【第63話】
銀流川に架けられた真新しい大橋は、アイゼンブルクからの物流だけでなく、思いもよらない「巨大な質量」をグレイヴァル辺境領へと運び込み始めていた。
血肉を持った人間の波である。
『グレイヴァルに行けば、生きていける』
冬の間に裏社会の行商人やダスクマーレの泥濘を通じて西の大陸全土へと流されたその噂は、雪解けとともに爆発的な引力となって、絶望の淵にいる者たちを惹きつけていた。
大国ヴェルミリアの重税に耐えかねて夜逃げしてきた農民たち。
巨大な商業ギルドの独占によって仕事を奪われ、路頭に迷った西の職人。
そして、小競り合いの戦場で主君を失い、傭兵にすらなれずに野盗に身をやつす寸前だった元兵士たち。
彼らは皆、全財産を詰め込んだ粗末な袋を背負い、飢えと疲労で虚ろになった目を僅かな希望の光に向けながら、続々と北の辺境へと流れ着き始めていた。
城の領主執務室。
窓の外から微かに聞こえる城下町の異様なほどの喧騒を背に、ペトラが机の角に腰掛けて報告の羊皮紙を揺らした。
「……先週の流入数は、また跳ね上がったよ。ダスクマーレ経由の難民も含めれば、この一ヶ月だけで数百人規模だ。あんたが『読み書き小屋』の噂を撒き餌にした効果も絶大だったみたいだね。子連れの家族が這ってでもやってくる」
ペトラは飄々とした口調で言いながら、机の奥で組んだ両手の上に顎を乗せているヴェインの顔を、不思議そうに覗き込んだ。
その薄灰色の瞳の奥に、いつも以上に深く、冷たい沈黙の影が落ちていたからだ。
「人が来ることは、国が太るってことでしょ。良いことのはずなのに、なんでそんな、世の終わりみたいな心配そうな顔をしてるのさ」
「……人が増えれば、問題も増える」
ヴェインは極めて平坦な、しかし重い事実を口にした。
「彼らは労働力であると同時に、胃袋の塊だ。住む場所、食べる麦、そして異邦人同士が狭い土地にひしめき合うことで必ず生まれる摩擦。貧しい土着の領民と、余所者との軋轢だ。数が閾値を超えれば、それは大国の軍隊よりも恐ろしい『内側からの暴力』に変わる」
統治者として、当然の危惧。
盤面上の駒が増えすぎれば、計算式は複雑化し、些細な捻れが国全体を崩壊させる。
だが、ペトラは悪びれもなく肩をすくめた。
「でも、増えなければ大国に潰されて終わる。困るんでしょ?」
「そうだ」
「じゃあ、来る問題と向き合うしかないじゃない」
ペトラが、何気なく笑って言い放った。
来る問題と、向き合うしかない。
それは、裏街の泥水の中で今日を生き延びるためだけに生きてきた彼女らしい、極めて刹那的で、潔い言葉だった。
しかし、その言葉の響きの中に、なぜかひどく冷たく、脆い響きが混じっているのを、ヴェインの直感が微かに捉えた。
彼女は本当に、自らに降りかかる『問題』——己の過去や、心臓の最も深い場所にある恐怖と、正面から向き合って生きているのだろうか。
他人の盤面を外側から嘲笑し、安全な情報屋という立ち位置から身軽に立ち回っている彼女自身が、実は最も「自らの問題」から逃げ続けているのではないか。
その酷薄な皮肉にペトラ自身は全く気づいていないまま、彼女は窓の外の喧騒へと視線を外した。
カチ、カチ、と。
壁際の長机で、ひたすらに数字の束と格闘していたミレイユが、羽ペンを置いて冷ややかに口を挟んだ。
「ペトラの言う通り、増える胃袋に対する物理的な問題は、すでに限界点に近づきつつあります」
ミレイユは硝子のような瞳で、ヴェインを真っ直ぐに見据えた。
「早急に、流入者の『受け入れ基準』を作る必要があります。身元が不確かな者、労働力とならない病人、あるいは大国の間者が紛れ込んでいる可能性。これらを関所で弾き出さなければ、治安と食料消費の計算が破綻します」
国家としての防衛線を敷く、冷徹な財務参謀からの真っ当な進言。
無尽蔵に増える難民をすべて抱え込むなど、辺境の貧乏領主には絶対に不可能なのだ。
しかし、ヴェインは組んだ両手を解くことなく、薄灰色の瞳をさらに冷たく細めて宣告した。
「最初は、緩くする」
「……基準を設けないと?」
「ああ。身元も素性も問わない。この国で働き、法に従う意志がある者ならば、とりあえずすべて受け入れろ」
ミレイユの端正な眉が、微かにひそめられた。
それは、ただの慈悲ではない。
ヴェインの瞳にあるのは、泥の中から使える砂金だけをかき集めようとする、底知れぬ強欲の光だった。
「振るいは、後でいい」
氷のように冷え切った、抑揚のない言葉。
集めた民衆の中に、不満分子や大国の間者、あるいは犯罪者が混じっていたとしても構わない。
まずは圧倒的な『数』を確保し、盤面を膨張させる。
その後で、法と契約という名の冷酷な網を使って、不要な不純物だけを切り捨てればいい。
個人の事情など一切考慮しない、国家という巨大な装置を稼働させるための極限の合理主義。
「……あなたのその計算が、いつか自分自身の首を絞めることにならなければいいですが」
ミレイユは冷ややかにため息を吐き、再び羽ペンを手に取って絶望的な数字の海へと戻っていった。
ペトラもまた、呆れたように小さく肩をすくめる。
ヴェインは何も答えず、ただ静かに窓の外の喧騒へと目を向けた。
彼らが作り上げた「三分の一税」と「法」という甘い蜜に引き寄せられ、増え続ける人々の波。
それは、確実にグレイヴァルの国力を押し上げている。
だが同時に、これから先に彼らを襲うであろう凄惨な格差と対立、そして内乱の種が、この春の乾いた土の下に、誰にも気づかれることなく、音もなくびっしりと蒔き散らされていく瞬間であった。




