第62話 早く帰って寝たいだけだった男が、また泣いた件
月日が流れた。
ファッション革命が連邦に定着し、シロの栽培が各地に広まり、ポチたちが王城の庭を我が物顔で闊歩するようになった頃。
イレーネのお腹が、いよいよ大きくなってきた。
「おかあしゃまのおなか、まるい!」
エルナが毎朝イレーネのお腹を触るのが日課になっていた。
「そうですわ。もうすぐ赤ちゃんが生まれますわよ」
「あかちゃん、まだ?」
「もうすぐですわ」
「まいにち、まだ?ってきいてるのに」
「ふふっ。エルナは本当に楽しみなのですわね」
エルナがうんうんと頷いた。
「おねえちゃんになるから、はやくあいたい!」
ポチがエルナの隣でうとうとしていた。
ミケがイレーネのお腹にそっと頭を乗せた。
「にゃ~」
「まあ、ミケまで気にかけてくれているのですわね」
イレーネが穏やかに微笑んだ。
俺はその光景を眺めながら、ぼんやりと思った。
(もうすぐか)
(エルナの時は何もわからないまま終わっていた)
(今回は少し違う気がする)
「旦那様」
「何だ」
「緊張していますの?」
「していない」
「お顔が、していますわよ」
「……していない」
「チュッ」
「だから突然するな」
「ふにゃ……」
それから数日後の明け方。
リーヌが俺を起こしに来た。
「閣下、奥方様が」
俺は即座に起き上がった。
エルナの時と同じだった。
いや、違った。
エルナの時より、俺は落ち着いていた。
……はずだった。
「閣下、廊下でお待ちください」とリーヌが静かに言った。
「……わかった」
廊下に出た。
ポチが隣に座った。
ミケが足元に丸くなった。
ぴょんがそっと寄り添った。
ワタが三匹、俺の周りをふわふわと漂った。
(お前ら、気を遣えるんだな)
「わふ」
ポチが小さく鳴いた。
俺は廊下の壁に背をもたせかけて、目を閉じた。
(早く帰って寝たいだけだった)
(後方支援の一兵卒が)
(今、二人目の子供が生まれるのを廊下で待っている)
(人生、わからないものだな)
どのくらい待っただろうか。
扉が開いた。
リーヌが出てきた。
「閣下、元気な男の子でございます」
俺は少し黙った。
「……そうか」
「奥方様も、お子様も、お元気です」
「……そうか」
「閣下、どうぞ」
部屋に入った。
イレーネが疲れた顔で、しかし満足そうに笑っていた。
その腕の中に、小さな命がいた。
「旦那様」
「ああ」
「男の子ですわ」
「……そうらしいな」
「抱いてみますか?」
「……ああ」
俺はそっと腕を差し出した。
小さかった。
エルナの時と同じくらい小さかった。
でも元気だった。
ぎゃあぎゃあと泣いていた。
(元気だな)
(よかった)
「旦那様」
「何だ」
「また泣いていますわよ」
「……泣いてない」
「目が赤いですわ」
「……泣いてない」
「ふふっ……エルナの時と同じですわね」
「……うるさい」
イレーネがくすっと笑った。
「旦那様が泣いてくれると、わたくし、嬉しいですわ」
「……泣いてない」
「はいはい」
(泣いてない)
(目から水が出ているだけだ)
(男の子か)
(元気に育ってくれよ)
しばらくして、エルナが連れてこられた。
リーヌに手を引かれて、おずおずと部屋に入ってきた。
「あかちゃん……」
エルナが目を丸くした。
「ちっちゃい!!」
「そうですわ。エルナも最初はこのくらい小さかったのですよ」
「エルナも?」
「ええ」
エルナがじっと赤ちゃんを見つめた。
真剣な顔だった。
しばらくして、胸を張って言った。
「おねえちゃんだから、まもってあげる!」
(また言った)
俺は思わず口角が上がるのを感じた。
エルナが生まれた時、イレーネがアルベルトに向かって言ったのと同じ言葉だった。
今度は本当のお姉ちゃんになった。
「エルナ」
「なに?」
「頼んだぞ」
エルナがにこっと笑った。
「うん! まかせて!」
「名前は?」とイレーネが聞いた。
「エルナにつけさせるか」
「まあ、そうしますの?」
「シロもポチもエルナがつけた。こいつもエルナにつけさせてやれ」
イレーネが穏やかに微笑んだ。
「……旦那様は、本当に優しいですわね」
「面倒くさいからだ」
「ふふっ……エルナ、この子に名前をつけてあげて」
エルナがまた真剣な顔になった。
しばらく赤ちゃんをじっと見つめて、考えた。
「……アル!」
「アルか」
「まるくて、ちっちゃくて……アルって感じ!」
「そうか。アルでいいか、イレーネ」
「アル……アルベルト、でございますか?」
エルナが「あるべると!」と繰り返した。
「アルベルト、か」
ヘンドリックが「閣下、王妃様のご子息と同じお名前でございますが……」と恐る恐る言った。
「エルナが決めた。それでいい」
「……かしこまりました」
(アルベルト)
(元気に育ってくれよ)
その夜、エルナはアルベルトの隣でポチとミケとぴょんとハムとワタに囲まれながら、満足そうに眠っていた。
「おねえちゃんだから、まもってあげる」と言った通り、ずっとそばにいたせいで疲れたらしかった。
俺はイレーネの隣に座った。
「疲れたか」
「少し。でも……幸せですわ」
「そうか」
「旦那様は?」
俺は少し考えてから答えた。
「……まあ、悪くない」
「ふふっ……旦那様らしいですわ」
「チュッ」
今度は俺からキスをした。
「……っ! だ、旦那様から……!」
「たまにはな」
「ふにゃふにゃ……でも……嬉しいですわ……ふにゃ……」
窓の外に月が出ていた。
ポチが小さく鳴いた。
ワタが三匹、静かに漂っていた。
(早く帰って寝たいだけだった男が)
(また泣いた)
(泣いてないが)
(まあ)
(これでいい)
後方支援兵コルネリスの苦難は、まだまだ続く。
しかし今夜は、アルベルトが生まれた夜として、長く記憶に残りそうだった。




