13.
夜明けとともに機関車を捨てて西にかすかに見えていた山脈を目指して歩き始めた。数日後、砂漠は唐突に終わり、♯882の眼前には雪渓の裾が広がっていた。雪渓は切り立った崖に挟まれていたが、左の崖では椰子林が密集し、右の崖ではもみじが赤く色づいていた。砂漠と雪渓の境目に立った♯882は左手で砂漠の砂をすくった。砂は焼けるように熱く、もう一方の右手ですくった粉雪は凍てつく冷たさだった。両方の手を合わせると、ジューッと音を立てて白い湯気が立ちのぼり、常温の湿った砂団子が出来上がった。中空に初夏の太陽が輝き、左側から熱帯の風が、右からは枝を離れた紅葉混じりの秋の風が、そして雪渓の奥のほうからは冷たい冬の風が吹き降ろしてきた。
大崩壊は様々なものに終止符を打ったが、四季の移ろいもその一つに数えられるかもしれない。母なる大自然は春夏秋冬をトランプのように切って、好きな場所にばらまいてしまった。
しかし、こんなめちゃくちゃな気候を見せられても、♯882は、この世のどこかで桜がきちんと花を咲かせているという確信を抱き、歩を進めることができた。暦が狂いきったこの世界にはきちんと彼のための桜が用意されているし、彼がその花の下で動きを永遠に停止するときは必ず満月が上ってくるのだ。
踏むと膝まで沈み込む柔らかい雪の渓谷を♯882はゆっくり辛抱強く上り続けた。彼は気まぐれに体を粉雪のベッドに投げ出し、大の字型を残したり、固めた雪玉を転がして、それが徐々に大きくなり雪崩へと成長しないかわくわくしながら見守ったが、雪玉はたいていバスケットボールくらいまで成長すると、椰子の崖から吹き降ろしてくる熱風にもろにぶつかってしまい、割れて溶けてなくなってしまった。
雪渓を挟んだ崖はお互い遠ざかったり近づいたりしていて、だいたい雪の谷間の幅はいつも五十メートルから三百メートルくらいになっていた。♯882はそのちょうど中間を歩くようにして進んでいた。だが、時には申し合わせたように椰子の葉と紅葉の枝が重なり合うくらいにまで崖が近づくことがあった。そこまでいくと雪渓は切り通しと名を変えた。刻み目のような崖の狭間からは常に向かい風が吹き、ひゅうひゅうと不気味な音で鳴きながら、粉雪を吐き続けた。来るものを拒むようなその様相にもかかわらず、♯882は切り通しの雪道に足を踏み入れた。恐ろしげな音を立ててまで侵入者を追い払おうとする何かがあると確信したのだ。すると、まず白い雪の道で、紅葉と椰子の葉の形に切り取られた眩い木漏れ日が彼の目を楽しませた。そこに風が巻き上げた粉雪が頭上の紅葉にぶつかると、冷たい空気で気がふれた紅い落ち葉が舞い落ちて白く輝く木漏れ日の上にひたりひたりと重なっていった。こうして雪と氷の切り通しは水晶の宮殿のように輝き、飾られていった。冷たさは気にならなかった。彼は今の時点でこんなに美しいのなら、夜明けや日の入りにはこの雪渓全体がどんなふうに色づくのか想像し、ため息をついた。
もし舞い落ちてくるものが雪や紅葉ではなくて、桜の花びらなら彼は如月の望月までここに居座り、動作を停止していたかもしれなかった。切り通しを出るころになると、山頂の向こうへ陽が沈み、陰った雪渓では冬の支配がいっそう強まった。夏の空気と秋の空気がそれぞれの崖へと押し戻されると、粉雪はいっそう軽やかに舞うようになった。
♯882は空の残照がなくなるまで歩いて、そこで止まった。周囲五十メートルにはただ雪だけがあった。銀の削り屑のような月が宙にかかっていた。空に配置された無数の星々を眺めていると、時おり灰色とくすんだ真珠色の雲の塊が彼を包み込み、そして離れていった。
形を変えながら遠ざかっていく雲をぼんやりと見ていた♯882は突然立ち上がると、自分の感情コードがえぐられるような喪失感と正義が実行されていないときに沸き起こる不公平さを感じていることを発見した。そして、気がつくと両手で粉雪をすくえるだけすくい、力いっぱい息を吹きつけた。飛び散った粉雪は星空から降る柔らかな光を跳ね返し、ほんの一瞬だけ風にたなびくカーテンのような像を結んだ。像はあっという間に崩れ、粉雪は煌きながら、舞い降りて消えていった。
「違う。そうじゃない」
♯882は何度も雪をすくっては息を吹きつけた。そのたびに光に照らされた粉雪は王冠、イルカ、梯子、取っ手つきのアラビア式コーヒー鍋、イタリアの刀匠が作る錐のような短剣の形をした像を結んでは消えていった。それらは彼が見たい像ではなかった。彼は納得せず、雪をすくい続けた。
一晩、彼は雪をすくっては吹きつけ、宙にきらめく粉雪をじっと見ては違うとつぶやいて、まるでそこに見たいものが隠されているかのように雪をすくった。東の地平線に光がにじみ始め、星空が宙空の頂上へと追いやられ始めたが、彼は星空に向かって雪を吹くのをやめなかった。
「頼む。見せてくれ」
何に祈ればいいのか分からないまま、彼はそうつぶやき、雪に息を吹きつけた。その瞬間、まるで歌うような風が吹き、粉雪が曙光の筋に重なった。雪渓を杏色に染めた光と歌う風に乗った粉雪が出会って初めて見えた。それは天使だった。
#67B2そっくりの美しい天使が羽根を広げて、歌いながら宙へと舞い上がろうとしていた。
粉雪の煌きが結んだ像はほつれるようにして消えた。だが、♯882は空から目をそらさなかった。彼には愛と歌、歌と幸福を司る天使が薄れつつある星空へと昇っていく姿が確かに見えていたのだ。