前編
大きな船の前で、綺麗な格好の妙齢の女性が船員と話している。どうやらこれから船に乗るらしい。あの大型船は外国のものだ。これからきっと戻るのだろう。古着でない服を身に纏っているのを見るに、きっと彼女は貴族か裕福な商家の娘なのだ。旅行だろうか羨ましいことだ、などと思いながら、道行く人々は彼女らの横を通り過ぎていった。
「残念ながら今回の話はまとまらなかったわ」
「あっはは、ま、よくある話っすよ。お嬢は美人さんなんだし、次行きましょう、次!」
「うーん、でも婚活って難しいのね。次はもう少し――」
そこで、女性の言葉が途切れた。若い男性の声が、それに覆いかぶさったからだ。
「メイヴィス!」
メイヴィスと呼ばれた女性は、目を丸くして自身を呼んだ男性に振り返った。彼女の視線の先には、やはり小奇麗な格好をした青年が立っている。
「……ええと、こんにちは、カイルさん。どうかなさいました?」
「どうかって、それはこっちの台詞だよ! 君が急に旅立つを聞いて、僕がどれほど驚いたか!」
「はあ……」
カイルと呼ばれた男性はまるで舞台のワンシーンのごとく大声で叫んでいるが、メイヴィスは困惑したかのように首を傾げるだけだ。さっきまで彼女と話していた船員が護衛のように二人の間に立つ。……何か、起こるぞ。人々は遠巻きに足を止め、彼らを横目で見守ることにした。だってこんな面白そうなこと、見逃してしまってはもったいない。
「元々予定していた滞在期間がすぎましたので、先日、ご挨拶もいたしましたが……?」
「ご挨拶って、だってあれは、僕の気を引く為の嘘だったんじゃないのか!?」
「何の話です?」
「僕たちが婚約をするっていう大切な時期に本気でこの地を離れるって言うのか!」
カイルの叫びに、メイヴィスと船員は眉間に皺を寄せた同じような顔を見合わせる。静かな野次馬たちは痴話喧嘩かと期待を高まらせた。
「……カイルさん、残念ですが、私たちの婚約は成立しませんでした。お父上にもその旨お伝えしておりますが、さっきから本当に何を仰っているんです?」
「君こそ何を言ってるんだ。まだ、成立していないだけで、これから成立させるんだろう?」
「いいえ、しません」
メイヴィスの声にはもう、困惑の色はなかった。代わりに、固く強い意思が乗っている。船員たちも船からぞろぞろと降りてきていた。おそらく、この大きな船はメイヴィスの家のものなのだろう。
「だ、な、さっき残念だって言ったばかりじゃないか!」
「そうですね。この国の最大大手である青の商会と縁が繋がらなかったことは残念です。が、それとこれとは話が違います。もう一度お聞きしますが、さっきから何を仰っているんですか?」
「何ってだから……」
青の商会とは、この国の流通のほとんどを担っている国王の信頼も篤い大企業だ。野次馬の内の誰かが「おい、カイルって確か青の商会長の次男だぞ」と呟いた。
「と、とにかく戻ろう。一度、冷静に話し合って……」
「いいえ、いたしません。私は国に戻ります」
「どうしてそんなに頑ななんだ!」
「私からすれば貴方のほうが不思議です。終わった話に、何をそんなに一生懸命になってらっしゃるの?」
「終わってなんていないだろう、始まってすらいない!」
「……そうなのだったら、始まる前に終わったのです。私は貴方と結婚しません。これが結論です」
メイヴィスは話は終わったとばかりに踵を返した。屈強な船員たちに囲まれて、そのまま船に乗り込もうとしている。そんな彼女に向かって往生際悪く、カイルが叫んだ。
「卑怯者! この阿婆擦れめ! そんなふうに男を侍らせて、そうでもしないと商談の一つも成立させられないくせ――、ぎゃっ」
あまりにも品位に欠ける暴言にメイヴィスが振り返った時、カイルは恰幅のよい中年男性に殴り倒されていた。鈍い殴打音と汚い悲鳴に野次馬たちは息を呑んだが、誰も動かない。そろそろ役人を呼んできてもいいような騒ぎだが、そんなことをしたらこの場が終わってしまうから。
「あら、商会長、こんにちは。見送りに来てくださったのかしら」
自身を囲む船員たちを押しのけてにこりと微笑むメイヴィスは、あれだけの罵声を浴びせられたというのに動揺の一つもしていないように見える。「こりゃ駄目だ」と誰かが呟いた。カイルとメイヴィスでは、格というものが違いすぎる。それがこの一瞬で、ここにいる全員に分かってしまうほどなのだから。
当然それを理解している青の商会の長でありカイルの父である人は、胸に手を当てて膝を折った。その顔は、可哀想に商会の名と同じ色をしている。その後ろにいる複数の男性たちもそうした。おそらく青の商会の商人たちだろう。
「メイヴィス嬢、この度は本当に、本当に申し訳なく……!」
「……そうですね。商会長にはよくしていただいておりますし、我ら商団『海竜』としても青の商会とはよい関係を保っていきたいと思っていたのですが」
メイヴィスは冷たい瞳で、倒れたままのカイルを見下ろした。静かな動作だ。けれど野次馬たちは色めき立った。商団『海竜』とは、複数の国を股にかける大商会だ。元々はどこかのキャラバン隊が海に出て発展した組織だそうで、今は『隊』ではなく『団』と名乗っている。そのくらい大きくなった、ということらしい。青の商会はこの国では一番だが、商団『海竜』は規格外だ。
「そのような無作法者が商談の席につくのなら、考え直す必要もあるかもしれません」
「こいつは鍛え直して……。いや、商会から追い出して田舎に封じます! ですから……」
「っ、い、いきなり人のこと殴っておいて、何の話をしてるんだよ、父さん! 僕は――」
「黙れ! この大馬鹿者が!」
「ひっ」
父親の一喝に、カイルは殴られた頬を押さえながらまた蹲る。メイヴィスはそんな二人にため息をこぼした。
「……ご家庭のことですもの。私が口を出すのもなんですしそれでも構いませんが、それではその田舎に住んでいる方が迷惑を被るではありませんか? 大事な商売相手でなければ何をしてもいいなんて考えは、今後の商売の為におよしになったほうがよろしいわ」
「そ、それは、しかし……」
狼狽える商会長の足元で、何故かカイルが顔を上げた。いいぞ、次は何をやるんだ。野次馬たちの心は一つだった。
「た、助けてくれるのか、メイヴィス……」
メイヴィスは一瞬、ひどく忌々しそうな表情でカイルを睨みつけ、けれどすぐにコホンと咳払いをした。
「どうせ纏まらなかった縁ですし、これ以上かかわることもないからとあえて口を出さずにいましたが、その視線が鬱陶しいので申し上げますね。貴方は人の話が一つも理解できていないようですから」
「え……」
「私たち、婚約をするかどうか、この話を進めるどうか、という婚約の前段階の顔合わせをしたんですよ。そもそも貴方、それすら理解していなかったでしょう」
「だ、だってそれは、婚約は、するものだと……」
「私、これでも多くの方から釣書を頂いておりますの。貴方はその中の一人というだけです」
「そ、そんな、そんなの……」
「どうしてそんなこともご存じないの。一番最初の顔合わせの日、貴方のお父上もそう仰っていましたよ」
カイルはへたり込んだままでのろのろと父親を見上げたが、その父親の眼光に恐れをなしてすぐに下を向いた。
「正直、初対面の時点で貴方には違和感がありました。それでも商会長の顔を立てて、顔合わせを含め、貴方とは三度お会いしましたね」
「ああ、それで、この国の観光名所に連れて行って……。き、君も喜んでくれたじゃないか」
「では、つまらない、と正直に言ってよろしかったの?」
「なっ!」
「ほら、怒る。だから、本音と建前という慣用句は大体どこの国にもございますのよ。二枚舌なんて言う方もいますが、これは思いやりですわ。本音を言うことで相手を怒らせたり不快な思いをさせない為に行う、成熟した文化の一つです。礼儀とも言います」
メイヴィスの言葉に野次馬たちはうんうんと頷いた。正直者、などというと何故かよいイメージがつくが、実際にあれは嫌だこれは嫌だと我儘に振る舞う行為を正当化している輩も多い。
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