第50話 浄化魔法を試したら、ソフィアの立場が変わっていた
翌朝、俺は港の外れにある入り江で水流浄化魔法を試していた。
静かな入り江だ。人も少ない。
「レベル1・浄化魔法」
いつもなら、汚れた水をきれいにするだけの地味な魔法だ。
しかし今回は石板に書いてあった通り、水流に乗せてみた。
手のひらから浄化魔法を流し込む。
水流に乗せる。
広げる。
ゆっくりと。
その瞬間だった。
入り江の水面が、ほんのりと光った。
光が波紋のように広がっていく。
じわじわと、しかし確実に。
「……あ」
水の色が変わった。
濁っていた部分がみるみる透明になっていく。
魚が戻ってきた。
底まで見える。
「……これは」
ヘンドリックが息を飲んだ。
「閣下、これは……海水の浄化ですか」
「そうらしいな」
「しかもレベル1で……しかも魔力を水流に乗せることで範囲が……」
「魔力を使って押し広げるのではなく、水流そのものに乗せて広げる。だから消耗が少ない」
「……閣下、これはとんでもないことではないですか」
「そうか?」
「海が汚染されている場所、廃水が流れ込んでいる港、水質が悪化している漁場……全部解決できますよ、これ」
俺はしばらく透明になった入り江を眺めた。
(確かに)
(後方支援の発想だな。攻めるのではなく、整える)
ワタが水面をふわふわと漂いながら、小さく鳴いた。
「狂王が残した知恵は、全部こういうものだな」
(派手ではない。地味だ。でも確実に役に立つ)
入り江から戻ると、ソフィアが待っていた。
「閣下、少しいいですか」
「何だ」
「父王から呼ばれた。今度は……正式な話がしたいとのことで」
「どんな話だ」
「ヴァレン王国と連邦の正式な外交関係の樹立。それと……」
ソフィアが少し言いにくそうにした。
「カールのことも、含めて」
「そうか」
「閣下にも同席してほしいと」
「面倒くさいな」
「……すまない」
「ついでだ。行く」
謁見の間には昨日より多くの重臣が並んでいた。
グスタフ王の表情も昨日より真剣だ。
「コルネリス公爵閣下、昨日は我が娘のために動いていただき、ありがとうございました」
「ついでです」
「は、はあ……。その、単刀直入にお聞きしたいのですが」
グスタフ王が俺をじっと見た。
「閣下から見て……ソフィアは、どういう存在ですか」
「有能な人材です」
「人材……」
「海底ダンジョンの知識は大陸随一。水中技術も然り。昨日改良した水中魔道具も、ソフィアの知識なしには作れなかった。連邦にとって、非常に価値のある人物です」
グスタフ王が重臣たちと顔を見合わせた。
「……第五王女が、そこまで」
「放置していたのはそちらでしょう」
「うっ……」
「ソフィアは自分の力で大陸を渡り歩き、知識と経験を積んできた。それがあったから、昨日の海底の祠にも辿り着けた。結果的に狂王の遺産の発見に繋がった」
「狂王……の遺産、でございますか」
「詳細は追って。それより本題を」
グスタフ王が背筋を伸ばした。
「……ウィレム連邦との正式な外交関係の樹立を、お願いしたいと思います」
「こちらも同じ考えです。ヘンドリック、手続きを進めてくれ」
「かしこまりました」
「それと……帝国皇太子殿下とソフィアの件ですが」
グスタフ王が少し緊張した面持ちで言った。
「カール殿下とソフィアの……その、正式なお付き合いを、認めさせていただきたいと思いまして」
「父王が認めてくださるのですか」
ソフィアが静かに言った。
グスタフ王が娘の顔を見た。
「……お前には、長い間、好き勝手にさせてしまったな」
「好き勝手にしていたのは事実ですわ」
「そうだな。だが……お前が自分の力で切り開いてきた縁だ。父として、応援したい」
ソフィアがしばらく黙っていた。
「……ありがとうございます、お父様」
声が、わずかに震えていた。
カールが静かに前に出た。
「グスタフ陛下、帝国皇太子カールと申します。ソフィア王女のことは……必ず大切にします」
「……よろしく頼む」
グスタフ王がそう言って、深々と頭を下げた。
重臣たちがざわめいた。
(王が皇太子に頭を下げるとは珍しい)
(まあ、娘を頼むという意味だろう)
謁見が終わった後、廊下でカールがソフィアに言った。
「ソフィア」
「……何だ」
「泣いてるか?」
「泣いていない」
「目が赤いぞ」
「……うるさい」
カールが静かに笑った。
「俺、ソフィアのことが好きだ」
「……っ」
「スパの湯上がりにフルーツ牛乳を飲んでいたら声をかけてきた時から、ずっと」
「あの時はフルーツ牛乳が珍しかっただけだ」
「それでもいい。きっかけはなんでもいい」
ソフィアがしばらく黙っていた。
「……俺も」
「え?」
「俺も、お前のことが……その、好きだ」
カールが目を丸くした。
「今、なんて言った?」
「一度しか言わない」
「ちょっと待って、もう一回」
「言わない」
「ソフィア!」
「うるさい!」
ソフィアが顔を真っ赤にして歩き出した。
カールがその後を追いかけながら、満面の笑みを浮かべた。
俺はその光景を横目で見ながら、ヘンドリックに言った。
「カールとソフィアの婚約、そのうち正式な話になるな」
「はい。帝国とヴァレン王国の外交も一気に動きますね」
「面倒くさいことになりそうだ」
「はい。それはもう」
「まあ……うまくいきそうで何よりだ」
「閣下、珍しく優しいことをおっしゃいますね」
「うるさい」
その夜。
港の見える部屋で、俺はイレーネと並んで夕陽を眺めていた。
エルナはワタと一緒にすでに眠っている。
「旦那様」
「何だ」
「カール殿下とソフィア様、うまくいきそうですわね」
「そうだな」
「フルーツ牛乳がきっかけというのが……なんとも言えませんわね。ふふっ」
「縁とはそういうものだろう」
「そうですわね」
イレーネが少し考えてから言った。
「旦那様とわたくしは……何がきっかけでしたかしら」
「本がつるつる滑ったからだ」
「……はい?」
「雷将が俺の胸元の本の上で滑って転んだ。それがなければ俺は死んでいた。生き延びたから侯爵になった。侯爵になったからお前と結婚した」
イレーネがしばらく呆然としていた。
「……つまり、わたくしたちの縁は、本がつるつる滑ったことですの?」
「そうなるな」
「……なんといいますか」
「面倒くさい縁だろう」
「……でも」
イレーネが俺の腕をそっと取った。
「その面倒くさい縁で、わたくしはこんなに幸せですわ」
「そうか」
「旦那様は?」
「……俺もだ」
「チュッ」
「……今回は怒らない」
「ふにゃ……」
夕陽が海に沈んでいく。
水平線が金色に染まっていた。
(本がつるつる滑って、雷将が転んで、俺はここまで来た)
(面倒くさいことの積み重ねで、ここまで来た)
(まあ……悪くない)
ワタが一匹、窓から顔を出して夕陽を眺めていた。
金色の瞳が、夕陽の色に染まっていた。
後方支援兵コルネリスの苦難は、まだまだ続く。
しかし今夜は、ヴァレン王国の夕陽がとても美しかった。




