15.
川下り屋の#735がコロニーで製造されたのは二十四年前のことだった。刃渡り四十センチの分厚い特殊合金製のナイフを二本、それに七五口径のライフルが彼に与えられた武器だった。感情コードの発達が遅く、十年間の出撃義務のあいだ、彼は戦友も作らず、淡々と任務を遂行してきた。
製造から十年が経ち、引退した彼が居を定めたのは第十一居住区と呼ばれる観光用居住区だった。そこは清流と峡谷の温泉町をコンセプトに創られた居住区であり、温泉まんじゅうを蒸す煙が漂う町の中央をろ過循環式の河川が流れていた。#735はそこの川原で何をするともなく、水が岩の上を滑り通り過ぎていくのを眺めていた。
彼が水面を眺めていた場所から五十メートル上流にはコロニー慣習復元委員会主導の笹舟流しが行われた。彼らは笹の葉を千枚用意し、有志の住民や観光客とともに千艘の笹舟をつくった。流された笹舟はその風情を喜ばれ、そして川を一通り流れきると一つ残らず居住区外に用意されたフィルターで回収された。最後の一艘が回収されるころには一人の少年型戦闘用アンドロイドがコロニーを捨てる覚悟を決めていた。
ただ流れているだけの川は何の感慨も沸かせなかったのに、踏み潰された空薬莢のような形をした笹舟の群れが目の前の川を流星のように滑っていくのを見るや、全ての感情コードが解放され、彼の知能が「座っている場合じゃない! 水に魅せられろ。お前はボートを作るんだ!」と命令してきたのだ。
彼は地上に出て、自分のための川を探して一年彷徨い、ついに文句のない川を見つけた。その川は狂いきった四季によって支配された山を流れていたが、彼にとって大切なのは山ではなく川、湖、汽水湖だった。現役時代に使っていた二本のナイフで立派な丸木舟をこしらえ、川探しの旅の途中で屠った異星獣の骨で笹舟の模様を作り船首にはめ込むと、粗末な小屋をつくって川下り屋と称し、十二年間客が来るのを待っていたのだった。
「大丈夫だって!」#735は川のざわめきに負けない大きな声で言った。「ちゃんと仮想空間をつくって何度もシュミレーションしたんだ。事故が起こる確率はほんの六十四パーセントだぜ」
逆鱗に触れられた龍のごとく荒れ狂う水流の真ん中でそんなことを教えられた♯882の言葉は自然辛辣なものになりかけた。水は白く細かく泡立って、危険な岩石を隠している。そんな岩にぶつかれば、丸木舟はひとたまりもないだろう。しかし、天竜川の渡し舟で侍に頭を打たれた西行法師は理不尽な暴力に耐えてみせたのだ。♯882は黙って左右の舷側を両手でつかみ、四十五度の角度で傾く舟にしがみついた。
「これはアンケートなんだけど」#735はたずねた。「どうやってうちの店を知ったんだ? 口コミ? それともインターネット?」
#882はそれに答えず、黙って舷側にしがみついていた。#735は#882が答えるまで背中を爪先で突っついた。
「立て札だよ」#882はしつこさにうんざりした様子で顔だけ振り向いて言った。
「なんだって!」#735は大声で訊き返した。水は轟々と音を立てていて、水にえぐられた岸辺の崖からの反響も大きかったのだ。
「立て札だよ!」#882は叫んだ。「頼むから舟をもっと穏やかな流れのほうへ寄せてくれ!」
「そりゃ無理だ! 川の穏やかなところを流れるのは汽船会社の仕事だ。おれは川下り屋だからな。川の一番危険なところを流れなきゃいけない。スリルがうちの醍醐味だし、穏やかな流れを下る客を汽船会社の連中から取っちまうのはフェアじゃない」
「この地上に汽船会社なんてあるわけない!」
「まあ、そうかもしれないけど、あらゆる可能性を考えて自分の店を経営上のリスクから回避させるのが経営者ってもんだろ。それにたとえ水に落ちたとしても、おれたちはアンドロイドだぜ」
「だったら何なんだ!」
「アンドロイドが溺れ死んだ話なんて聞いたことがない、だろ?」
「それでも岩に叩きつけられたらおしまいだ! ぼくらがその最初のアンドロイドになる可能性だって――」
丸木舟が跳ね上がり、五メートル下の水面に叩きつけられ、#882の言葉はバラバラに飛び散った。
川が落ち着きを取り戻し、#735が言うところの汽船会社向きのゆっくりとした流れを丸木舟が進むころになると、♯882にも川を愛でる余裕が出てきた。川沿いの松や四季の狂いに惑わされずにきちんと緑の葉をつけているもみじ、別の川の支流から流れ落ちてくる高さ三十メートルの滝など大崩壊前の人々が好んで撮影しては自分のブログに載せていた景色の数々をゆっくり移動しながら見るのは楽しいことだった。これは歩きで移動していては得られない感慨だ。川の流れに乗って移動している場合、絹糸のようになって流れ落ちる美麗な滝や水を飲む鹿の親子といったものに遭遇しても立ち止まることができない。その景色を見て感動することができるのはほんの三十秒足らずであり、一秒ごとに角度が変わり、景色の見せる横顔も変わっていった。だからこそ、舟で川を下るものは一秒一秒を大切にしなければならないのだ。
♯882や#735、そしておそらく他の全てのアンドロイドは水を粒子の形で見ることができる。そして、水の粒たちはより大きなものに、最終的には海になりたいという憧れを持って震えていることを知っている。それは統合への野心だった。そして、川というのはそれに真っ向から逆らう存在であった。一つに集まろうとする水の意志を川はあらゆる手で妨害しようとする。流れの真ん中に岩を置いて水を二つに分けたり、滝を創って水を粉々に砕いたり、あるいは川自体が二つ、四つ、八つ、十六の支流に分かれて、水たちの合流を阻止せんとしてきた。多くの生き物に水を飲ませて流れから分離させることにも成功したし、人間を使って、川の水を農業や工業用水として大量に吸い取らせたこともあった。だが、どうあがいても水は結局海へと到達する。川が人間を利用して陸にばら撒いた水は蒸発して雲となり雨となって、海へと落ちていく。人間が飲んだ水ですら、結局は汗や小便、まれにはその肉体ごと水死体となって海へと流れ落ちていくのだ。水が海になるのを邪魔する川の試みは始めから成功する見込みなどないものなのだ。だからといって、川は川であることをやめようとはしない。雲から雨が降り、地下から水が湧き出る限り、岩は水を掻き分け、滝は水を砕き、川は何本もの支流に分かれ、多くの生き物の喉を潤していく。たとえそれが最後には海に合流すると分かっていても、だ。それを思うと♯882の心は川への憐憫でいたたまれなくなるのだった。