第六話 勝手な勝負
朝、すでに母の姿はなく、食卓には、学校頑張ってねという文字と、猫なのか豚なのかよくわからないイラストが描かれていた。そんな母が食べたであろう食器は、朝の光が反射していて、白く輝いていた。イラストについて、多分、猫なのだと思う。鼻が豚にしては小さいし、あんまり絵で豚は書かないと思う。チョコが入ったアンパンのようなものを4つほど食べた後に、電車に乗るために駅へと向かう。
「いってきます」
誰もいない家に向かってそう言いながら鍵を閉めた。バッグを腕にかけて、駅へと向かう。駅へと向かう最中には、スーツ姿で走る男の人と、楽しそうに笑う小学生の姿が見えた。子供たちは、めんどくさそうに愚痴を言いながら、それでも元気そうに向かって行った。
学校の正門をくぐると、いつもちょっとだけ気分がいい。ここの高校に通えているんだって思える。寺羅伎高校に特別な思い入れがあるわけではない。多くの有名人を輩出していった高校にいることに誇りを感じているというわけでもない。ただ、高校に通えているという事実がうれしくて、それだけで、胸が少し温かくなる。
教室に入って、教卓においてある名札を付ける。制服の左胸付近。正直、俺は名札を付けていても意味がないと思う。この名札、名前は書かれているが、漢字だけでふりがなが書かれていない。だから、俺の名前を当てれる人がとても少ない。みんな漢字を見て、最初に鬼谷と呼ぶから、逆に間違いを指摘する回数が増えた気がする。こういうことは全体的に見たらごくわずかなのだろうが、俺にとっては少しの不便だ。あと、多分神谷もなのだと思う。神谷って初手で判断できる人はそうそういないのだと思う。神谷はそんなに苦労していなそうだけど。
チャイムが鳴って、移動していた人たちが自分の机へと戻る。窓から見える空は、昨日のことがなかったように、雲一つなかった。ただ、まったくなかったことにはできなかったようで、グラウンドにはまばらに水がたまっていた。そこに反射する光を見ながら、俺は授業を受けた。だけど、授業の隙間に見る窓からの光の量は見るたびに、ゆっくりと、減っていっていた。
体育をする頃には、グラウンドは乾ききって、足跡もまったくつかなくなった。靴に湿った砂が安心すると同時に、あちこちで不満の声が聞こえてくる。理由は単純明快で、やはり先生はスポーツテストのことを忘れていたようだった。最初体育館に集合させられて危うくバスケをするところだった。バスケは苦手ではないから、別にそれでもいいのだけれど、いざ始まるという時に、颯爽と女子の方をうけもっている先生が入ってきて、急遽変更となり、灼熱の外へと放り出された。中と外のこの寒暖差だったら、不満が吹き出るのも仕方がないのだろう。みんな不満な顔をしながらしぶしぶと測定に向かって行った。その中で、神谷だけは、なぜだかわからないけれど、他よりも表情が晴れている気がした。その表情に、引き寄せられている自分がいるような気がした。
―――――――――――――――
鬼谷と勝負の件から一週間がたった。あれから鬼谷とはあんまり話していないし、一緒に帰っていない。部活が始まったから、というわけではなく、ただ単純に春斗が避けているだけだ。勝手に自分で勝負して、勝手に負けて悔しがっているだけのただの意地の強い子供。もっとも—
「俺が絶っ対にわるいんだよなあ。そもそも勝負なんて鬼谷に関係ないし。」
くだらない。実にくだらない。もはやなぜ鬼谷を避けているのかもその詳細な理由は忘れてきている。なのに、なぜ鬼谷を避けているだろう。
「じゃなくって、普通に、恥ずかしいんだよな、多分、きっと。勝負してるとかガキみたいじゃん。」
自分でもわかっているつもりなのに、なのに。
「...やっぱり、恥ずい。」
うーん、と春斗の頭を悩ませているその頭に、一つの手が降り下りてきた。
「何してんの、珍しく渋い顔して。梅干しでも食べた?」
振り返るとそこには、野球部で早速暴れているらしいともきが、俺にそう問いかけてきた。ともきは俺の前の椅子に座って、後ろを振り向いて、もってきた弁当を広げ始めた。
「あ、彼女と別れたの思い出して悔やんでる?かわいそー、レス期じゃん。」
お箸でウインナーをつまんで、それを振り回す。馬鹿にするように言ったその言葉に春斗は怒った。
「違うわ!もっと——こう、なんていうか、もっと、かっこいい悩みだよ!」
かっこいい悩みなのかは、本人もわからないままである。それを聞いたともきは大声を出して笑いながら疑問を口にした。
「へぇ、どんな悩みなの。」
食べ進みていた手を止めて、俺の顔を見る。少しにやにやしている顔には目をつむって、俺は言った。
「いや、そんな...まあ、ちょっと、最近話せていない友達がいて...」
「―鬼谷だろ。」
「ち、違う!」
友達が誰なのか断定された春斗は、急いで手を振って否定する。それに対してともきは、まるで悩める子供をみたように、ゆっくりと目を細めて
「でも、最近鬼谷1人だよ。一週間ぐらい。お前いなかったらあいつぼっちだもん。」
「ま、まじすか…」
なぜか敬語になった春斗を無視して、まじまじ、と言いながらともきは再び弁当から米を箸でつかんで食べ始める。その食べる姿がなんだか食レポの食べ方をしていてなぜかむかついた。
「あいつにしゃべってあげなよ。かわいそう。」
「じゃあ、お前がしゃべれば良くない?」
ふと出た疑問を口にするとともきは、首を振りながら、
「俺は全然喋ってるよ?でも、ほら、俺彼女優先するし。」
「...全然筋通ってねえ」
平然と彼女を自慢した彼に嫌気がさしながらも、春斗は、自分も持ってきていたパンを食べ始める。今日は、焼きそばぱんだ。ちらりと鬼谷を見てみると、窓際の席に一人でおり、1人で、メロンパンを黙々と食べていた。それに寂しさを覚えて、再びともきの方へと視線を移す。すると、ともきは感心したように春斗の方を見ていた。
「な、なに?何かついてる?」
気になって聞いてみると、
「いや、ついてるのは鼻だけなんだけど、春斗ってまじでずっと焼きそばパン食べてるよな」
「まーじでうまいから。一回食べてみてほしい。」
しょうもなかった顔のパーツネタは無視して、焼きそばパンについての話に戻す。
「つーか、鼻はくだらないわ。」
「俺的には完璧なボケのつもりでしたー」
「もっとボケのセンスをみがいてください!」
無視ができなかったパーツネタに苦言を申す。ともきは悲しそうにかなしーといっているけど、顔が笑っているのできっと演技だろう。
「まあ、やっぱ、鬼谷と仲直りしてきなよ。」
「そうだったわ。その話してるんだった。」
あまりにもズレまくっていた話が急に本題に戻る。
「喧嘩してるわけじゃないんだよな」
「じゃあもっと意味わかんね。さっさと喋ってこい。」
辛辣な言葉をともきから受け取った春斗は耳を痛くする。
「わかった。わかった!じゃあ、今日の放課後しゃべりに行く!」
「おう、俺は...」
「お前来るの?」
ともきは何かを考えるように、左手を顎に当てる。唸り声を少々鳴らした後に、何かのひらめいたかの如く、顔を上げた。
「俺も春斗と鬼谷が何かしているところ見ようと思ったけど、あれだわ、俺。」
「何があるの?そして別に来なくていいし。見世物じゃねえよ。」
大層嫌そうな顔を浮かべると、ともきは笑いながら、
「彼女と帰るんだっ」
そのとき、ともきの左ほおに、春斗のビンタが炸裂した。
「別に!来なくていいよ!お前はいちゃいちゃしとけ!誰も頼んじゃいないよ!」
そもそも、一昨日あたりからやっと教室で食事ができるようになってきたばかりなのだ。同じクラスでもない彼女の視線や、女子の視線が最近やっと痛くなってきていない頃合いなのだ。無論、視線が春斗の方へと向いていたのかは謎であるが。そんな春斗にまた彼女の話をするのだから、酷である。
「お前という人間の底がしれるよ...」
「まあ、何年も付き合いだし。この付き合いで底が見えないとか怖いわ。」
「そういう意味じゃねえ!」
絶妙に話がかみ合わないともきを背景に予鈴のチャイムが鳴った。それを聞いたともきは慌てて弁当の中身を腹の中を流し込み、手をそろえた。
「まあ、お前が謝るところ見れないの残念だけど、さっさといい感じになってこいよ。」
「へーへー」
謝るところ見れないことが残念ってどういうことと、そんな疑問を言う間もなく、颯爽と自分の席へとともきは戻っていった。その顔は子供がいたずらを成功したみたいなそんな無邪気で恐ろしい顔をしていた。
「...言いにいくかあ」
そんな少し薄っぺらい覚悟の下、春斗は放課後へと時間を進めた。
―――――――――――――――
「...」「…」
夕刻、春の日差しを感じているのか、夏の日差しを浴びているのかわからない、今年の春に、二人の男は黙っていた。部活終わり、どちらも汗が夕焼けの光で反射するその時に、沈黙が続いていた。
一週間ぶりに、春斗と冬莉とが一緒に帰っている駅に行くまでの道で、春斗は決意したはずの言葉を出せずにいた。
そも――
「これ、別に言わなくてもよくね...?」
ぼそっとつぶやいたそれで、冬莉はこちらを少し見た。
「何か言った?」
「いや?別に?」
そう、春斗は開き直っているのだ。鬼谷をみても、別に気にしてなさそうだし、もしかしたらもう忘れているのかもしれない。もとはと言えば、俺が勝手に勝負していたことをたまたま口を滑らしただけで、特に喧嘩をする要素などないのだ。勝負するなど馬鹿らしいし子供っぽい。ならば、いつも通り接すればあまり問題はないのではないか。そんな風に自己完結した春斗は共通の話題を探した。
「そういや、最近ゲー」
「――俺、ずっと思ってたんだけど」
そんな春斗の淡い希望を打ち砕くように、鬼谷は言葉を被せた。笑顔が凍った春斗に畳みかけるように、鬼谷は言葉をつづけた。
「スポーツテストの時の勝負って何?勝負してたっけ?」
春斗の背筋に汗が垂れた。最も聞いてほしくなかった、最もつまらないこと。
「いや、それは、なんでもなくて...!」
必死で言葉を探す春斗を鬼谷は黙ってみていた。春斗は観念したようにこう言った。
「その...俺が...勝手に心の中でお前と勝負して...それで、負けて...落ち込んでるだけ。」
顔を赤くしてそういった春斗を、鬼谷の瞳はどう移したのだろうか。赤くなったその顔は夕焼けのおかげでさらに赤くなり、瞳が近くの電柱へと目線が逸れていた。バッグを両手で抱きしめ、指をつんつんと遊んでいる。
「別に...お前のことは...嫌いじゃないし...最近避けてたのは意地っていうか...」
そんな、春斗に鬼谷は—―
「それだけ?」
何ともシンプルな回答だった。というか、至極まっとうな意見だ。特に自分が害がないし、嫌われているわけでもない。そんなつまらないことなのだ。
「――っふ、はは」
鬼谷の心の中にあったこらえていたはずの笑いが弾けた。あまりにもつまらない。何も関係ない、どうでもいいことのためだけで、神谷はあんなにも顔を赤くするのだ。それは、何とも――
「きゅ、急に笑い出してどうしたんだよ。俺は今一生懸命に...」
「うん、神谷は頑張ってる。すごいすごい。」
そんな赤子をあやすような言葉を神谷にやさしく振りかけた。自分の身長よりも、もっと小さい春斗の頭をさすって、柔和な笑みを浮かべた。
「春斗、今日、ゲームしよ?」
「え?ゲーム?する!」
神谷から、春斗呼びへとたった今変わったこと春斗は驚きつつも、ゲームの言葉を聞いて、そちらに集中する。そして、あまり勝負のことについて安心するとともに、上がりすぎていた口角がやっとのことで下がる。表情筋がいた。だが、そんな痛みを気にする間もなく、二人は軽やかに歩き出した。もはや、なぜ気まずかったのかもわからない。
「今日俺スプライフしたい!鬼谷は?」
「俺は..別に何でもいいから、それにしよ。」
春斗が胸をなでおろしたのが見えた。それに、なぜか鬼谷が口角を上げた。
「めっちゃ笑顔じゃん、鬼谷」
「あ、そう?ちょっと気分いいかも。」
「そっかー。何気に鬼谷のそういう笑顔見たのを初めてかも。」
どこか嬉しそうな春斗と冬莉。会話が弾んで、気づけば、駅について、気づけば、最寄り駅へとついていたのであった。
「それじゃーねー」
「ばいばい、春斗」
小さく手を振ってくれた鬼谷に、手を大きく振って返した春斗は、楽しそうに駅の階段を下った。




