序章
桜舞う教会は朝焼けの中に浮かび、日が真新しい墓地を優しく照らす。朝露が空気を潤して一日の始まりを告げているが、多くの草花は未だ微睡みの中にあった。
日本の首都から西に外れた住宅街の一角、聖波男子修道院が厳かに佇む。
教会の敷地を護るように均一に植樹された広葉樹が青々と生い茂り、白と黒を基調とした平屋を意識させる柔らかな礼拝堂と隣接した事務所兼居住棟。しかし、今は礼拝堂の入口から大きく風穴があり、身廊の両脇に設置してある椅子は見る影もない。天井が半分以上なく、朝日が祭壇の奥にあるステンドグラスに朝日が降り注ぐ。事務所の窓ガラスも全てが割られており、修復のために設置された屋根のビニールシートと組まれた足場が真新しい。
木々に守られた西洋の墓地は厚い雲の隙間から覗く光を受けて墓石が輝く。例年よりも遅く咲きそろい始めた桜の花弁が遅い春の訪れを知らせる。真新しい墓石の前にひとり、年若い娘が花束を抱えて立っていた。爽やかな風が黒にしては明るく、茶としては暗い色の艶やかな短い髪が靡く。
その娘を星月光希という。彼女は最年少で人ならざるモノを祓う使徒となり、ほぼ同時期に使徒の最高位である大元帥の右腕「翼」の称号を受けていた。この春に大学を卒業したばかりだが、誉れある称号を受けてから8年、命令以外では片時も離れないと誓った大元帥の姿はなく、ひとりで霊園にいる。
光希が命を懸けて護り貫くと誓った大元帥はこの世にいない。2週間前、帰らぬ人となった。一筋の光もない奈落の底にいる感覚が光希の心を支配して離さないのは、光希の唯一の大元帥―――白瀬昴獅の死を知っていながら止められなかったからだ。
光希に力がなかったからではない。昂獅しか知らない人ならざる力を持っている。それは使徒だからではなく、魂に刻まれた長らく悩まされてきた異能。力を持っていたからこそ、人ならざるものの急増に高度な任務が増えたため、信条を曲げて光希は大元帥の傍を離れた。大元帥と翼が下した苦渋の決断だった。
光希と白瀬昂獅が初めて出会った時には、既に白瀬昂獅は狙われていた。それは彼に限った話ではない。人ならざるもの、この世の悪の根源と称される魔王が人類最強と謳われる歴代の大元帥を狙い続けている。先代達は皆壮絶な最期だった、と記録されている。それを最年少で就任し、歴代最強と謳われた白瀬昴獅は一笑し、周りからの忠告を一掃した。―――油断、していたのだ。そう、誰もが囁いた。
―――昴獅さん。
油断していたことなど一度たりとも無かったことも、魔王を軽視したことなど無いことも、その命を賭して魔王の策略を阻止したことも光希は常に傍で見て来て知っている。何も知らない使徒達が白瀬の死を愚かと評することが許せない。しかし、残された光希には自身の無力さに嘆くよりも、無知の嘲笑に憤慨するよりも先にしなければならないことがある。故に今は荒ぶるあらゆる感情を払い除け、強く瞼を閉じて歯を喰いしばり、固く手を握り締めて耐える。手元にある白瀬昂獅の遺志を強く抱き締め、頬を流れる涙など気にすることなく前を向く。泣いている暇はないのだ。
既に当代の大元帥である白瀬が亡くなり、使徒を束ねる教団の最高権力機関、コンクラーベに所属する各宗教の聖人達によって新たに大元帥は指名された。それに伴い名誉称号の再選定が行われている。
「翼」という称号は、白瀬昂獅が創設した新しい地位である。仕える大元帥が殉職した場合、その対の翼は教団とは独立した権力と地位を持ち、個人の意志で任務を選ぶことが許され、教団の指示を翻す力を有する。もう、誰の指示も光希には必要がなかった。死してなお、光希を護り続けている白瀬の強い遺志が、光希の胸をえぐり続ける。
昴獅さん。
帰ってこない呼びかけを心の中でし続けながら、やっと花束を墓石の上に置くことが出来た時、馴染みある気配が近づいてくるのを背後に感じる。振り返れば義弟がこちらに歩いてきていた。光希は微笑みながら朝の挨拶を交わす。
新しい門出の日を迎えた義弟を不安にさせたくはない。すでに、最愛の父親を失っているのだから。
「おはよう。紘」
「おはよう、姉さん。兄さんが朝食、もうじきできるって」
人好きのする笑みで光希を姉と呼び慕う義弟、降谷紘はこの春に高校一年生になる。学力偏差値が高く、希望通りの名のある進学高校に成績トップで入学することになった。高校は寮生活のために今日、光希と同じようにこの修道院を出ていかなければならない。
早くしなければ皆に食べられてしまうね、そう謝りながら光希はゆっくりと歩み寄った。紘は穏やかな顔を左右に振る。
「姉さんは、憎んだりしないの?」
紘は光希と数歩後方で立ち止まった。その視線は新しく供えられた花束の下で眠る父親を見たまま動かない。
踵を返した光希は食堂に向かう足を止めて振り返り、胸から小さく軋む音が聞こえた。同時に、来たか、とも思う。―――白瀬昂獅はもう一人の義弟を護って死んだ。光希の腕の中で不敵に笑いながら逝った。
短髪の黒髪を靡かせて蒼い瞳を憎しみと悲しみに沈めている紘には、同じく短髪であるが癖毛の黒髪と紅い瞳を持つ双子の兄、昴がいる。この双子はそれぞれ異能を持って誕生し、今までは同じ道を選んでいるようでいて全く別の道をそれぞれ歩いていた。
「―――自分の息子のために命を張れる、最高のひと。だから、憎む感情はないよ」
光希は紘の心の中で鬩ぎ合っている真黒な感情をよく知っていた。かつては光希もその感情に任せ行動して多くの仲間を傷付け、成し遂げたとて決して解放されるものではないことも痛感している。けれど、それをうまく伝えられる言葉を紡ぐのは難しい。何せ、義弟達には話していないことが多すぎた。
「・・・姉さんは、強いね」
噛締めた低い声で紘は苦しそうに笑った。光希は力なく首を横に振る。
「ただ、昴獅さんが「あいつひとりの存在で、俺か影響されることはない」って、言ってそうだから」
心からそう思っていた光希は、振り返ってみた真新しい墓石の傍らに白瀬の笑顔を垣間見て表情が緩む。ずっと背を向けていた紘は唖然とした表情で振り返り、光希の表情に魅入る。そして納得したように呟く。
「―――確かに。父さんなら、そう言いそうだなぁ」
光希の傍で胸を張る白瀬の見慣れた姿が紘には確かに見えた。光希の言葉は紘の中で空いた穴にピタリと填まったような感覚なり自然と笑みが零れた。
―――父さんや姉さんにはかなわない。
光希が傍にいてくれてよかった、紘は自身の肩の力が少し抜けたのを感じる。喪失していた光希の笑顔を少しでも取り戻すことが出来きた。これは紘の力ではなく、間違いなく父である白瀬昂獅の力である。悔しくもあるが、嬉しくもあった。それに、何も知らずにいた兄がこれから知って行こうとする段階で、実弟として、先を歩く者として道が見えた気がした。まず、渾身の一撃くらいは急所にくらわせるが。
2人並んで歩くと紘の背が高いために光希は見上げなければならないが、気の利く義弟はいつも背を少し丸めて距離をつめる。二人の視界には教会の無残な姿が広がる。その光景をみて、紘は光希を呼びに行く前に取った電話の内容を思い出した。
「トラックの突っ込み事故って、ことになるらしいよ」
さっき、電話があった、そう紘は言う。教団に所属している者ならば、大半が想定内の話であった。長く暮らした己の修道院がそうなるとは、あまり考えつかないことだが、木材とセメントの薫りが微かにするために現実だと引き戻される。
「この壊れ具合からすると、そうするしかないよね」
「まぁ、ね」
2人にとってこの修道院は大切な家であり、居場所であった。その修道院から黒煙と紅い炎が立ち上る光景は、脳裏に鮮明に焼き付いて離れない。忘れることは一生なく、無念さと無力さに毎度押し潰される。
それでいい。
この記憶が魂に刻まれても星月光希は耐え忍ぶ。それが、光希自身を構成する大切な要素であることを既に知っている。
桜が風に乗って軽やかに舞う中、建物の修繕に使用される機材や足場を通り貫ける。朝露の清々しい香りと鳥の囀りに耳を傾けながらゆっくりと歩く。窓ガラスはすべて割れてあり、ブルーシートで防がれている。
いつもの食卓も居るはずの人がいない光景はどこか暖かさを欠いていた。その穴を埋めようとする義弟の昴の明るさが、どこか虚しく食堂に響き渡る。食堂はこのように広かったかと考えてしまうほど静かな朝食ではあったが、内容はどれも高校生が作ったとは思えないほどの質と量だった。
食事を終えて食器を光希が手早く片付けると、食堂に飾られた少し年代物の仕掛け時計は義弟達が修道院を出発する数分前の時刻を示している。光希は身なりを整えて玄関に出た。見知った白く輝く高級車に手荷物を収め終わった双子が揃って光希に向き直る。
「それじゃぁ、姉貴。行ってくる」
決意と共に白い歯を見せた昴は、父親の葬式の直後から進路を変えた。新たに後見人となった白瀬昂獅の唯一の親戚である白瀬時壔の配慮により、双子の弟である紘と同じ高校に入学する。勉強より体育が得意な昴が通学するのは普通科の一般学生。どちらも優秀な紘は特進科の無償の奨学金特待生。性格も動と静と表現わけできてしまう彼らを双子と知ると、皆一様に似ていないと言った。
呼びに行こうと思っていた、とにこやかに笑う紘は朝の憂いた影すらない。何も知らずに進む兄に何も言うつもりがないことを光希は察した。白瀬も言わなかったことを光希がどうして話すことができるだろうか。紘も光希と同じなのかもしれない。
「風邪、引かないようにね」
うん、と穏やかに答えた紘は、隣で大笑いしている昴を冷ややかに見つめる。その視線に気づいた昴は笑うのをやめてあからさまに肩を竦めた。
「姉貴も京都に就職が決まったんだろ?頑張りすぎて、体壊すなよ」
うん、気を付ける、としか光希は返せなかった。それは2週間前まで教会の地下に白瀬と光希が厳重に封印していた長剣と数珠を昴が大切そうに身に着けていたからだ。
昴の身を守るために光希が教えた最低限の剣術。元々の怪力と運動神経の良さで上達はしたが、素人の域を出さない今の昴には過ぎた刀であることは明白。
「そろそろ」
上品なスーツを着こなした年配の運転手が控えめに声を上げた。光希は速やか返事をして双子の肩を軽く叩いて車に乗るように諭す。後部座席に乗り込んだ昴が無邪気な笑顔で光希に手を振った。それが合図のように車はゆっくりと動き出す。
「いってらっしゃい」
手を振り返して車が見えなくなるまで見送った。
「―――君も行くのだろう?」
昂獅を光希と共に支えて来た男、乾は静かに問いかける。この男も2週間を慌ただしく過ごし、先日、院長をしていた昂獅の後任で修道院の補修と事務所の運営をすることとなった。
―――この子達の闘いは激化する。
「光希君―――」
言い現しようもない鈍い痛みが走る。全身に駆け巡る歯痒さは家族を失った時を乾は想い出す。光希は微笑みながら聖波男子修道院の全体を眺め、すぐさま瞠目する乾に視線を戻した。
日本だけでなく世界中で人ならざるモノ、悪魔の急増により使徒の応援要請が教団本部のヴァチカンに多く届いている。現実は使徒不足に拍車がかかり、本部の依頼でさえも満足に消化できていない。そのため、この4,5年はヴァチカンからも翼の本部常時勤務を幾度となく要請されていた。それを日本に留めていたのは、他でもない白瀬昂獅である。
光希はこの世界の崩壊を知っており、一縷の崩壊を防ぐ道を歩く。―――いや、歩くというよりは走り貫けるという言葉が当てはまるかもしれない。全てが曖昧模糊として暗く、自身を取りまく圧力がある。光希は強く前へ進むしかない、と思いきる。この誇りにかけて、明るい未来を目指して。
吹き抜けるが風は優しく、木々の木漏れ日に暖かさを覚えた。乾は穏やかに笑った。
「いつでも帰っておいで。ここは君の家で、私達は君の家族だ」
「―――はい。ありがとうございます」
乾に光希は満面の笑みで返す。
「いってきます」
一陣の強い風が吹き、吹き終わると光希は初めから居なかったかのようにそこに存在していなかった。乾にはその仕掛けを理解できない人智を超えた術である。
雲1つない青空をしばらく無言で乾は見上げていた。




