episode.00「みーたんとわたし」
本作は単体でもお読みいただけますが、全3部作の第2作目となります。
1作目となる『群青の嘘 ~港の廃屋と消えた少女~』の世界観を知ってから触れていただくと、より深く楽しんでいただけるはずです。
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これは、わたしとぬいぐるみのクマ、「みーたん」の友情のお話——いいえ、もっと深い、誰にも引き裂けない『約束』のお話。
◇
三歳の誕生日。「ただいまー!」パパが大きな箱を抱えてリビングのドアを開けた。「あいか、おたんじょうびおめでとう! これ、プレゼントだよ!」
わたしは「開けていい?」とママに尋ねるのも待たず、包み紙を彩るリボンを勢いよくほどいた。箱の蓋を開けると、そこにいたのがみーたんだった。
少し丸っこい頭に、つぶらなプラスチックの黒い瞳。つややかなこげ茶色の毛並みは、幼いわたしの手のひらにあたたかく吸い付くようになじんだ。ぎゅっと抱きしめると、新品の布と綿の匂いの奥から、ほんのりとお日様のような甘い匂いがした。
「なんてかわいいの……! あなたの名前はみーたん。みーたんよ。これからよろしくね!」
それ以来、わたしの隣にはいつもみーたんがいた。
朝起きた時も、スプーンをうまく使えないご飯の時間も、ぐずって泣き叫ぶ夜のお布団の中も、近所の公園へお散歩に行く時も。
わたしとみーたんは、ふたりでひとつだった。物心ついた頃から、わたしの世界はすべてみーたんで出来ていた。
◇
人間の子供というのは残酷で、時に理由もなく他人の領域を踏み荒らしていく。
五歳の頃、春先の冷たい風が吹く公園の砂場で遊んでいた時のことを、今でも鮮明に覚えている。
お気に入りのスコップで山を作っていたら、近所のガキ大将だった男の子が突然走り込んできた。彼はわたしの手元を一瞥すると、「なんだよそれ、そのクマよこせよ!」と、あろうことかわたしからみーたんの手足を無理やり引っ張って奪おうとしたのだ。
その瞬間、頭の中の音がスッと消えて、世界が真っ白になった。
普段はおとなしくて人前で大声なんて出したこともなかったわたしなのに、そのときは違う何かに背中を押されるように立ち上がっていた。
気づけば、わたしはその男の子を砂場へと激しく押し倒していた。
何が起きたのか理解できていない男の子は、尻餅をついたまま恐怖に顔を引きつらせてギャン泣きし、逃げるように去っていった。
砂まみれになって逃げていく彼を無情に見下ろしながら、わたしの心臓は激しく、けれど奇妙なほど冷たく脈打っていた。
あとでパパやママから「みーたんを守ろうとしたんだね。でも、お友達を突き飛ばすなんてダメだよ」とひどく叱られた。
けれど、心の底から反省したことなど一度もなかった。
悪いのは、わたしから大切なものを奪おうとしたあいつの方なのだから。
そう、みーたんのためなら、わたしはなんだってできる。わたしの大切なみーたんを傷つける奴は、誰であろうと絶対に許さない。
その確信だけが、幼いわたしの胸に深く刻み込まれた。
◇
小学校に入っても、中学校に進学しても、わたしとみーたんは変わらなかった。
年を重ねるごとに、学校という社会は息苦しさを増していった。
クラスの女子特有の陰湿なグループ分け、他愛のない会話のテンポについていけず作り笑いを浮かべた日、友達と上手くいかなくてこっそり泣いた日、そして、いくら机に向かっても上がらないテストの点数に絶望した日。
学校で傷だらけになって帰ってきた夜、自室の鍵を閉めてベッドの奥深くに潜り込むと、みーたんはいつだって黙ってわたしの話を聞いてくれた。
(あいかは悪くないよ)
(わたしがずっと味方だからね)
みーたんはもちろん喋らない。けれど、その優しくて丸いプラスチックの瞳を見つめていると、確かにそんな温かい声が頭の中へ、心の中に直接響いてくるのだ。
クラスメイトも、先生も、親だってわたしの本当の苦しみなんて分かってくれない。だけど、みーたんは違う。
みーたんはわたしの絶対的な理解者であり、この広くて冷たい世界でたったひとりの、代わりのきかない特別な存在だった。
◇
そして、季節は巡り、明日からはいよいよ高校生。
真新しい、少しだけ背伸びをした制服に袖を通し、自室の姿見の前でくるりと回ってみる。すっかりお姉さんの体つきになった自分を誇らしく思う反面、胸の奥にはずしりと重い寂しさが居座っていた。
「高校生活、心配だな……さすがに高校生にもなって、大きなみーたんを学校に連れて行くわけにはいかないよね」
部屋のベッドの上、背もたれに寄りかかるようにちょこんと座っているみーたんは、相変わらず優しくわたしを見つめている。
毎朝家を出て、夕方まで何時間も離れ離れになるなんて、考えただけで胸が締め付けられた。これから始まる新しい生活への期待よりも、みーたんと離れる恐怖の方が勝ってしまいそうになる。
通学用の真新しいスクールバッグを見つめながら深い溜息をついていると、その静寂を破るように、コンコンと控えめなノックの音が鳴った。
「あいか、入っていいかしら?」
扉が開き、顔を出したママは、なぜか背中に両手を隠しながら、どこか悪戯っぽく微笑んでいた。
「明日からいよいよ高校生ね。ママからお祝いのプレゼントがあるの」
そう言って差し出されたのは、手のひらにすっぽりと収まるくらいの、小さな箱だった。
胸が高鳴るままリボンをほどいて蓋を開けると、思わず「わあ……!」と感嘆の声がこぼれ落ちた。
そこにいたのは、掌にちょこんと乗るサイズの、小さな小さなクマのぬいぐるみだった。
つややかなこげ茶色の毛並み、つぶらな黒い瞳、そして首元に結ばれた赤いリボン。手縫いならではの少し不器用な愛嬌を残しながらも、ベッドの上にいる大きなみーたんと、驚くほどそっくりな雰囲気を纏っていた。頭の後ろには小さなチェーンがついていて、バッグチャームのようになっている。
「これ……ママが作ってくれたの?」
「ええ。あなたがずっと大切にしているから、同じものを作ってあげたくて。最近、なんだか少し寂しそうな顔をしていたでしょう? これなら、制服のカバンにつけて学校にも一緒に行けるでしょ?」
「ママ……! ありがとう! ものすごく、かわいい!」
わたしは思わずママに駆け寄り、その身体にしがみついて何度も感謝を伝えた。
どんなブランドのアクセサリーよりも、どんな高価なプレゼントよりも嬉しかった。小さくても、間違いなくこれは「みーたん」だ。ママの手から注がれた愛情と、わたしのみーたんへの深い想いがそのまま形になったような、新しい宝物。
ママが温かい笑みを残して部屋を出て行ったあと、わたしは居ても立ってもいられず、さっそくスクールバッグの金具にその小さなみーたんを取り付けた。
歩くたびにゆらゆらと揺れるミニみーたんと、ベッドの上からじっとこちらを見守る大きなみーたんは、まるで優しい親子のようだった。
「留守番よろしくね。明日からは、このちいさいみーたんと一緒に行ってくるからね」
ベッドのみーたんは、暗がりの中で心なしか嬉しそうに微笑んでいるように見えた。
明日から始まる北橋高校での新しい生活。
知らない人が多くなる環境に不安がないと言えば嘘になるけれど、今のわたしにはもう怖いものなんて何もない。だって、カバンの横にはいつだって、わたしを守ってくれるみーたんがいるのだから。
「さあ、明日の準備をして、早く寝よう」
胸を高鳴らせながら、わたしは新しい毎日の扉を開けるための、深い眠りについた。
この時のわたしはまだ知らなかった。
神様がわたしに下さる『本当のプレゼント』が、どれほど美しく、そして底知れず恐ろしいものなのかを——。
『海冥の檻〜偶像の言う通り~』episode.00 お読みいただきありがとうございます。
本編は9/10の21:00より始めたいと思いますのでよろしくお願いいたします。
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