第1話 後方支援のコルネリスが、なんで雷将に踏まれているんだ
人生最大のピンチというのは、得てして唐突に、そして理不尽にやってくるものだ。
「……っつ。なんだ、これ……」
ズキズキと痛む後頭部を押さえながら目を覚ました俺の視界に飛び込んできたのは、見慣れた後方支援部隊の安全な天幕……ではなく、無惨に吹き飛ばされた野営地の残骸と、倒れ伏す味方の兵士たちだった。
どうやら前線が完全に崩壊し、こんな最後尾にまで敵がなだれ込んできたらしい。逃げ遅れた俺は、運悪く崩れた柱に頭をぶつけて気を失っていたというわけだ。
(そうだ。俺は今日も例の本を読んでいたんだった)
懐に手を当てると、硬くて分厚い感触があった。軍の書庫の奥で見つけて以来、どこへ行くにも持ち歩いている黒革の本だ。読み始めてもう何年になるか。古代文字で「サルでもわかる」と書いてある初心者向けの実用書で、読むたびにレベル1のスキルが一つ増えていく。暇な後方支援兵の暇つぶしには、ちょうどいい。
今日も天幕の中で読み返していたら、突然轟音と怒号が飛び込んできた。慌てて本を胸元に押し込んで逃げ出そうとして……柱に頭をぶつけた。
(我ながら情けない)
俺の名前はコルネリス。ウィレム王国軍第三師団後方支援部隊所属、35歳独身。趣味は早寝早起きと家庭菜園。夢は安全な後方で定年まで勤め上げ、田舎に引っ込んで静かに余生を過ごすこと。
最前線とは無縁の人生のはずだった。
パチッ、バチバチッ……!
空気が焦げるような異臭と、鼓膜を劈く放電の音。
恐る恐る視線を上げた先、俺の目の前には、全身から紫電を迸らせる見上げるほど巨大な鎧の男が立っていた。あふれ出る覇気といい、その右手に握られた禍々しい大剣といい、ダルム公国軍の最高戦力と名高い『雷将ヴォルフ』その人ではないか。
(いやいやいや! なんで後方支援の俺の目の前に、いきなり化け物クラスのえらいさんが立ってんだよ! こっちは早く帰って寝たいだけなのに!)
そんな俺の悲痛な心の叫びなど知る由もなく、ヴォルフは倒れている俺を見下ろして口の端を歪めた。
「む? なんだ貴様、まだ生きて……」
後から聞いた話だが、ヴォルフには生き残りの敵兵を踏みつけることで止めを刺す悪癖があったらしい。
鋼鉄のブーツが、俺の胸めがけて踏み下ろされた。
だが次の瞬間。
「……おっ? うおおおおっ!?」
ヴォルフの顔から余裕が消えた。
ブーツが俺の胸に乗った瞬間、下に何か異様なものがあった。胸元に押し込んでいた例の本だ。あの黒革の装丁、見た目は禍々しいが、触れると変につるつると滑る、妙な素材でできている。
踏んだ拍子にブーツがその上で思い切りズルッと滑った。
重心が狂った。
全身鎧の重みがそのまま前方に流れ、ヴォルフが盛大にずっこけた。
(今だ)
俺はとっさに体を起こした。倒れ込んだヴォルフの顔が、一瞬だけ俺と同じ高さになる。
(水だ。レベル1水魔法。雷には水が効く。レベル1だからこそ詠唱なしで一瞬で発動できる)
「フン、小賢しい――」
ドバァッ!
バチバチバチバチバチッ!!
水球が弾けた瞬間、すさまじい水煙と轟音の放電が弾けた。水は電気を通す。ヴォルフが放とうとしていた強大な雷魔法は、濡れた彼自身の身体を伝い、最悪の形で自爆を引き起こしたのだ。
だが、俺は知っている。こういうバケモノは、少し目を離した隙にむくりと起き上がり、怒り狂って反撃してくるものなのだ。後方支援の最弱兵士である俺など、デコピン一発で消し飛ばされてしまう。
安全第一。絶対に目を覚まさせるわけにはいかない。
俺は倒れているヴォルフから十分に距離を取ったまま、再び手を前に突き出した。
そして、ピクリとも動かないヴォルフの顔面、その鼻と口を完全に密閉するように『レベル1の水魔法』をピンポイントで放ち続けた。
ボコッ、ボコボコボコッ……。
意識のない相手の顔面に、絶え間なく水を送り込み続ける。普通の魔法使いならすぐに魔力が尽きる力技だが、俺には無駄に豊富な魔力がある。
俺はヴォルフが完全に動かなくなるまで、無表情で(内心は恐怖で心臓をバクバクさせながら)延々と顔面に水を浴びせ続けた。
やがて、巨体がビクンと一度だけ大きく跳ねた後、完全に力を失って沈黙した。
陸の上での、静かな溺死。ダルム公国軍最強の将の、あまりにもあっけない最期だった。
(ふう、これで安心だ。起き上がられたら本当にチビるところだった)
俺はゆっくりと近づき、完全に動かなくなったヴォルフの右手から、禍々しい大剣を引き抜いた。
その瞬間——
(あっ)
全身の魔力が、ごっそりと持っていかれた。
まるで底なし沼のように魔力を吸い上げられる感覚。体の芯から力が抜けていくような、不快この上ない感触だ。
(な、なんだこれ。化け物みたいな剣だな……)
ただし俺には、無駄に豊富な魔力がある。干からびて死ぬことはなさそうだ。
ひとまず生き延びた。あとは逃げるだけだ。
そう思った瞬間、ふと胸元に手を当てた。
例の本だ。ヴォルフの全体重を受けたはずなのに、あの黒革の装丁には傷一つ、へこみ一つついていない。相変わらず変につるつると滑る、妙な素材の手触りをしている。
(……こいつが俺の命を救ったのか)
数年間の暇つぶしで読んでいた本が、まさかこういう形で役に立つとは思っていなかった。
(丈夫な本だ。よくわからないが、ありがとう)
俺はそれだけ思って、また懐に戻した。
その瞬間、遠くから複数の足音が聞こえてきた。




