余命■年―― <終>
冬が終わった。
雪が解け、山の木々に新しい芽が顔を出し始める。縁側から見える景色も、少しずつ色を取り戻していた。
春がやって来た――
「……」
視界の端に表示された文字を見る。
それは時折、視界に現われていた文字だった。
――《不治なる不死》
余命二年――そう告げられた男の時間は、もう終わった。
それでも、烏真はここにいる。
身体はいつも通り動く。息も苦しくない。縁側に座って、春の景色を眺めている。
そして烏真の隣には――――イエルがいる。
「烏真さま」
「ん?」
「今日はとても暖かいですね」
「冬も終わって、春になったからね」
「春……」
イエルが庭を見る。
小さな花が咲いていた。冬の間は何もなかった場所にはいつの間にか色が増えている。
「綺麗です」
「そうだね」
イエルが柔らかな表情を浮かべて、景色を眺めている。そして、烏真はもう一度、視界の端に浮かんでいる文字を見る。
――《不治なる不死》
「……なあ、イエル」
「なんでしょう?」
「《不治なる不死》……これは、なんなんだろう――」
烏真は自分の左眼に触れる。この文字が見えたのはイエルと契約した後だった。それから時折、現れるようになった。
「私にも、最初はわかりませんでした」
イエルは静かに答えた。
「十五年前の私は、死にかけていました」
「……うん」
「世界を越えたことで、力も記憶も失っていました」
「だから、あのとき俺に力を渡した」
「はい」
イエルは頷く。
「でも……烏真さまを選んだわけではありません」
「……」
「あのときの私は、ただ……消えたくなかった」
淡々とした声だった。
「だから、生きているものに力を渡しました」
「それが、俺だった」
「はい」
「たまたま?」
「はい」
あまりにも迷いのない答えに、烏真は小さく笑った。
「そっか」
「特別な意味はありませんでした」
「……うん」
「もし、あの場所に別の人がいたなら……その人に力を渡していたと思います」
「なるほどな」
烏真は空を見上げる。
十五年前――自分とイエルを繋いだものに、運命なんてなかった。
それは、ただの偶然で……死にたくなかった竜が、たまたま近くにいた人間へ、力を渡した。ただ、それだけだった。
「ですが――」
イエルが続けた。
「人間の身体は、私の力を受け止められるようにはできていませんでした」
「……それで?」
「烏真さまの身体は、その力を維持しようとしました」
イエルが烏真の左目を見る。
「傷つけば修復する」
「生命活動が止まりそうになれば、無理やり維持する」
「そして、身体そのものが少しずつ壊れていく」
「それが……」
「《不治なる不死》です」
烏真は黙った。
「治すことができない」
イエルが言う。
「それなのに、死ぬこともできない」
「……なるほど」
「それが、烏真さまの身体に残った私の力の代償でした」
だから。
医者には病気にしか見えなかった。原因はわからず、治療もできない。身体の内側が結晶化し、それは確実に進行していく。
それが――余命二年という数字になった。
「じゃあ、俺の余命が二年だったのは……」
「私の力を、烏真さまの身体が維持できる限界です」
「……なるほど」
烏真は苦笑した。
「……申し訳ありません」
イエルの声が、ほんの少しだけ沈む。
「私が力を渡さなければ――」
「……それは、違うよ」
烏真は首を横に振った。
「ですが――」
「イエルが悪いわけじゃないよ」
十五年前のイエルは、ただ消えたくなかった。烏真はたまたまそこにいた。
「それにさ……」
烏真は立ち上がって、
「そのおかげで、イエルとこうしてまた会えて……色んな人と出会えて……もう、何回同じこと言うんだろうな俺は――」
「……烏真さま」
「偶然だったんでしょ?」
「はい」
「なら、それでいいよ」
烏真はイエルの頭へ手を置いた。
「偶然でも、俺にとっては大事なことだから」
イエルはしばらく黙っていた。
そして、
「……はい」
今まで見てきた中で、いちばんの笑顔でそう呟いた。
「私も……今はそう思います」
「今は?」
「十五年前は、消えたくなかっただけです」
イエルは烏真を見る。
「でも、今は違います」
「……」
「私は、自分の意思でここにいます」
烏真は少しだけ目を細めた。
「そっか」
「はい」
「それなら――」
烏真は庭を見る。
春の風が吹いている。
「これからも、一緒に生きていこう」
「……はい、烏真さま」
そしてイエルも立ち上がって、
「私も……一緒に生きていきます」
ぺこりと頭を下げるイエルを見て、烏真は笑った。
余命二年――それは、もう過ぎた。
そして――《不治なる不死》の進行率は《100%》へ到達していた。
それでも烏真は生きている。それは病が治ったという意味ではない。死を遠ざけているという意味でもない。
十五年前に受け取った力――それは烏真の身体を蝕み続けたもの。しかし今では完全に烏真の身体へ馴染んだということだった。
かつては命を削っていた力が、今は静かに彼の生命を支えている。
「これからもよろしくね……イエル」
烏真はもう一度、呟いた。
「こちらこそ……よろしくお願いします、烏真さま」
その隣で、イエルも笑った。
そのときだった。
――コンコン。
家の扉を叩く音が聞こえた。
「……誰だろう?」
こんな田舎まで訪ねてくる人間は、そう多くない。烏真がゆっくりと玄関に向かう。
「烏真さま――」
「いや、さすがに俺が出るよ」
そして玄関の扉を開ける。
「こ、こんにちわぁ……」
そこに立っていたのは――
「……緋尋さん?」
千ヶ峰 緋尋だった。
大きな荷物を抱えた彼女は、少しだけ困ったように笑っている。
「お久しぶりです」
「ええ……? どうしたの、こんなところまで?」
「あ、会いに来たら迷惑でした?」
「いや、そんなことはないけど……」
烏真は困ったように頭を掻いた。
「言ってくれれば迎えに行ったのに――」
「いえ、その……私が勝手に来ただけですからぁ……」
しかし緋尋は大きなカバンを持っている。
「えっと……リーダーが、おじさまにお願いがあるそうでして。依頼を受けてもらえないかって――」
「あー……」
クランの勧誘は断ったが、協力はすると確かに言った。依頼という形で、正式に《探索者》として頼まれては断ることはできない。
「でも、それなら連絡してもらえれば……」
すぐにでもクラン本部に向かうのに――と、烏真が言いかけたそのとき、
「あの……おじさまに、会いたくて……」
左右に揺れながら、両手の人差し指の先を合わせてそんなことを言われてしまっては烏真は何も言えなかった。
「えーーーっと……立ち話もなんだし、まぁ、その……」
烏真が手招きして、緋尋を家の中へと誘う。それと同時に陽光のように明るい笑顔で緋尋は家の中へ入ってきた。
「それで辷さんはなんて?」
「……詳しい話は明日、本部で――いいですか?」
「それは構わないけれど……」
しかし遠いところにわざわざ一人でやって来たので、依頼の話を聞いただけでそのまま緋尋を帰すのは申し訳なかった。
「……」
イエルはジっと烏真を見つめている。何を言いたいのか、なんとなくわかる。
「緋尋さま、今日は泊まってください」
「い、いいの……?」
「もちろんです」
イエルが緋尋の手を掴んでにっこりと微笑む。
「烏真さま、構いませんね?」
「ひ、……緋尋さんがいいなら、俺は構わないよ」
一度、緋尋は烏真の家で寝泊まりしたことがある。
「それでは緋尋さまはお客様ですので――」
「そうだね」
「お茶を準備します」
「頼むよ」
「はい」
イエルは歩いているが、いつもより少し早い速度で台所へ向かう。その背中を見送ってから、緋尋が小さく笑った。
「……イエルちゃん」
緋尋はそんなイエルの背中を見つめたまま、
「よかった」
「……何が?」
「生きててくれて」
その言葉に烏真は少しだけ黙った。
「俺も……そう思うよ」
「本当に……よかったです」
緋尋はそう言ってから、庭を見る。
「結局、同じクランにはなれませんでしたね」
「それは……ごめんね」
「ちょっと残念でした」
緋尋は笑った。
「でも、私は……おじさまに救ってもらったこと、一生忘れません」
「俺は……何もしてないよ」
「しましたよ」
緋尋は即答した。
「わたしが何度も諦めそうになったとき、おじさまはいつも先に進んでいました」
「……」
「だからわたしも、まだ《探索者》を続けられたんだと思います。それに――」
「え?」
「今度はわたしが助ける側になりたいです」
緋尋はとても真剣な面持ちで、そう言った。いつか烏真の力になれるぐらい役に立てるような、そんな存在に――
「もう助けられてるよ」
だが、烏真は緋尋の言葉に対してそう返した。
《探索者》になれたのは緋尋のおかげでもある――もう一度、試験に受けられたのも、緋尋がいてくれたからだ。
だから、もう助けられている。
「え……?」
緋尋が目を丸くしているが、烏真はそんな緋尋の厚意を拒むのも悪いと思って、
「ありがとう……緋尋さん」
頭を下げて、感謝した。
「そ、そんな……頭を上げてくださいよぉ――」
春の風が吹き、庭の花が揺れていた。
「その……突然、押しかけてごめんなさい」
そんなふうに謝られても逆に烏真の方が困ってしまう。
「大丈夫だよ。むしろこんな遠くまで来てもらって……こちらこそ、ごめんね」
「あの……今度はちゃんとご連絡します――その、次は……依頼とか関係なく……遊びに来てもいいですか?」
「も、もちろん……」
こんなおっさんの家に一人で来ていいのだろうか……と、烏真は内心困惑した。しかし、ここで拒絶して悲しい顔をさせるわけにもいかず了承する。
「あ、ありがとうございます!!」
緋尋は身体を震わせて、今にも飛び上がりそうなぐらい嬉しそうな声を上げる。
「……あと」
そして緋尋が少しだけ振り返って、
「……おじさまのこと、聞かせてくれませんか?」
「俺の?」
「その……どうして《探索者》になりたかったのか……とか――」
「でも、俺の話なんてなにも面白くないよ?」
「聞きたいんです、だって――」
一瞬だけ言葉を止める。
「わたしが憧れた、《探索者》のお話ですから」
世界でも数人しかいない《踏破者》の一人は、目の前のたった一人の《探索者》に尊敬の眼差しを向けていた。
烏真は気恥ずかしくなって、視線を逸らした。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
夜――もうすぐ日付が変わる頃。
春の夜風に当たりながら、烏真は満月の下、縁側に腰掛けていた。
「あれ……?」
イエルがゆっくりと、烏真の元に近づいて来る。
「緋尋さまはお休みになりました」
「久しぶりに緋尋さんと会えて良かったね」
「はい」
「今日は緋尋さまといっしょに眠らせて頂きます」
「うん、そうしてくれると助かるよ」
イエルは会釈して、その場を離れようとした。だが、烏真は――イエルを呼び止める。
「イエル」
烏真はイエルにもう一つだけ訊きたいことがあった。名前を呼ばれたイエルは小さく首を傾げている。
「イエルの、本当の名前を教えてくれない?」
イエルという名を付けたのは烏真だが――イエルは元は白い竜であり、モンスターならば本当の名前があるはずだ。
記憶を失ってしまっても、もしかしたら本当の名前は憶えているのではないか? そんな憶測から、烏真はイエルに問い掛けた。
しかし、イエルは首を左右に振って――
「私の名はイエルです。烏真さまに名付けて頂いた……この名が、私の本当の名前です」
「そうか……」
無理に聞き出すわけにもいかず、烏真は潔く引いた。
「ですが――……」
イエルは烏真にしか聞こえないほど小さな声で、そっと耳元で――白い竜だった頃の名前を呟く。
「■■■■」
その名を聞いて、烏真は――
「綺麗な名前だね」
純粋に、そう思った。
「ですが、今の私はイエルです……その名はもう、忘れてください」
イエルは目を閉じたまま、そう言った。
「わかったよ、これからもイエルの名前を呼ばせてもらうよ」
そして烏真も小さくあくびをして、
「そろそろ俺も寝るよ」
「はい、おやすみなさいませ……烏真さま」
何気ない日々――しかしこの世界にはダンジョンが存在する限り、人類はこれからもそれに翻弄されるのだろう。
これは終わりではない。
烏真の余命二年の先が、ここから始まる。余命の向こう側にある人生を。
隣には――イエルがいる。
烏真を放ってくれない仲間たちがいる。
止まっていた時間は、イエルとの出会いで動き出した。そしてこれからも止まることはない。今度こそ自分の足で歩いていく。
春の風が吹いた。
花びらが一枚、空へ舞い上がる。
烏真はそれを見上げて――小さく笑った。
「……ここからまた、新しく生き直してみるよ」
その隣で、イエルが静かに頷く。
「私もご一緒します……烏真さま――」
――余命二年。
そう告げられた男の物語は、まだ終わらない。
鏑木 烏真の人生は――これからも続いていく――
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