキラと口から何かを放出している先ほどの風俗嬢らしき人影を見ながら、感慨深げに頷くのであった。
そう、雛口くんの突撃を思いとどまらせた二つ目の事象。それは、さっきの泥酔した女性が、夜でも明るく映える、白のワンピース姿の女性に背中をさすられ、かがみ込んいる様子が目の端に映ったためであった。
金髪が少し頬を赤くして言った。
「うん。私は彼女のためにやっているの。誰にも邪魔することはできないんです」
F岡さんは、決まり悪そうに頭をボリボリとかいた。
雛口くんは隠れていた場所から出ると、F岡さんに断りを入れて、外に出た。夜独特の、昼間に起きた、悲喜こもごもの出来事全てを黒く覆い包み込み、全てを永久の時空の記憶として念写する意思をもって駆動していると錯覚さえ起こす、静かに広く澄み切った、幻想的とも言える、かすかに湿り気を含んだ大気を、肺いっぱいに吸い込んだ。キラキラした臭いが、一緒に風に乗って運ばれてきて、雛口くんの鼻をついた。
雛口くんは、タイルの上でキラキラしている女性に近付いて、声をかけようとしたが、一緒にいた女性が、「すみません」と千円札を差し出してきた。その千円札は、もはや懐かしささえ感じさせる、夏目漱石の千円札だった。雛口くんは懐かしい再会に、目を潤ませてしまった。
「この子、お金も払わずに水だけ飲んで出てきたって……汚しちゃったところ、私が掃除しますから、本当にすみません……!」
雛口くんは菩薩のような笑みを浮かべて、いいえ、それには及びません、その代わりしっかりと家まで連れて返ってあげてくださいましとなだめすかして、店内へと舞い戻った。
「F岡さん。代金頂きましたよ。その水、外の女性に持っていってあげてくださいな」
F岡さんは自分が大きな間違いをおかしていたことに気が付くと、途端に平伏して金髪と黒髪キャラTに謝った。ともあれ、疑いが晴れて良かったと、雛口くんは人心地ついた。
しかし、雛口くんは後で、F岡さんに、兎跳び(タイヤ五本装備)で、店内を煩悩の数と同じ、百八回きっちり、回らせてやるんだと、何度も、何度も、強く心に誓いを立てていた。
そうして、すっかり疑いの晴れた二人は、わかってもらえて良かったです、ともうそれ以上何も言うことはなかった。
各々会計を済ませ、店を出ていった二人は、その手をしっかりと繋いでいた。長い間忘れていた時間を埋め合わせるように、強く、絆を求めるように、握りしめていた。
二人は、店に来た時よりも、どこか、心の距離が近付いているように見えた。
それは雛口くんの、独断と偏見による推量と、少しの妄想が含まれているかもしれない。あらかじめお断りしておかなければならないだろう。




