第46話 結婚式の前日、俺は妻に弱音を吐いた
フロリアンとミレイユの結婚式は、翌日に迫っていた。
王城は朝から慌ただしかった。
「花の配置はこちらでよろしいですか!」
「料理の最終確認をお願いします!」
「衣装の最終調整が!」
廊下を行き交う侍女たちの声が、絶え間なく響いている。
その中心にいるのは、言うまでもなくマルガリータ王妃だった。
「衣装はもう少し裾を長く! 花は白だけじゃなく淡い紫も入れて! 料理は甘いものを多めに!」
「お母様、少し落ち着いてくださいませ」とイレーネが苦笑いしながら言った。
「落ち着けませんわ! 息子の結婚式ですのよ! しかも素敵なミレイユさんを嫁に迎えるのですわよ!」
「お母様がお倒れになったら式が台無しになってしまいますわ」
「倒れません! このくらいで倒れていたら……」
リーヌが「王妃様、少しお座りください」と静かに椅子を差し出した。
マルガリータ王妃がしぶしぶ座った。
「……少しだけですわよ」
「はい、少しだけで結構でございます」
レオナルト陛下が「余もそわそわしておるぞ……! 息子の晴れ舞台じゃからな……!」と廊下で落ち着きなく歩き回っていた。
「陛下、エルナを抱いていてください。陛下も落ち着きますし、エルナも喜びます」
「おお、そうだな! エルナよ、じいじと一緒に……」
「おじいしゃま!」
エルナが陛下に飛びついた。
陛下が「おおっ……! 可愛いのう……!」と完全に孫バカになった。
(騒がしいな)
俺はその光景を廊下の端から眺めていた。
肩のワタが小さく鳴いた。
「そうだな」
フロリアンが俺のところに来たのは、昼過ぎのことだった。
「義兄上、明日はよろしくお願いします」
「ああ」
「緊張しているんですよね、実は」
「そうか」
「義兄上は結婚式の前、緊張しませんでしたか」
俺は少し考えた。
「してたかもしれないな。あまり覚えていない」
「そうですか……」
フロリアンがしばらく黙ってから、静かに言った。
「義兄上、俺、ちゃんとやれますかね」
「何を」
「王太子として。ミレイユの夫として。ゼーフェルトの人たちのために」
俺はフロリアンを眺めた。
(こいつも、不安なんだな)
「お前は数年間、身分を隠して民のそばにいた。それだけで十分だ」
「でも義兄上みたいにはなれないですよ」
「俺みたいになる必要はない」
「義兄上……」
「お前にはお前のやり方がある。ミレイユもそれを知っている」
フロリアンがしばらく黙った後、静かに笑った。
「……ありがとうございます、義兄上」
「礼はいい。明日ちゃんとやれ」
「はい」
フロリアンが去っていった。
その背中を見送りながら、俺はぼんやりと考えた。
(お前にはお前のやり方がある、か)
(俺自身は……どうなんだ)
夜、エルナが眠った後。
俺とイレーネは二人で窓の外を眺めていた。
月が出ていた。王城の庭が、静かに月光に照らされている。
庭の隅に、エルナが毎日水をやっている芽が、小さく揺れていた。
「……なあ、イレーネ」
俺は昔の口調で、ぽつりと言った。
イレーネが少し目を丸くした。
「何ですの、旦那様」
「俺、本当は全然わかってないんだよな」
「……何がですか?」
「公爵だの統治者だの言われているが……本質はただの後方支援の一兵卒だ。貴族としての振る舞いも、政治も、正直今もよくわかっていない」
「旦那様……」
「なれないし、わからないながら、自分なりにやってきたつもりだ。でも……これでよかったのか、たまにわからなくなる」
「……」
「フロリアンに『ちゃんとやれますか』って聞かれて、お前にはお前のやり方があると言ったが……俺自身、そう言えるのかどうか」
「……」
「まあ、愚痴だ。聞き流してくれ」
イレーネが黙っていた。
しばらく、静かな時間が続いた。
(言いすぎたか)
俺が口を開こうとした瞬間、イレーネの目から、静かに涙がこぼれた。
「お、おい」
俺は慌てた。
「なんで泣いているんだ。何か嫌なことを言ったか」
「……違いますわ」
「違う?」
「旦那様がそんなふうに話してくださったことが……嬉しくて」
「嬉しいのに泣くのか」
「嬉しい時は泣くのですわ」
「……そうか」
イレーネが涙を拭いながら、俺をまっすぐ見た。
「旦那様、わたくし、一度もそれを気にしたことがありませんでしたわ」
「何を」
「貴族かどうかなんて。後方支援の一兵卒だったかどうかなんて」
「……」
「わたくしはずっと……呪いのせいで、本心と正反対のことしか言えなくて。誰にも本音を伝えられなくて。そんなわたくしの呪いを解いてくれたのは、あなたでしたわ」
「それは……ついでだったんだが」
「ついででも構いませんわ」
イレーネがふわりと微笑んだ。
「エルナを産めたのも、こんなに幸せな日々を過ごせているのも……全部あなたのおかげですわ。貴族の作法がわからなくても。政治がよくわからなくても。そんなことは関係ありませんわ」
「……」
「わたくしは、そのあなたが好きなのですわ。ただの後方支援の一兵卒だった、そのあなたが」
コルネリスが黙った。
長い沈黙が続いた。
月の光が、窓から差し込んでいた。
「……ありがとう」
俺はそれだけ言った。
言葉が、それ以上出てこなかった。
「旦那様」
「何だ」
イレーネが俺の手をそっと握った。
「わたくしが支えますわ。これからもずっと」
「……頼りにしている」
「本当に?」
「本当に」
イレーネがしばらく俺の手を握ったまま、窓の外を眺めていた。
「チュッ」
「……今回は怒らない」
「ふにゃ……」
「お前が泣いた後にキスをするのか」
「嬉しい時はそうしたくなりますわ」
「……そうか」
俺はイレーネの頭を、そっと引き寄せた。
肩のワタが小さく鳴いた。
庭の芽が、風もないのにそっと揺れた。
(後方支援の一兵卒が、こんなところまで来てしまったな)
(でも)
(こいつがそばにいてくれるなら……まあ、悪くない)
翌朝。
結婚式の日が来た。
フロリアンが緊張した顔で式場の前に立っていた。
「義兄上、やっぱり緊張してきました」
「当然だ」
「何か一言ください」
「ちゃんとやれ」
「……それだけですか」
「それだけだ」
フロリアンが苦笑いした。
「義兄上らしいですね」
「後方支援だからな。前線はお前がやれ」
フロリアンが目を細めた。
「……はい。やります」
式が始まった。
フロリアンとミレイユが並んで立っている。
ミレイユが白い衣装を纏い、静かに微笑んでいた。
フロリアンが緊張した顔のまま、しかし確かな足取りでミレイユの隣に立った。
マルガリータ王妃がすでに号泣していた。
「きれいですわ……! ミレイユさんが……! フロリアンが……!」
「王妃よ、落ち着け……余もそろそろ限界だが……」
「あなたも泣いていますわよ!」
「泣いておらん! 目に砂が……」
「廊下に砂はありませんわ!」
ヘンドリックが「お静かに、式が始まります」と囁いた。
二人がしぶしぶ黙った。
俺はイレーネと並んで、その光景を眺めていた。
「旦那様」とイレーネが小声で言った。
「何だ」
「わたくしたちの結婚式も、こんな感じでしたわよね」
「もっと騒がしかった気がするが」
「お父様が号泣していましたわね」
「お前の母上が俺に猛タックルしてきたな」
「ふふっ……懐かしいですわ」
エルナがとことこと歩いてきて、俺の手を握った。
「おとしゃま、きれい」
「そうだな」
「おかあしゃまも、きれい」
「そうだな」
「エルナも、きれい?」
「一番きれいだ」
エルナがきゃっと笑った。
ワタが三匹、エルナの周りをふわふわと漂っていた。
式場の中で、フロリアンとミレイユが誓いの言葉を交わしていた。
「どんな時も、あなたのそばにいます」
「どんな時も、あなたを支えます」
(どんな時も、か)
俺は昨夜のイレーネの言葉を思い出した。
「わたくしが支えますわ。これからもずっと」
(まあ……俺もそう思っている)
(言葉にするのは苦手だが)
「旦那様、チュッ」
「式の最中にするな」
「でも旦那様がいい顔をしておられましたから」
「してない」
「してましたわよ? ふふっ」
「……うるさい」
「ふにゃ……」
ソフィアが遠くで式を眺めながら、カールに小声で言った。
「……いい式だな」
「そうだな」とカールが答えた。
「こういうのを見ると……なんか、いいなと思う」
「俺も」
ソフィアが少し顔を赤くして前を向いた。
カールがそっと笑った。
式が終わった後、ヘンドリックが静かに近づいてきた。
「閣下、一つご報告が」
「何だ」
「ヴァレン王国との外交ルート、正式に開通いたしました。いつでも訪問の調整ができます」
「そうか」
「カール殿下も同行されるとのことで」
「ソフィアがいるから当然だろう」
「はい。それと……閣下」
「何だ」
「昨夜、王城の庭の芽が少し大きくなっていたと庭師から報告が入りました」
「そうか」
「エルナ様が毎日水をやっているおかげかもしれません」
俺は庭の方を眺めた。
遠くに、小さな芽が見えた。
昨日より、確かに少し大きくなっている気がした。
(何の植物かはまだわからない)
(でも)
(エルナが大きくなる頃には、わかるかもしれないな)
「旦那様、次はヴァレン王国ですわね」
「ああ」
「海ですわよ! エルナは初めてですわ!」
「おとしゃま、うみって、なに?」
「大きな水だ。すごく大きい」
「わたしより大きい?」
「比べ物にならないくらい大きい」
エルナが目を丸くした。
「すごい!」
「ふふっ、楽しみですわね!」
ワタが三匹、エルナの頭上でふわふわと漂っていた。
(ヴァレン王国か)
(また面倒くさいことになりそうだ)
(でも)
後方支援兵コルネリスの苦難は、まだまだ続く。
そして今は、それも悪くないと思っていた。




