柏柳椿のデッドエンド
ピピピピ、ピピピピ
静かな部屋に鳴り響く音。
ピピピピ、ピピピピ
安らかな眠りを妨げる音。
ピピピピ、ピピピピ
もう朝なのか……?
ピピピピピピピピピピピピ
…………
ピピピピピピ……カチッ。
部屋に静けさが戻る。
「…………」
目覚めたばかりの重い頭をゆっくりと持ち上げると、カーテンの閉まった薄暗い部屋が目に入った。
あれ?何か夢を見ていたような……
そう思って記憶を探ってみるけれど、作為的なくらい何も思い出せない。
ま、いっか。
視線を枕元に向けると、見慣れたデジタル表示の目覚まし時計。
5月7日 土曜日 AM7:13
そうだ。今はゴールデンウイークなんだっけ。
平日のはずの5月6日を都合よく学校の創立記念日が埋めてくれたおかげで、6連休になったんだよな。
いつもの癖でアラームをセットしてたみたいだ。
目を擦りながらベッドを降りる。
その時ふと、机の上に置かれたメモ帳が目に入った。
『7』
なんのことだろう。
書いた記憶が全くない。
とはいえこの家にいるのは僕だけだし、書いたのは僕のはずなんだけどな……
まあいっか。
まだ覚醒しきっていない重い身体を動かして階段を降りる。
リビングのドアを開け、静かな部屋に足を踏み入れた刹那、表現し難い違和感が僕を襲った。
そこにあるはずの何かがない。何かが物足りない。
普段帰宅した時に感じている物と同じ、忘れていた寂しさを呼び起こすような感覚だった。
……ゴールデンウイークのせいで他人と話してないからかな?
自分のメンタルの弱さに苦笑いしながら、朝食の準備をする。
部屋には僕の動く音だけが響いていた。
朝のニュースを見ながら朝食を摂り、食器を下げて今は9時。
少し前まで話題になっていた大物芸能人婚約発表のニュースも最近は見なくなり、海外で流行している新型ウィルスによる感染症の話で持ちきりになっていた。
1000人以上の死者が出ているそうで、WHOも動いてるんだとか。
大変だなと思いつつ、窓の外を見る。
空はきれいな青で染まっていた。
テレビが無ければ、今この世界のどこかで大勢が苦しみ死んでいるなんて想像もしないだろう。
世界は残酷だと言うけれど、誰かの死を知らないまま過ごすのは残酷なのだろうか。
僕は、残酷なのだろうか。
そんな事を考えていると、突然電話が鳴った。
ハッと我に返る。
ダメだ…… 家に引きこもりすぎて思考がネガティブになってるな。
頭を振りつつ電話を取る。
「―――もしもし?」
『ああ、浦見君? 僕だよ、柏柳』
「なんだ柏柳か……ってなんで僕の家の番号知ってるのさ。教えた記憶が無いんだけど」
『それはまあ……神のみそしるってことで」
「味噌汁?」
『そ、そんなことより今日は暇かな? もし暇なら、一緒にイベントに行って欲しいんだけど』
「イベント?」
『そう、結構大きなイベントだよ。交通費は全部僕が出すからさ。浦見君くらいしかアテが無いんだよ』
確かに僕は急な誘いにも対応できる暇人ですが……
でも丁度家にいるのも飽きてきたところだし、いい機会かもしれない。
「わかった。いいよ。どこに行けばいい?」
『やった! それじゃあ10時に駅前で待ち合わせで。持ち物は特に無し」
「了解。じゃあ後で」
そう言って電話を切る。
…………やった! 休日に友達とお出かけなんて、小学校の頃からずっと望んでいた展開だ!
そうとなれば、急いで支度しないと!
……ところで何のイベントに行くんだろう?
現在時刻は9時15分。
約束の時間までまだ30分以上ある。
はりきり過ぎて早く来ちゃったけど、遅れるよりはいいだろう。
それよりも今問題なのは―――
「…………暑い」
この暑さだ。
まだ5月も始まったばかりだというのに、セミでも鳴きだすんじゃないかと思うような暑さだ。
この時間でこの気温なら、昼にはもっと上がるだろう。インドア派にこれは厳しい。
そうか。これが地球温暖化か。
心の中で節電を決意しつつ、することもないので辺りを見回していると、見知った顔が目に入った。
「あれ? 神宮寺さん?」
長い黒髪がまぶしい正真正銘のお嬢様、神宮寺さんだ。
「う、うう浦見さん!? あ、えっと・・・き、奇遇ですね!」
声をかけると予想以上のリアクションを返してくれた。なにもそこまで驚かなくても。
「どうしたの? こんなところで」
神宮寺さんほどのお嬢様となると、移動にはリムジンとか専用ジェットとか使っていて駅とは無縁なイメージがある。偏見だろうか。
「ちょっと欲しい本があったので近くの本屋さんで買い物してきたんです。浦見さんは?」
「柏柳と待ち合わせしてるんだ。何かのイベントに行くんだってさ」
「そうなんですか。楽しんできてくださいね」
「あはは、ありがとね」
「いえ……」
「…………」
「…………」
しまった。会話が途切れてしまった。何か新しい話題を作らないと。
緊張して変な汗が出てくる。
ん? そうだ、汗といえば!
「それにしても今日は暑いね!」
「そ、そうですね! 異常気象ですよね!」
「これが地球温暖化ってやつだね!」
「そうですね! これからは気をつけないとですね!」
なんで僕らはこんなにハイテンションで会話しているのだろう。
「…………」
「…………」
そして再び途切れる言葉のキャッチボール。
き、気まずい……
とにかく何か話そうと口を開く。
「「あ……」」
相手とタイミングがかぶり、あわてて口を閉じる。
どうしよう…… 余計気まずいよ!
「あれ? 浦見君、もう来てたんだ。僕も結構早く来たつもりだったんだけどなぁ」
救世主現る。
「あ、柏柳さんおはようございます」
「おはよう。神宮寺さん。どうしたの?こんなところで」
「ちょっと欲しい本があったので近くの本屋さんで買い物してきたんです」
あ、なんか既視感。
「なるほどね。それじゃあ二人きりの時間を邪魔しちゃ悪かったかな」
「い、いえそそそんな元々待ち合わせてたのはお二人ですし私はただ通りかかっただけで二人きりなんてそんなことはぅぅぅ……」
柏柳の言葉に神宮寺さんが顔を真っ赤にして反論する。
「そ、それでは柏柳さんも来たことですし、私はこれで失礼しまひゅ!」
あ、噛んだ。
「―――っ!!」
神宮寺さんは赤くなっていた顔をさらに赤くしながら、すごい勢いで去っていった。
「あらら。いっちゃった」
「柏柳があんなこと言うからだろ。そりゃ僕なんかと二人きりって言われたらああなるよ」
「うーん…… 浦見君の思ってる理由とは違う気がするけどなぁ……」
「え? どういうこと?」
「神宮寺さんにも可愛いところがあるってことさ」
答えになってない……
その後も、柏柳はごまかすばかりで質問に答えてはくれなかった。
切符を買って改札を通る。
僕が財布を出そうとした時、柏柳は「約束だから」と僕の分まで払ってくれた。
僕の方がむしろ感謝したいくらいなのに、律儀な奴だ。
そんな切符を手に、改札を通る。
階段を降りてホームに入ると、休みの日らしくそれなりの人がいた。
「そういえば、何のイベントに行くの?」
さっきから疑問に思っていた事を聞いてみる。
というかなんで電話の時に聞かなかったんだよ僕。
「あれ? 言ってなかったっけ。これだよ」
そう言って柏柳は一枚のチラシを取り出す。
そこには様々なキャラクターが描かれていた。
「これは…… マンガ?」
「ライトノベルさ! 僕の好きなレーベルのイベントなんだけど、ペアじゃないと貰えない物もあるらしくて……」
「それで僕が呼ばれたわけか。でも僕、あんまりそういうの詳しくないよ?」
「大丈夫。あんまりこういうのに抵抗ない人が良かったんだ。浦見君は苦手じゃないだろ?」
「まあね。たまに読むマンガとか、面白くて好きだし」
「そうだ! よかったら浦見君も何か読んでみないかい? 僕が持ってるのでよければ貸すけど」
ライトノベルか…… 確かに最近暇だし、読んでみようかな。
その後もしばらく雑談をしていると、ホームに電車が入ってきた。
大きな音で会話が中断する。
電車のドアが開き中に入ると、公共の場特有の静けさが感じられた。
再開した会話も、自然と小声になる。
「そういえば、浦見君は兄弟とかいるのかい?」
「え? なんで急にそんなこと……」
「いや、ただ気になっただけさ」
まあ情報屋で通っている柏柳のことだし、いろんなことに興味があるんだろう。
「僕は…… いないよ。うん、いない」
いないと言った瞬間、なんだか切なくなったけれどいないものは仕方がない。
「そっか。僕は三人兄妹なんだ。弟と妹が一人づつ」
「へぇ、じゃあ柏柳は長男なのか」
「そうだね。もっとも、そんな自覚も威厳も無いけど……おっと」
柏柳の言葉が途切れる。
見ると、一人の女の子がしりもちをついて床に座っていた。
7、8才くらいだろうか。どうやら柏柳にぶつかったらしい。
「ごめんね。大丈夫かい?」
柏柳が女の子に手を差し出す。
「はい…… ごめんなさい」
「別にどうってことないさ。それより君、一人なのかい?」
「うん、お母さんの病院までお見舞いに行く途中」
「へぇ、僕の妹と同じくらいなのにずっとしっかりしてるや」
「えへへ……」
女の子が照れたように笑う。
「お兄さんたちはどこに行くの?」
「ん? 僕たちは、これのイベントにいくのさ」
柏柳がさっき僕に見せてくれたチラシを取り出す。
「へー…… あっ! 『クローズ』だ!!」
女の子がチラシに描かれているキャラの一人を指差して叫んだ。
「君、『クローズ』を知ってるの!?」
「うん! 大好き! 特にヒロインの子!」
「なるほど、いい趣味してるね。あのキャラのいい所は何と言っても―――」
あ、これは長くなるな。
そう思った僕は、普段乗らない地下鉄に揺られながら、しばらく窓の外の暗闇を眺めていた。
「へー、じゃあお兄さんは中学2年生なんだ。私も2年生なの。小学校のだけどね」
「小学2年でライトノベルを読むなんて珍しいね。本が好きなのかい?」
「そうだよ。『クローズ』も図書館にあったのを読んだの。でも途中の巻までしかなくて―――」
あれから、柏柳と女の子はだいぶ仲良くなったようだ。
家もすぐ近くだったらしく、今度会う約束までしている。
柏柳は割と誰とでも仲良くなるタイプだけど、今回は趣味が同じだったこともあってなおさら打ち解けやすかったみたいだ。
……少し、羨ましいな。
「そろそろ次の駅だね。あんまりドアの近くにいると邪魔になるかな」
ドアの上についているモニターを見ながら、柏柳が言う。
たしかにそうかもしれないと思って、他の場所を探そうとしたときだった。
―――突然耳を劈くような大きい音が鳴り響いた。
同時に、身体が勢いよく前に傾く。
他の乗客たちがざわめく中で、柏柳の「危ない!」という声が聞こえた。
電車が急ブレーキをかけたのだと、一瞬遅れて気がつく。
ブレーキ音が鳴り続けている間、近くの手すりに必死にしがみついて耐える。
しばらくして、一際大きく何かがつぶれるような音がしたかと思うと、僕の身体は宙を舞っていた。
そしてそのまま車内の壁に叩きつけられる。
肺の中の空気が押し出されて、景色が回転した。
―――どのくらい気を失っていただろう。
感覚的には一瞬だった。眩む頭を抑えながら立ち上がる。
柏柳を探してあたりを見回すと、ドアの前で女の子が叫んでいる。
「お兄さん! 死なないで! お兄さんっ!!」
電車の優先席が邪魔で下半身しか見えないけれど、柏柳はピクリとも動かない。
ふらつく足をむりやり動かし、急いで駆け寄る。
「柏柳! 大丈―――」
……最後まで言えなかった。
座席で隠れていた柏柳の頭からは大量の血が流れ、顔はどんどん生気が無くなっていく。
「柏柳……?」
そんな、あり得ない……こんなの嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だっ!!!!
カクン、と膝から力が抜ける。
いや、違う。全身から力が抜けたんだ。
そのことに気づいたときにはもう、視界は真っ暗になっていた。