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救急救命士が真田幸村の息子に転生したので、大坂の陣で誰ひとり死なせません

作者: 島村 巡
掲載日:2026/10/23

 ◇


 土砂の匂いがした。


 雨は三日続いていた。崩れた斜面の下に、まだ一人残っている。無線の向こうで隊長が何か叫んでいたが、俺の耳にはもう届いていなかった。


「大丈夫です。聞こえますか。今、助けます」


 瓦礫の隙間に腕を差し入れる。指先に触れた手首は、まだ温かい。脈もある。弱いが、ちゃんと打っている。間に合う、と思った。その瞬間、頭上で山が鳴った。


 救急救命士として、助けた人の数は数えてこなかった。数えると、助けられなかった人の顔も一緒に浮かんでくるからだ。


 最後に見えたのは、担架で運び出されていく要救助者の青いシートだった。


 ああ、よかった。あの人は助かる。


 それが、篠原湊として考えた最後のことだった。



 一六一四年 晩秋  紀伊 九度山



「大助。大助、聞こえますか」


 女の声がした。柔らかくて、少し震えている。額に冷たい布が当てられ、その心地よさに俺はゆっくりと目を開けた。


 板張りの天井。煤けた梁。障子越しの薄い光。病院じゃない。消防の仮眠室でもない。


「ああ・・・よかった。三日も熱が下がらなかったのですよ」


 覗き込んできたのは、三十半ばほどの女だった。髪を後ろでひとつにまとめ、質素な小袖を着ている。目の下に濃い隈があった。ほとんど寝ていないのだろう。職業柄、まずそこに目がいく。


「・・・どなた、ですか」


 自分の口から出た声に、俺はぎょっとした。高い。まだ声変わりもしていない、子どもの声だ。


 女の顔がさっと曇った。


「まだ熱が残っているのですね。母の顔も分からぬとは」


 母。


 慌てて自分の手を見る。小さい。指は細く、日に焼けている。ロープ訓練でついた掌のタコも、腕の古傷もない。


 布団の上で身を起こそうとして、めまいに襲われた。母と名乗った人が、さっと背中を支えてくれる。


「無理をしてはいけません。今、父上をお呼びしますから」


 立ち上がった彼女の背中を見送りながら、俺は自分の首筋に指を当てた。脈を診る癖だ。速いが、規則正しい。呼吸も乱れていない。熱はまだ少しある。


 つまり俺は生きている。ただし、知らない子どもの体で。


 ふらつく足で布団を抜け出し、障子を少しだけ開けた。冷たい風が頬をなでる。


 目の前に、紅葉の盛りを迎えた山々が広がっていた。斜面に段々の畑が張りつき、谷の下を細い川が流れている。遠くには、さらに高い山並みが幾重にも重なって見えた。


 電線がない。舗装された道路もない。車の音も、遠くで鳴るはずのサイレンも聞こえない。聞こえるのは、鳥の声と、風に揺れる木々のざわめきだけだった。


 縁側の柱に手をついて、俺はしばらくその景色を見ていた。肌を刺す空気が冷たい。夢の冷たさではなかった。


 現場で何度も見てきた。事故の直後、自分に何が起きたのか分からず、ぼんやりと周りを見回す人たちを。今の俺も、あれと同じ顔をしているはずだ。


 落ち着け、と自分に言い聞かせた。分からないことは分からないまま置いておき、分かることから一つずつ確かめていけばいい。慌てた救急隊員ほど役に立たないものはない。


 俺は深く息を吸って、障子を閉めた。


 ◇


 やがて、廊下を踏む足音が近づいてきた。


 障子が開く。入ってきたのは、四十代の終わりほどに見える男だった。痩せていて、着ているものも粗末だ。だが、背筋がまっすぐに伸びている。目が、静かだった。


 どんな修羅場でも取り乱さず、周りに指示を出していた年配の隊長がいた。あの人と同じ目をしていた。


「目が覚めたか、大助」


 男は俺の枕元に座り、大きな手を額に当てた。


「まだ少し熱いな。だが峠は越えた。よう戻ってきた」


「・・・父上」


 口が勝手に動いた。その一言を口にしたとたん、知らないはずの記憶が胸の奥から次々に湧いてきた。この体の、もとの持ち主の記憶だ。


 名は真田大助。生まれたのは紀伊国、九度山。父の名は、真田左衛門佐信繁。祖父は真田安房守昌幸で、三年前、この山里で亡くなった。


 関ヶ原の戦で徳川に逆らった罰として、祖父と父はこの九度山に流された。以来、ここから出ることを許されていない。


 祖父の最期の記憶もあった。布団の上で痩せ細った手を伸ばし、幼い大助の頭をなでながら、祖父は繰り返しつぶやいていた。もう一度、戦がしたかった、と。家康に一泡吹かせてやりたかった、と。


 その枕元で、父は一言も発さずに座っていた。膝の上で握った拳が、白くなるほど固く閉じられていた。


 俺は息を呑んだ。


 真田信繁。後の世で、この男は真田幸村と呼ばれる。


 歴史の授業で習った。ドラマや小説でも何度も見た。大坂の陣で、徳川家康をあと一歩のところまで追い詰め、そして討ち死にした男だ。


「どうした。顔が真っ青だぞ」


「父上・・・今は、何年でございますか」


 父は少し眉を寄せたが、答えてくれた。


「慶長十九年。秋も、もう深い」


 慶長十九年。西暦にすれば一六一四年だ。


 頭の中で、受験のときに丸暗記した年表がめくれていく。一六一四年、大坂冬の陣。一六一五年、大坂夏の陣。豊臣家、滅亡。真田信繁、戦死。


 その息子の真田大助もまた、大坂城で豊臣秀頼とともに死ぬ。


 俺だ。俺が死ぬ。次の夏が来る前に。


 ◇


「・・・大助」


 父の声が遠くに聞こえた。俺は布団の端を握りしめた。


 人を助ける仕事をしていた俺が、助かる見込みのない人生に放り込まれた。


 いや、と思い直す。本当に、助からないのか。


 救急の現場では、絶望的に見える状況なんていくらでもあった。それでも、やれることを一つずつやれば、助かる命はあった。止血する。気道を確保する。体を温める。運ぶ。諦めるのは、全部やり終えてからだ。


「父上。もし・・・もし大坂から、お呼びがかかったら。父上は行かれますか」


 父の表情が、ほんの一瞬だけ動いた。眉がわずかに上がり、それからゆっくりと元に戻った。


「なぜ、そのようなことを聞く」


「夢を、見たのでございます」


 とっさに出た嘘だった。だが半分は本当だ。俺は四百年先の世という、長い長い夢を見てきた。


 父はしばらく黙っていた。障子の外で風が鳴る。山の冷えた空気が、隙間から忍び込んでくる。


「大助。その夢の話は、母にはするな」


 それだけ言って、父は立ち上がった。


 父が部屋を出ていったあと、廊下の向こうから、聞き慣れない男の声がした。


「左衛門佐様。大坂より、お使いの方が」


 俺は目を閉じた。


 歴史の通りなら、父はこの誘いを受ける。九度山を抜け出し、大坂城に入る。そして戦い、死ぬ。俺も一緒に。


 冗談じゃない。


 もう一度、首筋に指を当てた。脈は、さっきよりも強く打っていた。


 まだ生きている。だったら、やることは決まっている。


 この戦で、誰ひとり死なせない。父も、母も、この俺自身も。まだ顔も知らない、豊臣秀頼という若者も。


 救急救命士・篠原湊の最後の現場は、ここだ。


 ◇


 翌朝には、熱はすっかり下がっていた。


 子どもの体は治りが早い。母が作ってくれた粥を二杯平らげると、俺は庭に出て、ゆっくりと屋敷を見て回った。


 屋敷といっても、立派なものではない。茅葺きの母屋と、家臣たちが寝起きする小屋がいくつか。畑と、薪の山。裏手には、紐を織るための機が並んでいる。大助の記憶によれば、流人の暮らしで真田家はいつも金に困っていた。家臣や村の女たちと紐を織り、それを売って暮らしの足しにしているらしい。


 裏の小屋の前で、見慣れない山伏が二人、草鞋の紐を結び直していた。昨夜の使いだろう。人目を避けて、山伏の姿で来たのだ。


「若、もう起きてよいのですか」


 声をかけてきたのは、白髪まじりの男だった。腰に脇差を差し、背中に薪を背負っている。


 記憶をたどる。海野六郎。祖父の代から真田に仕えてきた古い家臣で、九度山までついてきた数少ない一人だ。


「ああ。もう大丈夫だ、六郎」


「それはようございました。奥方様は三晩、一睡もされずに若のおそばにおられましたぞ」


 六郎はそう言って、少しだけ笑った。目尻の皺が深い。


「六郎。昨夜、大坂から使いが来たな」


 六郎の笑みが消えた。


「・・・若は、どこでそれを」


「廊下で声が聞こえた」


 六郎はしばらく黙り込み、それから、ぽつりと言った。


「殿は、まだ何もお決めになっておりませぬ」


 そう言いながら、六郎の目は門の外の山道を見ていた。あの道の先には紀ノ川があり、峠を越えた先に大坂がある。


「六郎は、大坂へ行きたいのか」


 思わずそう聞くと、六郎は少し驚いたように俺を見て、それから苦笑した。


「若には敵いませぬな」


 六郎は背中の薪を下ろし、門の脇の石に腰かけた。


「わしは、上田の城で生まれ育ちました。大殿のもとで、二度も徳川の大軍を追い返したことがございます」


 大殿というのは、祖父のことだ。六郎の声には、遠い日を懐かしむ響きがあった。


「この山に来てからは、紐を織り、薪を割り、畑を耕すばかり。それはそれで、悪い暮らしではございませなんだ。されど」


 六郎は、自分の手のひらを見つめた。節くれだった、働き者の手だった。


「この手は、まだ槍の握り方を忘れておりませぬ」


 俺は何も言えなかった。この人たちは、もう一度真田の名を天下に示す日を待っていた。その日が彼らの命日になると知っているのは、この世で俺ひとりだけだった。


 ◇


 昼過ぎ、裏山の方から男の悲鳴が聞こえた。


「誰か!誰か来てくれ!」


 考えるより先に走り出していた。斜面を駆け上がると、杉林の中で、村の若い男が倒れていた。そばに鉈が落ちている。木を伐っていて、手元が狂ったのだろう。


 男の左の太ももから、血が噴き出していた。どくん、どくんと、脈に合わせて噴き上がる鮮やかな赤。動脈だ。このままでは、すぐに血が足りなくなる。


「どいてくれ!」


 まわりで右往左往していた村人を押しのけ、男のそばに膝をついた。まず傷口に手のひらを当て、全身の重さをかけて押さえる。指の間から、なおも血があふれてくる。押さえるだけでは止まらない。


「布をくれ!帯でも手ぬぐいでも、何でもいい!それと、まっすぐな棒を一本!」


 子どもの声で怒鳴ると、村人たちは一瞬ぽかんとしたが、すぐに動き出した。


 男の顔からみるみる血の気が引いていく。額に冷たい汗が浮いていた。


「しっかりしろ。名は」


「・・・ご、吾作・・・」


「吾作。今から少し痛くする。だが、これで助かる。信じてくれ」


 誰かが帯を差し出した。傷口より付け根に近いところに巻きつけ、きつく結ぶ。結び目に棒を差し込み、ひねる。一回。二回。三回。吾作が獣のような声を上げた。


「すまぬ。もう少しだ」


 さらにひねる。あれほど噴き出していた血が、嘘のように勢いを失った。


 止血帯。現代の救急では基本中の基本だ。だが、この時代の人間にとっては見たこともない処置だろう。


 俺は棒が戻らないよう、別の布で固定した。それから、近くにいた若い女に声をかけた。


「湯を沸かしてくれ。ぐらぐらになるまで煮立てたら、塩をひとつまみ入れて、冷ましておいてほしい。それと、絹の糸と針を」


「は、はい」


 酒も頼もうかと思ったが、やめた。この時代の酒は弱い。傷を洗うなら、煮て冷ました塩湯のほうがいい。


 ◇


 日が傾きかけたころ、ようやく処置が終わった。


 塩湯で傷を何度も洗い流すと、肉の奥で、切れた血の管の端が見えた。太い本管ではない。そこから分かれた枝だ。俺は煮た絹糸で、その端をしっかりと縛った。本管が無事なら、足は保てる。


 帯をゆっくり緩めると、血はもう噴き出さなかった。皮膚は縫い合わせずに、煮たさらしを当てて巻いた。鉈の傷は汚れている。すぐに閉じると、中で膿む。


 顔を上げると、いつの間にか、まわりに人だかりができていた。村人たち。真田の家臣たち。誰も口をきかなかった。


「血が、止まっとる・・・あれほど噴いとったのに」


 誰かがつぶやくと、ざわめきが一気に広がった。年寄りの一人が数珠を握り、口の中で念仏を唱え始める。妖術か、とささやく声も聞こえた。若い家臣のひとりは、血に濡れた俺の手と顔を、得体の知れないものでも見るような目で見比べていた。


 無理もない。鉈で脚を割られて、これほど血を流した者は、この山里ではまず助からない。それが、昨日まで熱で寝込んでいた子どもの手で生き延びたのだ。


 その人だかりの一番後ろに、父が立っていた。


「大助。それは、どこで覚えた」


 答えに詰まった。四百年後の世で、人の命を救う仕事をしてきた、などと言えるはずもない。


 父はしばらく俺の顔を見ていたが、やがて吾作のそばにしゃがみこみ、巻いたさらしをじっと見た。


「血が止まっている。これほどの傷で」


「まだ油断はできませぬ。今夜、熱が出るかもしれませぬ。傷が膿まぬよう、毎日煮た布に取り替えて」


「大助」


 父が俺の言葉をさえぎった。そして、まっすぐにこちらを見た。


「お前の夢の話を、聞かせてもらおうか」


 ◇


 その夜、俺は父と二人きりで向かい合った。囲炉裏の火が、父の顔に深い影を落としている。


 全部を話したわけではない。未来から来たとは言わなかった。夢の中で見た、という形で、これから起きることを語った。


 大坂に呼ばれ、城に入ること。城の外に出城を築き、徳川の大軍を打ち破ること。一度は和睦するが、堀を埋められ、城が裸になること。そして次の夏、父が家康の本陣に突撃し、討ち死にすること。俺も城の中で死ぬこと。


 父は一度も口を挟まなかった。話し終えると、囲炉裏の薪がはぜる音だけが響いた。


 救急の現場で、家族に悪い知らせを伝えたことは何度もある。言葉を選び、相手の顔を見て、受け止めるまで黙って待つ。だが、本人に向かって、あなたは次の夏に死にますと告げたのは、これがはじめてだった。


「それでも、行かれますか」


 父は火を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。やがて火箸で薪を一本寄せてから、静かに口を開いた。


「行く。お前の夢がまことであっても、わしは行く」


 迷いのない声だった。


「十四年、この山で死んだように生きてきた。父上は、もう一度戦がしたいと言い残して、ここで無念のまま逝かれた。わしまで、紐を織りながら朽ちていくわけにはいかぬのだ」


「死ぬと分かっていても、でございますか」


「武士とは、そういうものだ。死ぬのが怖くて退くような者に、ついてくる家臣はおらぬ。六郎も、ほかの者たちも、その日を待っておる」


 この人は止まらない。歴史がそうであるように、真田信繁は大坂へ行く。


 現場にも、こういう人はいた。燃える家にまだ子どもがいると聞けば、止める腕を振りほどいて飛び込んでいく親だ。止められないなら、一緒に入って、生きて連れ出すしかない。


「では、それがしも連れて行ってくだされ」


 父がはじめてこちらを向いた。


「止めはいたしませぬ。その代わり、戦場ではそれがしのやり方を通させてくだされ。刀は振るいませぬ。傷ついた者を拾い、手当てをし、生きて連れ帰ります。誰も死なせぬ戦い方にございます」


 父は、ふっと笑った。呆れたような、それでいてどこか嬉しそうな笑みだった。


「戦で誰も死なせぬ、か。大きく出たものだ。そういう無茶を言うところは、父上によう似ておる」


「父上も、でございます。父上も、死なせませぬ」


 父の笑みが消えた。俺はまっすぐにその目を見返した。子どもの顔でにらんだところで、凄みなどないだろう。それでも、目をそらすわけにはいかなかった。


 やがて父は、ゆっくりと頷いた。


「よかろう。大助、ついてまいれ。ただし、足手まといになれば、そのときは容赦なく置いていく。よいな」


 俺は黙って頭を下げた。


 そのとき、障子の外で六郎の声がした。


「殿。浅野の手の者が、昼間から村で山伏のことを聞き回っておりまする」


 ◇


 山伏たちは、夜明け前に姿を消していた。


 九度山を抜け出すのは、簡単なことではない。真田の屋敷は、紀州を治める浅野家の目の下に置かれている。村の庄屋には見張りを命じる触れが回っていて、怪しい動きがあれば、すぐに和歌山の城へ知らせが走る。


 その朝、主だった家臣を集めた席で、父は言った。


「村の者たちを招いて、宴を開く」


 家臣たちが顔を見合わせた。


「十四年、世話になった礼だと言えば、誰も怪しまぬ。見張りの者にも酒を振る舞う。皆が酔いつぶれた夜に、山を下りる。三日後だ」


 家臣たちの膝の上で、拳がいくつも握られた。


 その中に、ひときわ目を引く若い男がいた。細身で、目つきが鋭い。座っているだけなのに、いつでも跳びかかれそうな構えを崩さない。


 大助の記憶が教えてくれた。穴山小助。父の身辺を守る若い家臣で、山歩きと刀の腕では家中で並ぶ者がいないという。


「殿。見張りは、表の道に三人、裏の山道に二人。夜半に一度、交代がございます」


「よう調べた、小助」


 父が頷くと、小助は軽く頭を下げた。それから、ちらりと俺の方を見た。値踏みする目だった。この子どもが本当に役に立つのか、と顔に書いてある。


 無理もない。昨日までの大助は、熱で寝込んでいた体の弱い子どもにすぎない。


 ◇


 その三日間で、俺にはやるべきことがあった。


「若、それは何でございますか。湯浴みにしては、ずいぶんと大きな鍋でございますな」


 屋敷の裏で大鍋に湯を沸かしていると、六郎が不思議そうに覗き込んできた。


「さらしを煮ている。傷を腐らせる目に見えぬ虫が、布にはたくさんついている。水で洗うだけでは落ちぬが、煮れば死ぬのだ」


 六郎は鍋と俺の顔を見比べて、ますます首をかしげた。この時代、傷が膿むのは当たり前のことだった。刀や矢の傷そのものより、そのあと膿んで命を落とす者のほうがずっと多い。だから、まず煮た布を用意する。


 煮たさらしを竿に干しながら、俺は頭の中で、要るものを一つずつ挙げていった。


 煮たさらし。塩。煮て油紙に包んだ針と絹糸。止血の帯と棒。添え木にする、まっすぐな板。そして、担架。


「六郎。竹を二本と、丈夫な布を一枚もらえるか。怪我人を運ぶ道具を作りたい」


 六郎が裏の竹林から切り出してきた竹の竿に、布を張り、両端を縄で固く留める。現代の担架に比べれば頼りないが、二人で持てば大人一人を運べる。


 できあがったものを見て、六郎は目を丸くした。


「これは・・・戸板よりずっと軽うございますな」


「戸板では、一人を運ぶのに四人の手が要る。これなら二人で足りるし、巻いて担げば山道でも邪魔にならぬ」


 それから俺は、一番大事なものを作った。肩から斜めにかけられる布の袋だ。中に、煮たさらし、塩の包み、針と糸、止血の帯を入れる。誰でも、どこでも、すぐに手当てができるように。救急隊員が持ち歩くバッグの、ごく簡単な代わりだ。


 袋を五つ作り終えると、俺は六郎を呼び止めた。


「六郎。血の止め方を覚えてくれぬか。戦になれば、俺ひとりでは手が足りぬ。手当てのできる者が、一人でも多く要るのだ」


 六郎は自分の鼻先を指さして、戸惑った顔をした。槍の稽古なら若い者に負けぬが、こういうことは勝手が違う。顔にそう書いてある。それでも、やがて頷いた。


 俺は六郎の腕を取り、手首の内側に指を当てさせた。


「ここに、どくどくと打っているのが分かるか」


 六郎はしばらく指先に気を集めていたが、やがて目を見開いた。


「これが脈だ。血は、心の臓からこの管を通って体中に流れている。だから血が出たら、まず傷口をじかに、強く押さえる。たいていは、それで止まる。吾作のときのように、押さえても噴き出して止まらぬときだけ、傷より付け根に近いところを帯で縛る。縛ったら、決して勝手にほどいてはならぬ。ほどけば、また血が噴き出す」


 六郎は真剣な顔で、何度も俺の言葉を繰り返した。それから、自分の腕に帯を巻き、棒でひねる練習をした。最初は力加減が分からず、自分で顔をしかめていたが、繰り返すうちに手つきが様になってきた。


「若。このような術を、いったいどこで覚えられたのでございますか。殿も、わしも、見たことも聞いたこともございませぬ」


 俺は少し考えてから、答えた。


「多くの人に教わった。その人たちも、誰かを死なせたくなくて、ずっと工夫を重ねてきたのだ」


 消防学校の教官。救命センターの医師。現場で背中を見せてくれた先輩たち。もう二度と会えない顔が、次々に浮かんだ。


 六郎はそれ以上は聞かず、深く頷いた。それから、俺の手にある袋に目をやった。


「その袋にも、名をつけねばなりませぬな」


「救命袋、と呼ぼう」


 俺は救命袋の一つを、六郎の肩にかけた。


 ◇


 二日目の夕方、小助が裏庭にやってきた。


 干してあるさらしの列を横目に見ながら、小助は腕を組んだ。


「殿から伺いました。若は、戦で誰も死なせぬと仰せになったとか」


 俺が頷くと、小助は鼻で笑った。


「笑止にござる。戦は殺し合いでござるぞ。討たねば討たれる。死なせぬ戦など、この世のどこにもござらぬ。失礼ながら、刀もろくに握ったことのない若に、何がお分かりになる」


 言い方はきついが、間違ってはいない。現場を知らない者が理想を語れば、現場の人間は鼻で笑う。俺もかつて、そういう新人を何人も見てきた。


「分からぬ。戦のことは、何も分からぬ。だが、怪我をした者を死なせぬ方法なら、少しだけ分かる」


 小助が意外そうに眉を上げた。俺は救命袋を一つ、小助に差し出した。


「小助は、父上の一番近くで戦う。一番、怪我をしやすい者でもある。中は布と塩と糸だけで、重くはない。これを持っていてくれ」


「無用にござる」


 小助はくるりと背を向け、歩き去ろうとした。その背中に、俺は言った。


「矢が刺さったら、決して自分で抜くな」


 小助の足が止まった。


「抜くと、血が一度に出る。刺さったまま、まわりを布で押さえて、俺のところへ来い。どれほど遠くても、必ず俺が行く」


 小助は振り向かなかった。しばらくその場に立っていたが、やがて何も言わずに去っていった。救命袋は、俺の手に残ったままだった。


 ◇


 三日目の夜、真田の屋敷には、村じゅうの人間が集まっていた。


 酒樽がいくつも開けられ、囲炉裏には猪の肉が焼ける匂いが立ちこめている。ほとんど笑い声のしなかったこの屋敷に、はじめて賑やかな声が響いていた。


 その輪の中に、杖をついた吾作の姿もあった。傷は膿まずにすんでいた。熱も出なかった。吾作は俺を見つけると、何度も何度も頭を下げた。


「若様のおかげで、この足はつながっております」


「まだ走るな。傷がふさがるまでは、絶対だ」


 吾作は笑って頷いた。


 あの日から、村の者たちが俺を見る目は変わっていた。すれ違えば深々と頭を下げ、子どもたちは遠巻きに後をついてくる。家臣の中には、若は熱に浮かされているあいだに山の神から何かを授かったのだと、本気で言う者まで出ていた。


 夜が更けていく。見張りの者たちも、最初は遠慮していたが、父が自ら酌をして回ると、すっかり腰を落ち着けてしまった。一人、また一人と、酔いつぶれて横になっていく。


 俺は母のそばで、その様子を見ていた。母は何も聞かなかった。ただ、俺の手をそっと握った。その手が、わずかに震えていた。


「母上」


「何も言わなくてよいのです、大助」


 母は静かに微笑んだ。


「あなたが寝込んでいた三日間、私はずっと祈っていました。どうか、この子を連れていかないでくださいと。だから今度は、私が祈る番ではありません」


 母はもう一方の手で、俺の肩にかかった救命袋の紐に触れた。


「あなたが、皆を守るのでしょう」


 喉の奥が熱くなった。俺は、ただ頷くことしかできなかった。


 そのとき、障子の向こうで、小さく鳥の鳴くような音がした。小助の合図だった。


 父が、ゆっくりと立ち上がった。


 ◇


 月のない夜だった。


 屋敷の裏手から、一行は音もなく山道へ入った。先頭に小助と、腕の立つ家臣が二人。その後ろに父。六郎ら数人が続き、竹の担架を巻いて担いだ若い家臣が二人、列の後ろを固めた。俺は真ん中を歩かされた。


「若は、わしの背中だけを見ていてくだされ」


 六郎が小声で言う。俺は頷き、肩にかけた救命袋の紐を握りしめた。


 表の道には見張りがいる。だから裏の山道を登り、尾根伝いに大きく回り込んでから、紀ノ川の渡し場へ下りる。近いはずの川が、今夜はひどく遠い。


 足元は暗く、湿った落ち葉で滑りやすい。体は軽いが、熱が引いたばかりで息が上がる。それでも、置いていかれるわけにはいかなかった。


 振り返ると、木々の隙間から、屋敷の灯りが小さく見えた。あの灯りの下では、まだ宴が続いている。村の人たちの笑い声。酔いつぶれた見張りの者たち。そして、ひとり残った母。


 母は九度山に残ると決めていた。女子どもを連れての山越えは危うすぎる。落ち着いたら、必ず迎えをよこす。父はそう約束していた。


 だが、俺は知っている。歴史の通りに進めば、その約束が果たされる日は来ない。だから、変える。俺は前を向き、六郎の背中を追った。


 途中、何度か足を滑らせかけた。そのたびに、後ろを歩く家臣の手が、無言で俺の背中を支えてくれた。誰も、何も話さない。落ち葉を踏む音と、押し殺した息づかいだけが続いた。


 夜の山岳救助に出たことがある。あのときはヘッドライトがあり、無線があり、仲間が何十人もいた。今はそのどれもない。あるのは、この小さな体と、肩にかけた布の袋だけだった。


 尾根を越えたところで、先頭の小助が足を止め、片手を上げた。全員が凍りついた。


 前方の木立の向こうに、小さな灯りが揺れていた。


「裏の見張りか」


 父が低くつぶやいた。


「二人のはずが、灯りが三つ。交代の者が早う来たものと見えまする」


 小助の声に焦りはなかった。だが、その手はすでに刀の柄にかかっていた。


「回り道は」


「ありませぬ。ここを抜けねば、渡し場へは出られませぬ」


 父は一度だけ目を閉じ、それから言った。


「斬るな。騒がれれば、すぐに追手がかかる。気を失わせるだけでよい」


「承知」


 小助と二人の家臣の姿が、闇に溶けた。


 ◇


 木立の向こうで、くぐもった声が二つ。灯りがひとつ、またひとつと消えていく。


 最後の灯りが大きく揺れた。


「曲者!曲者だ!」


 弦の鳴る音がした。闇の中で、誰かが短くうめいた。


「小助!」


 父の声。俺は考えるより先に走り出していた。


「若、お待ちくだされ!」


 六郎の手を振り切り、木立の中へ飛び込む。


 倒れた見張りの向こうに、膝をついた小助の姿があった。叫んだ最後の一人は、二人の家臣に組み伏せられ、口に布を詰め込まれている。


 小助の左肩に、一本の矢が突き立っていた。小助は右手でその矢をつかみ、引き抜こうとしていた。矢柄が、すでに指一本ぶんほど傷口から浮いている。


「抜くな!」


 俺の声に、小助の手が止まった。


「・・・若」


「抜いたら、血が一度に出る。言ったはずだ」


 俺は小助のそばに膝をつき、救命袋を開けた。見張りの落とした提灯を、六郎が拾って掲げてくれる。その明かりで、傷を確かめた。


 鎖骨の下、肩の付け根。向きからすると、胸の奥へは入っていない。耳を近づけると、息の音にも濁りはなかった。だが、矢が浮いたぶんだけ、傷口の脇から血があふれていた。黒く見えるほど濃い血が、脈に合わせて、じわり、じわりと押し出されてくる。すぐそばには、腕へ向かう太い血の管が通っている。鏃がそこをかすめたのかもしれない。


 背中に冷たいものが走った。肩の付け根は、帯で縛って止められる場所ではない。押さえるしかない。


「六郎、さらしを。ありったけ」


 受け取ったさらしを傷口の脇に詰め、両手を重ねて、体の重さを全部かけた。小助が歯を食いしばってうめく。片手を離して手首の脈を探ると、速い。速くて、さっきよりも細い。額には脂汗が浮き、提灯の明かりでも分かるほど、唇の色が抜けていた。


 血を失い始めた体が見せる、いちばん危ない兆しだ。現場で何度も見てきた。ここで手を緩めれば、この男は山を下りる前に倒れる。


 そのとき、尾根の下の方で、犬が吠えた。一匹。続いて、もう一匹。


「殿。谷に灯りが」


 見張りを縛っていた家臣が、顔を上げた。遠くの谷で、小さな灯りがひとつ、ふたつと揺れている。さっきの叫び声が、下の村まで届いたのだ。


「時がない。大助、どうにかなるか」


 父の声は低かった。俺は押さえる手を緩めずに答えた。


「あと少しだけ、このまま押さえさせてくだされ。血が固まれば、動かせまする」


 頭の中で数をかぞえた。百まで。指の下に広がっていた温かい湿りが、少しずつ広がらなくなっていく。もう一度、百。谷の灯りが、さっきより近づいた気がした。それでも、手は離さなかった。


 三度目の百を数え終えたとき、小助の脈が、わずかに太さを取り戻した。


「小助。今から矢を短く切って、動かぬように留める。痛むが、こらえてくれ」


「・・・お好きになされ」


 小助は額に汗を浮かべながら、それでも口の端を上げてみせた。


 六郎に小刀で矢柄を切ってもらう。その間も、俺は矢の根元を押さえ、傷の中で矢が動かないようにした。切り終えると、詰めたさらしの上からさらに何重にも巻いて囲み、帯で肩ごと縛り、腕を体に留めた。


「腕を動かすな。川を渡ったら、もう一度診る」


「歩けるか、小助」


 父が尋ねると、小助は立ち上がった。大きくふらつき、六郎がとっさにその腕を支えた。


「歩けまする」


「無理なら担架がある」


 後ろの家臣が担いできた竹の担架を、俺は指さした。小助は一瞬それを見て、小さく息を吐いた。


「担架は無用にござる。担ぎ手が二人減れば、殿のまわりが手薄になり申す。されど、若。先ほどのお言葉、覚えておきまする」


 それだけ言うと、小助は六郎の肩を借りて、自分の足で歩き出した。先頭には、かわりに家臣のひとりが立った。


 気を失った見張りたちと、口をふさがれた一人は、手足を縛って木の根元に寝かせた。夜が明けて見つかるまでに、一行は川を渡り終えていなければならない。


 ◇


 山を下りる間、俺は小助のすぐ後ろを歩いた。


 小助は一度も弱音を吐かなかった。ときおり足を止めては、後ろの気配に耳を澄ませている。その呼吸を、俺も後ろから聞いていた。荒いが、濁った音はない。矢は、やはり胸の奥へは届いていない。


 谷の灯りは、しばらく尾根の下をうろついていたが、やがて表の道の方へ流れていった。見張りたちを縛って寝かせたのは、裏の山道だ。見つかるのは、夜が明けてからになる。


 空が白み始めるころ、一行は紀ノ川の渡し場にたどり着いた。岸辺の葦の陰に、舟が一艘つないであった。父があらかじめ手配させていたものだ。


 舟に乗り込むと、俺はすぐに小助の傷を確かめた。さらしには血が黒くにじんでいたが、それ以上は広がっていない。顔色はまだ青いものの、唇には少し赤みが戻っていた。手首に指を当てると、脈は速いが、山の上よりずっとしっかり打っている。


 詰めていた息を、ようやく吐き出した。


「大坂に着いたら、きちんと抜いて手当てをする。鏃には返しがあるから、切って開かねばならぬ。それまで、絶対に触るな」


「若は、口うるそうござるな」


 小助は顔をしかめたが、さらしに伸ばしかけていた手は、おとなしく膝に戻した。


「救命士は、口うるさいものだ」


「きゅうめいし」


 聞き慣れない言葉を、小助がたどたどしく繰り返した。しまった、と思った。疲れて、つい口が滑った。


「・・・いや。なんでもない」


 小助は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞いてこなかった。かわりに、ぽつりと言った。


「あの救命袋とやら。まだ、余りはござるか」


 俺は思わず小助の顔を見た。小助はそっぽを向いていた。だが、その耳が少しだけ赤くなっていた。


「あと三つある」


「・・・ひとつ、頂戴いたす」


 舟が、ゆっくりと岸を離れた。


 ◇


 川面に朝の光が差し始めた。


 向こう岸に着くと、父は舟を下り、しばらく黙って山並みを見上げていた。あの峠を越えれば河内に出る。その先が大坂だ。外へ出たのは、九度山に流されて以来はじめてのはずだった。


「大助」


 やがて、父が振り向いた。


「昨夜のお前は、医者のようであった。いや・・・医者でも、ああは動けまい」


 俺は何も答えられなかった。


「お前の夢が何なのか、わしには分からぬ。だが、ひとつだけ分かったことがある」


 父は、俺の頭に大きな手を置いた。


「お前は、わしの息子だ。それで十分だ」


 霧が晴れていく。峠へ向かう道が、朝の光の中に白く浮かび上がった。


 あの先には、天下一の城がある。豊臣秀頼がいて、淀殿がいて、全国から集まった浪人たちがいる。そこへ、二十万を超える徳川の大軍が押し寄せてくる。歴史の通りなら、この戦で、数えきれないほどの人が死ぬ。父も、俺も。


 俺は救命袋の紐を、強く握りしめた。


 大坂城が落ちるその日まで、指を折って数えれば、残りはおよそ二百十日だった。

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『長政は、お市に勝てない ―敵陣へ駆ける妻を、浅井長政は裏で勝たせる―』

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作者ページには、関ヶ原の前夜を描いた石田三成の短編もあります。

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