第32章:僕に何が起きている?
二週間が過ぎた。
カネキはアメリカへ向かう国際線の飛行機に乗り込んだ。乗り継ぎを含む、疲労困憊の二日間に及ぶ旅を終え、飛行機はようやく目的地に到着した。
長時間座り続けていたせいで、体のあちこちが痛んでいた。消耗した体力を取り戻すため、彼は近くにあった静かで質素なレストランを見つけ、しっかりと食事を取ることにした。
一方、海を隔てたヒナタの屋敷では、依然として緊張が漂っていた。
彼女の専属メイドは、落ち着かない様子で携帯電話を手にしていた。
「ヒナタお嬢様、もう一度カネキ様に連絡してみてはいかがでしょうか? お二人の間に何があったのか、確かめられるかもしれません」
ヒナタは膝元へと視線を落とした。苛立ちと困惑が、その表情に浮かんでいる。
「今は無理よ。まずは気持ちを落ち着かせたいの」
メイドは少しだけためらった後、静かに頭を下げた。
「かしこまりました。どうかごゆっくりお休みくださいませ」
その頃、アメリカに到着したカネキは、整然としたビジネス街を歩いていた。そして、ひときわ高い商業ビルへと足を踏み入れた。
警備の目をかいくぐりながら、彼は自分が借りのある人物の一人がそこにいるかどうかを確かめようとしていた。その人物は、彼が知る中でも屈指の実力者だった。
彼は洗練された廊下を見渡した。
しかし、そこには不自然なほど人の気配がなかった。
「……誰もいないみたいだな」
彼は小さく呟いた。
静寂が周囲を包み込む。
そして、変化は突然訪れた。
思考が乱れ始めた。静まり返った廊下が果てしなく続いているように感じられ、過去の断片が次々と意識の奥底から浮かび上がってくる。
一つの思考が別の思考を呼び、それらは次第に絡み合い、やがて頭の中で雷鳴のように激しくぶつかり合った。
――誰かを殺せ!
「もう、やめろ!」
カネキは両手で頭を抱えた。視界がぼやけ、呼吸が乱れていく。
それでも、その声は止まらなかった。
まるで自分を支配する権利があるとでも言わんばかりに、声はさらに荒々しく、威圧的になった。
「主人に逆らうとは、どういうつもりだ? 答えろ! お前はただの弱くて惨めな道具にすぎない!」
「黙れ……」
彼は平静を保とうとしながら、かすれた声で呟いた。
頭の中で膨れ上がる圧迫感は、もはや耐え難いものになっていた。
息苦しい雑音から逃れようと、カネキは走り出した。非常階段を駆け上がり、重い扉を勢いよく押し開けると、屋上へと飛び出した。
冷たい空気が顔を撫でる。
彼は手すりを強く握りしめ、呼吸を整えようとした。そして、高い窓越しに遠くの通りを見下ろした。
そのとき、ある光景が目に入った。
一人の強盗が、年老いた女性からバッグをひったくり、誰かに捕まる前に逃げようと全速力で走り去っていくところだった。
カネキは、その光景をじっと見つめた。
すると、あの声が再び聞こえてきた。
狂気じみた興奮を帯びた囁きだった。
「見ろ。絶好の機会じゃないか、愚か者。行け! 撃て! 奴を殺せ!」
カネキの指が手すりを強く握りしめる。
抵抗しようとした。
その声を、再び心の奥底へと押し戻そうとした。
しかし、内側から押し寄せる圧力は増すばかりだった。自分を制御する力が、少しずつ崩れていく。
自分が何をしようとしているのか、十分に理解する間もなかった。
彼は階段を恐ろしい速さで駆け下りた。
ビルを抜け、近くの路地へと向かう。そして、逃走する強盗の前に立ちはだかった。
まるで影が突然現れたかのようだった。
カネキの顔は青ざめ、冷や汗が肌を伝っていた。両手は抑えようとしても止まらないほど震えていた。
かすれた、不安定な声で彼は囁いた。
「お願いだ……そのバッグを渡してくれ」
しかし、カネキの頭の中では、別の叫び声が響いていた。
――早く渡せ! 今すぐだ! 完全に正気を失って、この場でお前を殺してしまう前に!
強盗はカネキの震える手を見て、彼が怯えているのだと勘違いした。
――こいつ、怯えてやがる。
そう考えた強盗は、余裕たっぷりに口元を歪めた。
「へえ、そうかよ? だったら、渡さなかったらどうするつもりだ?」
そう言いながら、彼はポケットからナイフを取り出した。
次の瞬間、強盗が反応する間もなく、カネキの中で何かがついに壊れた。
カネキは凄まじい力で拳を叩き込み、強盗を地面へと倒した。そして、そのまま容赦なく殴り続けた。
彼の動きは、自分自身でさえ理解できない怒りに支配されていた。
状況は瞬く間に制御不能となった。
強盗はもはや抵抗することもできず、それでもカネキは止まろうとしなかった。
人目のある路地で、彼が相手の命を奪いかねないところまで事態が悪化した、そのときだった。
五人の通行人が駆け寄り、後ろからカネキを取り押さえた。彼の腕や体を押さえ込み、攻撃を止めようと必死に抵抗した。
一瞬、カネキはなおも彼らの拘束を振りほどこうとした。
しかし、次第に周囲の声や動きが彼の意識へと届き始めた。
現実が戻ってきた。
彼は深く、震える息を吸い込んだ。
そして、凄まじい努力を重ね、心の奥底で暴れ回る存在を再び押さえつけた。
男たちは慎重に彼の体から手を離した。
カネキはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて何事もなかったかのように服の乱れを整えた。
ふと視線を落とすと、血の染みた路面に、奪われたバッグが転がっていた。
彼はそれを拾い上げ、恐怖に震える老婦人のもとへ歩み寄った。
「どうぞ。あなたのものです」
老婦人は震える手でバッグを受け取った。
「ありがとう……本当にありがとう! 何とお礼を言えばいいのか……」
安堵と感謝に満ちた声で、彼女は何度も礼を述べた。
しかし、カネキの耳にはほとんど届いていなかった。
耳鳴りが絶え間なく響き、彼女の言葉をかき消していた。
彼は何も答えず、その場を離れた。
そして、近くにあった人けのない路地へと入っていった。
誰もついてきていないことを確かめると、冷たいレンガの壁に背中を預け、目を閉じた。
片手を胸に当て、乱れた呼吸を必死に整えようとする。
心臓は激しく鼓動し、体はまだ震えていた。自分を取り戻すために費やした力が、全身に重くのしかかっていた。
彼はしばらくの間、ただそこに立ち、どうにか平静を取り戻そうとしていた。
やがて、ある不穏な事実が彼の中で形になった。
――鎮静剤の効果が切れた。
そして、追跡劇は正式に始まったのだった。




