第一話:路地裏のコンタクト
ローズの視点:憧れのセカイは、お腹が減る
「ついに……ついにやりましたわ!」
異世界の退屈な神殿、退屈な礼拝、退屈な最高司祭のお説教。そのすべてを投げ打って、私は次元の扉を飛び越えた。
目の前に広がるのは、夜だというのに太陽のように眩しい極彩色の光。どこからか漂ってくる、バターと砂糖が焦げたような、えも言われぬ甘い匂い。
そう、ここは私がずっと夢に見ていた、あらゆる娯楽とスイーツに満ち溢れた夢の世界――『現代日本』!
「まずはあの、コンビニなる楽園で『ぷりん』と『しゅーくりーむ』を買い占めて……」
意気揚々とガラスの扉を潜り、お目当ての品を両手いっぱいに抱えてレジへ向かった私に、店員さんは冷ややかな視線を向けた。
『あ、お会計一、二〇〇円になりまーす。……って、何これ? コイン? メダル? いや、使えないから。お姉さんコスプレ? 警察呼ぶよ?』
冷たく突き返され、私はすごすごと店を出た。
おかしいですわ。私の国では、この純金貨一枚で牛が三頭は買えますのに。
その後も、誰もが持っている「薄くて光る魔法の板(スマート端末)」を持たない私は、街のどこに行っても拒絶された。
お金もなければ、身分を証明するものもない。ただあるのは、聖女としての強大な魔力(現代では一銭の価値もありません!)と、激しく主張を繰り返す哀れなお腹の虫だけ。
「うぅ……ひもじいですわ……。こんなことなら、神殿のふかふかのパンを食べておけばよかったです……」
自販機という機械の横、冷たいコンクリートの路地裏で、私は膝を抱えてポロポロと涙をこぼした。
「お、お姉さんどしたの? コスプレ? 泣いてんじゃん」
「俺らと美味いもんでも食いに行かない? 奢ってあげるからさ」
突如、夜の闇から現れたのは、髪を派手に染めたガラの悪い男たち。現代の「ナンパなやから」という奴らだ。
「ひゃぅっ!? け、結構ですわ! お引き取りください!」
「いーじゃん、減るもんじゃないし」
強引に手首を掴まれる。聖なる魔力で吹き飛ばそうかとも思ったが、一般人に魔法を使っては、この世界の法に触れてしまう。
どうすれば、どうすればいいの――!?
透の視点:牛乳瓶の底のリミッター
「はぁ……今日のバイトの面接も落ちちゃったな……」
清水透は、自身のトレードマークである、度の強すぎる牛乳瓶の底のような眼鏡を指で押し上げた。
性格は内気、真面目だけが取り柄。人前では声が小さくなり、クラスでも壁のシミのように目立たない高校生。それが僕だ。
トボトボと夜の帰り道を歩いていると、薄暗い路地裏から、か細い悲鳴が聞こえた。
『嫌ですわ! 離してください!』
(な、なんだろう……関わっちゃダメだ。僕みたいなのが行ったって、何の役にも立たないし、怖い、怖い、怖い……)
心臓が早鐘を打つ。やり過ごそうと足早に通り過ぎようとした、その時。
街灯の光に照らされたのは、金色の髪を振り乱し、涙を流して怯える同年代の少女の姿だった。
その絶望に満ちた瞳と目が合ってしまった瞬間、僕の細い足は、僕の意志を無視して路地裏へと踏み出していた。
「あ、あのぉっ……!」
蚊の鳴くような声。男たちが一斉に僕を振り返る。
「か、彼女、嫌がってますし……その、警察、とか、呼びますよ……っ?」
精一杯の脅しだった。しかし、男たちのリーダー格が眉を吊り上げる。
「あァ? なんだお前。ガリ勉の陰キャがヒーロー気取りかよ。調子乗ってんじゃねえぞコラァ!」
胸ぐらを掴まれたかと思うと、視界が激しく回転した。
どがっ、と重い衝撃。コンクリートの地面に叩きつけられ、激しい痛みが走る。
そして――コツン、と間抜けな音を立てて、僕の顔から眼鏡が外れ、暗闇のどこかへ転がっていった。
「ケッ、一撃かよ。シケた面しやがって。おい、行くぞ」
男たちが少女を引っ張ろうとする。
僕の視界は、眼鏡がなければ光の輪がぼやけて見えるだけの、完全な「視界ゼロ」の世界。
あはは……やっぱり僕じゃダメだったんだ。殴られて痛いし、怖いし、早く帰りたい。
――でもさ。
『誰の許可取って、俺の顔面に挨拶してくれたんだよ、あぁん?』
その声は、僕の喉から出たものだった。
じわり、と身体の芯から、ドス黒い熱量がせり上がってくる。
眼鏡。それは僕にとって、世界を正しく見るための道具であると同時に、僕の中の「化け物」を閉じ込めるための頑強な檻だった。
視界が真っ白で何も見えない。見えないから――怖いものが、何一つなくなる。
「あ? メガネなくして強がってんじゃねえぞガキ!」
男の一人が風を切って殴りかかってくる。
見えなくたって関係ない。衣服の擦れる音、殺気、空気の振動。それだけで敵の輪郭は「ガッツリ」見えている。
フッ、と首をわずかに傾け、拳を紙一重でかわす。
「ひっ……!?」
「てめぇら……まとめてミンチにしてやるから、そこへ直れやァ!!」
ダブル主演:最悪で最高の出会い
ローズは、目の前で起きた光景が信じられなかった。
さっきまで、怯えた小動物のように震えていた眼鏡の少年。
それが、眼鏡を失った瞬間、まるで地獄の狂犬のような咆哮を上げ、暴れ狂ったのだ。
「オラァッ! どこ見てんだスカポンタンがぁ!」
少年は視界が効いていないはずなのに、男たちの攻撃を完璧に見切り、容赦のない拳と蹴りを叩き込んでいく。重低音の効いた打撃音が路地裏に響き渡り、ものの数十秒で、大の大人三人が地面に転がってピクピクと痙攣を始めた。
「フン、ゴミが。……で? あとはどいつだ?」
ギラギラとした、猛獣のような瞳がローズに向けられる。
ローズは恐怖のあまり、「ひゃぅ……っ」と声をもらしてへたり込んだ。
しかし、少年はそれ以上襲ってくる気配はなかった。それどころか、急に四つん這いになり、地面を熱心に手探りし始めたのだ。
「チッ、クソが。どこだ……俺の眼鏡はどこにいきやがった……。見えねぇだろ……」
「あ、あの……これ、ですか……?」
ローズの足元に転がっていた、分厚いレンズの眼鏡。
ローズが恐る恐るそれを拾い上げ、少年の顔にそっとかけると。
カチャ、とフレームが耳に収まった瞬間、少年の鋭い眼光が、一瞬で「借りてきた猫」のように丸くなった。
「ひゃあああ!? す、すみません! 殴らないでください! 命だけは……っ! ……あれ?」
透は自分の手をまじまじと見つめ、次に目の前にいる美しい金髪の少女を見つめた。
そして、周囲で転がっている男たちを見て、全てを察して頭を抱えた。
「ま、またやっちゃった……。うぅ、だから人助けなんてするんじゃなかったんだ……」
「あの……」
ローズが尋ねようとした、その時。
ぐぅぅぅぅぅぅ〜〜〜〜〜〜っ。
静かな路地裏に、ローズの、本日最大級のお腹の虫の音が鳴り響いた。
ローズは顔を真っ赤にし、透はパチクリと眼鏡の奥の目を瞬かせた。
「あの……お腹、空いてるんですか……?」
「……はい。死にそうですわ……」
これが、現代の平穏を揺るがす大事件の始まり。
内気な少年・清水透と、迷子の聖女・ローズ(薔薇咲聖)の、ハチャメチャな同居生活の幕開けであった。
(第一話・了)




