第五章「正義という言葉」(2)
「お前たちがノルドさんを連れていったから! 父ちゃんの仕事がなくなっちゃったんだ! 鉱山が止まったから父ちゃんが働けないって! どうしてくれるんだ!」
子供の目に涙が滲んでいた。怒りと怖さが混ざったような顔だった。
レンは何も言えなかった。
何かを言おうとした。言葉を探した。しかし何も出てこなかった。
正しいことをした、規則に違反していたノルドが悪い、あのまま放置すれば次の暴走事故が起きていたかもしれない、とも言えた。
全部本当のことだが、この子に言う言葉ではなかった。
路地の奥から女性が走り出てきた。三十代くらいの、働き疲れたような顔をしていた。子供を見て、レンたち三人を見て、深々と頭を下げた。
「すみません、この子が……すみません」
子供の肩を掴んで「こっちに来なさい」と引っ張ろうとする。
子供が「でも母ちゃん」と涙を流しながら抵抗しようとするも、母親に連れられ路地に戻っていった。
二人の後ろ姿が路地の奥に消えた。
三人はしばらく、その場に立っていた。
「……行きましょう」とファリスが言った。
レンとリアーノは頷いたが、足が少し重かった。
新しい工具を受け取り、蹄鉄を受け取り、三人は砦への帰り道を歩いた。
ファリスはずっと黙っていた。リアーノも何も言わなかった。
街を出るとき、レンは一度だけ振り返った。
ヴァルタの街がそこにあった。いつもと変わらない石造りの建物、土の道、遠くに見える鉱山の煙突。もちろん煙は出ていなかった。
砦に戻ったレンは、夕方になっても食堂に入れなかった。
砦の外の石段に座って、空が暗くなっていくのを見ていた。遠くにルグナ鉱山の煙突が立っているが煙は出ていない。
「飯、食わないのか」ガルド隊長が来た。
何も言わずに隣の石段に腰を下ろして、薬草の茎を新しいものに替えた。急かすでも諭すでもなく、ただそこに座った。
レンは少し待ってから、口を開いた。
「今日、街で子供に怒鳴られました」
「聞いた」
「父親が鉱山で働いてたそうです。鉱山が止まったから仕事がなくなったって」
「そうだろうな」とガルド隊長が言った。
「……俺たちは正しいことをしたんですよね」
自分で言いながら、語尾が少し弱くなった。確認というより、縋るような言い方になってしまった。
「したな」とガルド隊長が答えた。
「じゃあ、なんでこんな気持ちなんですか」
ガルド隊長が答えなかった。夕焼けの空を見ていた。
レンは続けた。止められなかった。
「違法な魔導石を使っていて暴走事故を起こした。だからノルドを逮捕した。全部正しい。手続きも踏んだ。上を通して役人も呼んだ。どこにも間違いはない。
なのに―――」
言葉が詰まった。
「なのに、あの子供は泣いていた」
空が暗くなっていく。橙色が濃くなって、端から紫になっていく。
「何も言えなかったんです。正しいことをしたのに、何も言えなかった。あの子に言える言葉がなかった。それがなんか―――」
なんか、という言葉の先が出てこなかった。
悔しいとも違う。情けないとも違う。ただ、何かが胸の中で宙ぶらりんになっている感じがあった。
正しいことをしたのに、正しかったという気持ちがどこかに行ってしまった。
「俺、何のためにここに来たんだろうって、少し考えました」
言ってから、なんて子供じみたことを言ってるのだろうと思った。
ガルド隊長はしばらく黙っていた。
空の色がさらに変わった。煙突の影が長くなっていく。
「正しいことをするのと、みんなが幸せになるのは別の話」
静かな声だった。
「この仕事をずっとやってると、それだけは分かってくる」
「……それで納得できるんですか」
レンが聞いた。本当に聞きたかった。隊長はどうやってそれと折り合いをつけているのか。
何年もこの仕事をして、何度も同じ思いをして、それでも続けているのはなぜなのか。
ガルド隊長が薬草の茎を嚙んだ。少し間を置いた。
「納得、か」
呟くように言った。
「納得できる日もある。できない日もあるさ」
「今日は」
「さあな」
答えになっていなかった。しかしガルド隊長の声に、諦めたり疲れたりしたものは無かった。
ただ、長い時間をかけてそこに辿り着いた人間の、落ち着いた声だった。
「お前はまだ赴任して一ヶ月も経ってない」とガルド隊長が言った。
「はい」
「正義がなんなのか、考えるのは悪いことじゃない。ただ」
少し間を置いた。
「答えが出ると思って考えると、しんどくなる。答えが出ないまま抱えていくものだと思っておいた方が、長持ちする」
レンはその言葉を咀嚼しようとした。しかしうまく消化できなかった。
「それって……結局どうすればいいってことですか」
「どうもしなくていい」
「どうもしないんですか」
「今日のところはな」とガルド隊長が言った。そして「まあ、こんな感じの職場だから。気楽にな」と続けた。
ガルド隊長の言うことは、レンにとって欲しい答えになっていなかった。
でも、それ以上は言わないという、ことの重さは、何となく感じた。言えないのか、言わないのか、言う必要がないのか。どれも違う気がした。
ガルド隊長が先に立ち上がり「バッハの飯は悪くないぞ」と言って砦の中に戻っていった。
レンはもう少しだけ外にいた。
ルグナ鉱山の煙突が、夜の空に黒く立っていた。
あの子供の顔が、頭の中から消えない。【どうしてくれるんだ】という声が、まだ耳の奥にあった。
正義という言葉が、今日から少し重くなった気がした。
それがいいことなのか悪いことなのか、レンにはまだ分からなかった。
第五章 了




