episode.03「みーたんのいうとおり」
本作は単体でもお読みいただけますが、全3部作の第2作目となります。
1作目となる『群青の嘘 ~港の廃屋と消えた少女~』の世界観を知ってから触れていただくと、より深く楽しんでいただけるはずです。
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昇降口の冷たいコンクリートの上で真新しい上履きに履き替え、ピカピカの長い廊下を歩いていくと、数名の生活指導の先生たちが厳しい目を光らせて立ちふさがっていた。新入生の服装や身だしなみのチェックだ。
スカートの丈は規定通りか、髪色は染めていないか、爪の長さやリボンの結び目まで容赦なくチェックされている。そのピリピリとした緊迫した空気に気圧されて、周囲の新入生たちも青白い顔で小さくなりながら列に並んでいた。
「ねえ、ちょっとあいか……。私、なんか変じゃない? ネクタイ曲がってない? 大丈夫かな……」
制服のブレザーを両手でぎゅっと握り締めながら、つみきが不安そうに小声で耳打ちしてくる。
わたしは彼女の焦った様子に小さく微笑むと、その全身を上から下へとくまなくチェックした。
「うん、バッチリ!……あ、待って。ネクタイの結び目がほんの少しだけ右に寄ってるかも」
「えっ、嘘!? どこどこ、直して直して!」
「はいはい、じっとしててね」
わたしにつみきの前に一歩歩み寄り、首元に伸びたリボンを左右対称になるよう丁寧に整えてあげた。
「よし、これで完璧!」
つみきは胸元を触って確かめると、「ありがと、助かったぁ!」とホッとしたように胸をなで下ろした。
いよいよわたしたちの順番が回ってきた。目の前に立っているのは、眉間に深いシワを刻んだいかつい顔つきの男性教師だ。
先生は上から下へと値踏みするような視線でわたしを一巡し、しばらく無言のプレッシャーを与えたあと、最後に「よし」とぶっきらぼうに短く頷いた。
ふう、と心のなかで胸を撫でおろしかけたその瞬間だった。
——すっと、先生の冷ややかな視線が、わたしのスクールバッグのファスナーに留まった。
そこには、朝ママが作ってくれたばかりの小さなクマのぬいぐるみ——みーたんがぶら下がっている。
先生の眉間がさらに深く寄り、じっとみーたんの姿を見据えた。
(やばい……っ! もしかして、学校にぬいぐるみを持ってきちゃいけない校則だったの……!? もし没収されたりしたら……そんなの、絶対に耐えられない!)
心臓が早鐘のように跳ね上がり、背中に冷たい汗が一気に吹き出す。みーたんを取り上げられるなんて、わたしから生きる意味を奪われるのと同じことだ。
恐怖と焦燥に駆られながら、わたしは思わずスクールバッグを両手でぎゅっと抱え込むように庇い、必死の思いで言葉を絞り出した。
「あ、あの……! これ、今日から高校生になるお祝いに、ママが手作りで作ってくれたんです……! 小さくて可愛いから、どうしても一緒に登校したくて……ダメ、ですか……?」
潤んだ瞳で必死に訴えかけるわたしを見て、先生は一瞬驚いたように目を丸くした。
そして、わたしの必死な形相とバッグにしがみつく様子を見て、それまでの険しい表情をすっと緩め、どこか呆れたような優しい目元に変えた。
「そうか。お母さんの手作りか。……ほう、なかなかしっかり綺麗にできてるな。まあ、校則違反とまでは言わんが……大切なお守りなんだろ? 学校の中で失くしたりうっかり落としたりしないように、しっかりつけておきなさい」
「……っ! はいっ! ありがとうございます!」
没収されるどころか温かい言葉までかけてもらえて、わたしは全身の力が抜けるほどの安心感とともに深く頭を下げた。
隣でそのやり取りをハラハラしながら見ていたつみきも、「よかったぁ……」と胸に手を当てて大きく息を吐き出している。
(これも……きっと、バッグの中にいるみーたんがわたしを守ってくれたんだよね)
バッグの金具でゆらゆらと揺れるみーたんは、さっきよりもどこか誇らしげで、わたしに優しく微笑みかけているように見えた。
◇
「1年B組」の教室に足を踏み入れると、黒板の脇には新学期の座席表が大きく貼り出されていた。
自分の新しい居場所を探して目を凝らすと、そこには信じられないような奇跡が待ち受けていたのだ。
なんと、わたしとつみきの席は廊下側から数えて二列目、後ろから二番目の席とそのすぐ後ろ——つまり、綺麗に前後で隣り合う席だった。
「嘘でしょ……!? 席までこんなに近くになれるなんて、今日のわたしたち、運を全部使い果たすんじゃない!?」
つみきは興奮を抑えきれない様子で、わたしの肩をガシガシと揺さぶる。
「本当だね……! すごい、まるで奇跡みたい……!」
わたしが自分の席にスクールバッグを丁寧に掛け、指定された木の椅子に腰を下ろしたそのタイミングで、ガラガラと教室の前扉が大きく開いた。
入ってきたのは、どこか親しみやすくさっぱりとした雰囲気をまとった女性の先生だった。教壇の前に立つと、先生は白いチョークを手に取り、黒板に大きく堂々と自分の名前を書き記してから、爽やかな笑顔で私たちを振り返った。
「はい、みんな自分の席についてー。今日から1年B組の担任を受け持つ、国語担当の神谷みそらです。ちなみに吹奏楽部の顧問もやってるから、音楽とか演奏に興味がある人は、ぜひ部活見学に遊びに来てね」
担任の自己紹介を聞きながら、前髪のセットを直していたつみきがクルッと振り返って耳打ちしてくる。
「ねえ、吹奏楽部かぁ……あいか、中学のときフルートやってたもんね。高校でもやるの?」
「うん。やってたけど、高校でも部活として続けるかどうかは……まだちょっと、考えてないかな」
窓の外を見やると、心地よい春の風がふわりと吹き込み、校庭に咲く薄桃色の桜の花びらが教室の中へと舞い込んできた。
あんなに不安で押しつぶされそうだった高校生活の幕開けは、想像していた何倍も温かく、これ以上ないほど完璧で、キラキラとした祝福に満ちあふれていた。
わたしはそっとスクールバッグの金具に手を伸ばし、小さなみーたんの丸っこい頭を指先で優しく撫でる。
教室のざわめきと周りの喧騒に紛れて、誰にも気づかれない絶妙なタイミングで、みーたんの声がわたしの頭の芯に直接響くように囁いた。
『ね? 私の言う通りにすれば、全部うまくいくでしょ?』
(うん……みーたん、本当にすごいよ。わたし、みーたんのいない高校生活なんて、一日だって想像できないよ)
わたしは誰にも見せないとびきりの笑顔を心の中で浮かべ、この小さな相棒、そして絶対的な存在に深い感謝の祈りを捧げた。
神様——そう、わたしにとっての神様は、他の誰でもない、この「みーたん」だ。
みーたんの言う通りに、みーたんの導くままに生きていさえすれば、わたしの世界はいつだって完璧で、どこまでも安全で、そして幸福に満たされている。
この時のわたしは、ただ純粋に、疑うことすらしずにそう信じきっていた。
——だって、それこそがわたしの人生における、「幸せ」のすべてだったのだから。
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