二度目の坂道出版出向
それから一週間。これまで白かった幸子の日誌が、少しだけグレーに染まりつつあった。
寝て起きて会社に向かい『おはようございます』、定時で『おつかれさまでした』。
相変わらず無気力な社内だが、幸子は一人で企画を作りフリーペーパーのデザインを考える。
それを先輩に見せても反応は鈍い。
それでも一日一回、必ず企画を立て続けた。
やがて3日後、幸子に影響を受けたように野田も企画を探し始め、寺下から聞こえるゲーム音も一日半分以下に減った。奥田も密かに営業の書店めぐりを開始した様子である。
前島だけは未だ薄暗いが、久々に社内に活気が戻りつつある……少しだけ光が見えた時、幸子の有給の日がやってきた。
「おい。そこの小娘」
恐る恐る坂道出版の階段を下りた瞬間、幸子は真横から声をかけられた。
その声はまるで暗闇からにじみ出てきたようで、幸子は悲鳴を上げる。
悲鳴を上げながら振り返ると、苦虫でも噛み潰したような顔をしたお爺さんが一人、腕を組んだまま幸子を睨んで立っている。
「お前か、私の原稿をばらまいてくれたのは」
「……あ」
着流し風の着物に、麻織の羽織、草履を履いた白髪の……背の低い……そのくせ妙に圧のある存在。それはいかにも小説家、という姿だ。
「せん……せいですか」
名前も分からないが、幸子はしゃん、と背を伸ばす。
「失礼しました!」
「小娘に先生と呼ばれる筋合いはない」
ぴしゃりと、音でも出るような声だ。彼は幸子の腕に無理やり、原稿用紙を押し付ける。
それは一週間前、幸子がばらまいた原稿である。
「これ……」
「構わん、どうせボツの原稿だ、あいつが後生大事に取っていたようだが、この原稿にもう興味もない。捨てておけ」
「わ、私が散らかしたから……でしょうか」
「そうじゃない」
彼はもう80歳を超えているくらいだろうか。見た目の年齢の割に、言葉は達者だ。しかし、突き出してくる手の甲や指の先に老いが見える。
亡くなった祖母も、こんな手をしていた。そんなことを思い出して、幸子は切なくなる。
しかし老人は幸子の気持ちなど気づきもせず、ぷいっと顔をそらした。
「私には才能もない。くだらん文章ばっかり書いてる。あの原稿も、そのうちの一つだ、踏まれるのがお似合いだ。先生などと言うな、どうせ本などずっと出せないクズだ私は」
そして彼は幸子の言葉を聞くこともなく、オフィスの隣にある小さな部屋に吸い込まれていく。
ぎぎ、と音を立てて閉じた金属音は彼からの完全な拒絶の音だった。
「お、先生に怒られた?」
しょんぼりとオフィスに足を踏み入れると、筆掛が珍しく生き生きとした顔で幸子を見る。
人の不幸がたまらなく楽しい、といった顔だ。
今日の彼はよれよれのシャツに、ハーフパンツといった恰好で、相変わらずオフィス感はない。少年っぽい男だった。
「捨てておけって言われました」
「植木の後ろにあるぞ、シュレッダー」
筆掛はへらへら笑いながら自分の机に戻ると、椅子に飛び乗る。
「どうせあの先生、年中スランプでいっつも書いちゃ捨ててんだ……な。編集長」
筆掛は椅子の上であぐらをかいたまま、くるくると回る。
今日は弁河は不在。奥にいる編集長だけが困ったような顔で笑っている。
「筆掛君、そう責めないでくれ。あの人はすごい小説家なんだがね……まあ、往々にあることだが昔気質で気難しく完璧主義でね」
「いい加減にしてほしいぜ。俺、何回も校正してんだぜ。誤字も絶対に認めねえし」
「筆掛君、声が……ほら、先生に聞こえるから……」
編集長は今日は深いモスグリーンのスーツに、ピンクのネクタイ。こんな冗談みたいなスーツがよく似合う男性だった。
彼は少し声を小さくして幸子を見る。
「あの人は書いてる原稿、すぐにあきらめてしまうんだ。良い原稿なんだけどね。絶対に完結しない……まあ、ここまでくれば、さいごまでお付き合いする所存だが。そうそう、隣の原稿部屋で執筆しているから、時々出会うかもしれないね」
二人の格好の落差を眺めながら、幸子は先程の原稿を思わず、鞄にねじり込んでいた。
……幸子の人生は諦めと妥協の連続だ。だというのに、人の諦めを見るのは辛かった。
「お前さあ、今日も須坂の婆さんち、いくの?」
「はい」
筆掛はくるくる回していた椅子をぴたりと止めて、目を細めて幸子を見る。
「ふうん。キトクなやつ。どうせ書けねえ書けねえってぐだぐだ言われるだけなのに」
「筆掛君」
「ああいう奴らはしょせん、作家先生ごっこしたいだけだろ」
「筆掛君。あの人は地獄耳だ。聞こえたらまたふてくされるぞ」
「で、どっかで妥協して捻り出すだけ。それでおしまい。一人ひとり丁寧に付き合ってるほうがバカみてえだけどな」
「ふーでかけくん」
「編集長。前も言ったけどさ、俺は基本的に人間を信じてねえんだよ」
筆掛は椅子から飛び降りて、幸子の前に立つ。
幸子より、一回り小さい。しかし、睨む目つきは鋭い。
「……校正ってのは何ごとも疑ってかかるのが仕事だ。で、その疑った目で見たのが、これだ」
ぽん、と幸子に押し付けられたのは丁寧に折られた一枚の紙。
恐る恐る開いてみると、それは、幸子がなくしたフリーペーパーだった。
「ひでえ原稿。適当に文字をぶっこんでんじゃねえぞ」
原稿にはびっちりと、赤字が入っている。筆掛の字だ。
一週間前に見たゲラと同じ。整ってわかりやすい文字。態度は悪いが彼の文字は真摯だ。
それを見て、幸子の目が見開く。ぎっちり詰まった朱書きのおかげで、このフリーペーパーが生き返った、そんな気がした。
「あ、ありがとうございます。あの、わざわざ見てくれたんですか?」
「ちげーよ。落ちてたから! ちょっと気になっただけだから!」
幸子が頭を下げると彼は慌てたように顔をそらして机まで逃げる。そして不思議そうに目を細めた。
「これさ……校正者、見てねえの? ひどすぎるんだけど」
「人が……」
筆掛の言葉に思い出したのはオフィスの風景だ。去年までは確かに校正者もデザイナーも存在した。しかし部署ごと流された時、彼らは別の部署に移っていった。
「……いないんです。校正者も……デザイナーも」
恥を晒すように、幸子は呟く。
「最後に外注に出すんですけど、それまではほぼ未校正で……」
「ふうん。面倒そうな仕事。そんなら辞めてさ、ここにくれば?」
「筆掛君」
坂道の声が、飛ぶ。筆掛は亀のように首を引っ込め、わざとらしくあくびを噛み殺した。
「つまんねー仕事で人も少ねえんだろ。とっとと逃げればいいのに」
筆掛の言葉で思い出したのは、地下資材置き場で聞いた寺下の言葉だ。
……早く逃げたほうが良い。
幸子もそれは、薄々わかっているのだ。
憧れていた道坂出版社。幸子の夢は、作家と一緒に本を作り世界に届けること。
今の部署に残り続ければ、その夢も潰える。
……しかし。
「私は……人を信じたいです」
幸子は鞄の隅を握りしめたまま呟く。
「私の仕事のことも、須坂さんのことも」
考えることは多すぎて、幸子は時々潰されそうになる。
しかし、忘れないのは前を向くことだ。
前を向いて足を出していれば倒れるか進むか、二択だ。そう教えてくれたのも祖母だった。倒れればそれまで。倒れたくないなら前に進む。
祖母の言葉を思い出したのは、有給申請した夜のこと。
しょぼしょぼとした頭を一発パシリと殴り、幸子は前に足を踏み出してみようと決意したのだ。
いろんなことを諦めて生きてきた。
ただ、物語を作ることだけは諦めたくない。
「信じたいです」
幸子は須坂の顔を思い浮かべていた。
あの綺麗なイングリッシュガーデンに一人で過ごしていた須坂はどこか寂しそうだった。
寂しい人の心には物語があるのだ……それは昔、読んだ赤革の本にあった一節。
主人公の女の子は幼くして奴隷商人に売られ、唯一の友達だった猫を奪われる。
寂しさの中、彼女は物語を生み出して、それが親友でもあるお姫様の出会いのきっかけとなる。そして、彼女たちは大冒険へと出かけていく……。
「きっと、あの人には、書きたい話があるって」
「その心意気だ」
坂道が笑顔で幸子を見て、幸子の心がふっと軽くなる。
だから幸子は今日も、裏出口に向かって駆け出していった。