14.
頂上から見ると、この山系全体が雪と紅葉と熱帯雨林のパッチワークに支配されているのが分かった。おまけに山のふもとにはマングローブさえあった(そこでは川は広く温く穏やかに流れ、水はしょっぱくなり泥の上では海老やトビハゼが跳ね回るのだ)。♯882の眼下では渓谷に雪を降らせたのと同じ雲が突如積乱雲に生まれ変わり、熱帯雨林をスコールで撫でていく。この山では数ヶ所で同時に降雪とスコールがあるのだ。この有り様を見れば、どんな気象学者でも気が狂ってしまうだろう。学者たちのうち半分は常識外れの現象にぶつかり戸惑った末に狂い、残り半分は常識外れの現象を研究できる喜びのために狂ってしまうのだ。
西への下山口を探していた♯882は雪深い斜面とテキーラの原料になる竜舌蘭が群生する斜面のあいだに、何も生えていない石ころだらけの斜面を見つけた。そこの石はみな苔に覆われていて、手で触れてみると水が滲み出た。苔石の斜面は湧き水の上にあり、♯882は源流を見つけたのだ。苔で滑りやすい川沿いを下る彼の行動をベテランの登山家たちは非難するであろう。だが、背後の雪崩に怯えながら雪の渓谷を降りるか、旋盤工が使う刃のように分厚い竜舌蘭の密生地を全身切り刻まれながら降りるかを選ぶよりは♯882の取った選択肢のほうが無難なのだ。ただ、それでも降る位置を間違えた間抜けな吹雪やスコールに襲われる確率がないとはいえなかった。
ともあれ、こうして♯882はこの苔から滲み出る名も無き源流を見守りながら山を降りることにした。何でも偏執的に極めたがる中国人の職人がつくった極細の白い麺のように細かった川の流れが徐々に加勢を得て、広さと深さを獲得し、小さいながらも瀬と淵を得ていっぱしに渓流と名乗れるくらいにまでなると、名も無き川はついに初めての滝を経験した。落差は百五十センチ足らずだったが、川は見事に流れ落ちてみせた。岩へのぶつかり方といい滝つぼの穿ち方といい文句のない滝だった。川幅はどんどん増していき、水草が底一面を覆ったかと思えば、どこまでも深そうな藍色の水をたたえた曲がり淵が川の方向を強引に変えさせたりした。二度目の滝は幾筋にも分かれて十メートル以上の落差を落ちていった。水は岩に分かたれて別の滝つぼに落とされても、最後はまた同じ流れで再開することを知っていた。だから、岩にぶつかった水の砕け散り方は荒々しさよりも心安さを見るものに感じさせるのだ。
♯882が看板を見つけたのは、二度目の滝から五十メートルと下らないところ、名も無き川がもはや見守られることを必要としない強い流れに成長したときだった。
〈この先百メートル 川下り屋あり〉
下流を指す矢印の形をした木の板に木炭で書きつけたその文字は何度もなぞられたのだろう、かなり濃くはっきりと見えた。大崩壊前のものではないのは明らかで、この看板は作られて数年と経っていなかった。
川下り屋は川沿いの杉林のなかで柱と屋根だけの壁のない小屋を事務所としたささやかなレジャー施設だった。それでも屋根には〈川下り屋〉と木炭ではっきり書かれた看板が固定されていた。店主は灰色の戦闘用スーツを着た少年型戦闘用アンドロイドで#735と名乗った。
「お前、運がいいぜ」#735は挨拶代わりにコバルトブルーの目でウインクした。「今日は絶好の川下り日和だ」
「でも、あそこの雲、吹雪いてるようだけど」♯882は遠慮がちに言った。「あれがこっちに近づいてきてないかな?」
「あの雲がこっちに来ることはないって。それに来たとしても、おれたちはアンドロイドだ、だろ?」
「だから?」
「だから、吹雪を食らって川に落ちたって凍死はしない。それにおれたちの着てるものときたら、まさにウェットスーツみたいなもんじゃないか。おあつらえ向きってやつだよ」
「きみの安全に対する認識はよく分かったよ。それで、よく営業免許が取れたね」皮肉のつもりで♯882は言った。
「エイギョーメンキョ? なんだそれ? お経の一種か?」
「エイギョーメンキョってのはね」♯882は夢見るような顔で言った。「正しくはエイギョーメンギョといってね。淡水エイの仲間さ。原産地はバングラデシュなんだけど、住処にうるさい魚でね。その魚は吹雪が通り過ぎる川では絶対に暮らさない。雪が川に落ちたときのひやっとする感覚が嫌いなんだ。この川にはエイギョーメンギョはいなさそうだ」
「へえ、そうかい。ま、おれにはエイギョーメンギョなんて必要ないな」
「どうして?」
「うちは釣り舟じゃない。川下り屋だ。川を下って商売してる」
「これまでにお客が来たことはあったかい?」
「店を開いてから十二年間の営業日誌がここにある」といいながら#735は自分のこめかみを指でつついた。「それを送信するよ。見てくれれば分かる」
♯882は記録データを受信し、十二年分の営業記録に目を通した。
「もう一回送信してくれないか?」♯882は困った様子で言った。「どうも受信に失敗したらしい。記録データが真っ白なんだ」
「それであってる。今のところ、来客者はいない」
「まあ、地上に人がいないからね」
「絶対にいないとは言い切れないだろう? 異星獣どもとうまいことやってるやつらがいないとは限らない。そして、そういうやつらが今日はいい天気だから山までハイキングしようと言わないとは限らない。ハイキングに来たやつらが降りるのが面倒くさくなって川下り屋の舟に乗って一気に山を下ろうと考えないとは限らない」
「そうだね。たぶんこの大崩壊後の地球の表面で川下り屋をやっているのはきみ一人だ。独占企業だよ」
「そうなんだ」#735は軽く開いた自分の両手を恐ろしい破壊兵器のように見つめて言った。「川下り業界の将来はおれの手にゆだねられている」
「そのとおり。じゃあね」
♯735は立ち去ろうとする♯882の腕をつかんだ。「まあ、待ちなって。今日は絶好の川下り日和なんだぜ」
♯882はずるずると丸木舟の浮かぶ淵へ引きずられながら言った。「うん。僕としてはあの吹雪そうな雲が気になるけど、その道十二年のきみがそう言うなら、そっちの意見を尊重するよ」
「なら、川下り屋を利用するべきじゃないか?」
♯882は腕をつかまれたまま川を見た。かつてあれほど頼りなかった水の流れは今や激流と化して、白く泡立った水が崖や岩場に狂ったように体当たりしては砕け散っていた。
「うーん、僕としては歩いて下りたい気分で――」
「川下り一回五千円っきり! これでふもとのマングローブまで一気に下りられるんだ。お得だよな?」
「悪いけど僕、お金は一円も持ってないんだ」
「ホントか?」♯735はピタリと動きを止めた。「こいつは驚いた。旅に出るってのに用意が悪いな」
「ホントだよね。まだこの世界で日本円が通用するなんて夢にも思ってなかったんだ。だから、僕としては残念だけど断腸の思いで歩いて山を下りるよ」
「じゃあ、こうしようぜ」#735はまた#882を引きずり出した。「初めての客だから料金はサービスするよ。払わなくていい。やったな。これで川下りができるぞ」
♯735は嬉々としてそう言いながら、♯882を淵に浮かんだ丸木舟へと有無を言わさない力で引きずっていった。♯882は藍色の水に浮かぶ丸木舟を見て、自分の立場がリバークルーズを楽しむリッチな観光客ではなく、新型の向精神薬を注射される実験用ハツカネズミと酷似していることを悟った。そして、ハツカネズミは尻尾を捕まれたら最後、ただ黙ってその身を注射針に晒さなければならないのだ。




