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家族になりたい  作者: 京夜
後編
8/8

家族のもとへ



 昼頃になってようやく目を覚ました悟は、瞬時に昨夜のことを思い出し、顔を真っ赤にし口を手で押さえた。


「……やばい」


 朝になって夜の行動を悔いることはよくあるが、これはその最たるものだった。夜に書いた手紙なら、朝握りつぶせばすむ。しかし、夜書いた手紙をそのままポストに入れてしまったら、もう取り戻すことは出来ない。

 悟は起きあがり、顔を洗うべくドアを開けようとしたが、この向こうでは水香にいつ会ってもおかしくないことに気づくと、思わずノブに掛けた手の動きが止まった。


「あっ、挨拶すればいいんだ。明るく、いつものように」


 そうはいっても、なかなか開ける勇気は悟の体内からわき出てくれそうになかった。

 同じ言葉をゆうに二十回以上も繰り返し、ようやく決心のついた悟はドアを開けた。

 ……神社によこしまな願い事ばかりがしたせいか、それとも恋の成就を嫌うご先祖さまのあたたかいお計らいか、ドアの向こうには水香がいた。


「!」


 百の言葉が頭の中を駆けめぐったが、一つの言葉も吐き出すことができなかった。ただひたすら、二人は顔を真っ赤にして目を見つめた。


「すっ、水香」


 ようやく発せられた一言に、水香は体をびくっと反応させ、身をひるがえして走り去ってしまった。

 階段を下りる足音を聞いて、ようやく悟は冷静になった。

 海の部屋へ走り込んだ。


「海っ!」


 海の部屋は一面本棚に埋め尽くされており、奥にある長細い机の前で、海は勉強をしていた。


「何用だ……と言っても、お前が慌てる用といったら水香姉のことしかないか」


 悟はドアを閉め、肩で息をしながら床に座り込んだ。海と二人で酒を飲むのは、いつもこの場所だった。海も椅子から降り、向かいに座った。


「昨日のことか?」

「なぜ解る!?」


 海は肩をすくめて見せた。


「二人してあんな顔で帰ってきたら、誰だって解る」


 悟はおもわず顔を触った。十分に顔を冷やしたせいか、それともそれほど大したパンチではなかったのか、目のあたりが少々腫れ、頬の絆創膏が痛々しいほかは、目立った傷は見られなかった。


「あっ、でも傷のことじゃないぞ。雰囲気だよ。兄妹の一線でもこえたのか」


 海の洞察はあい変わらず鋭く、悟は少々慌てた。まるで隠れて見ていたかのような口振りだが、海にとっては「そのぐらい解って当然」と言わんばかりだった。

 悟はかいつまんで、昨日の出来事を話した。


「それは、おめでとう。良かったな」


 表情一つ崩さず、悟の肩を叩く。


「よかないっ! おかげで、水香は顔をあわせただけで逃げ出した」

「さもありなん。水香姉にとっては何もかもが初めての体験だからな」

「初めての体験?」


 海はゆっくりとうなずいて見せた。


「デートも、心が揺れるのも、好きになるのも、キスするのも。今頃はそんな自分に戸惑って、わけが解らなくなっているんじゃないか?」

「……」

「もし少しゆっくり構えればいいさ。向こうの考えが落ちついてから、話をすればいい」


 海はそういって立ち上がり、また椅子に座りなおしてしまった。もう言うことはない、という雰囲気だった。

 海は状況を冷静に見渡し、的確な指示を出していることは、悟にも理解ができた。

 悟はようやく、少しばかり落ちつくことができた。

 言葉通りに実行できるかは解らないが、


「努力してみるよ」


 それしかないのだから。


「うん。……精いっぱいやれよ」


 海の言葉に、悟は笑ってうなずいた。



 水香は、母親とともに店の手伝いをしていた。

 昼間の喧噪が過ぎ、ようやく客もいなくなった三時前のこと。夕方の用意と昼間の片づけのために、二人の手は動き続けていた。

 手伝い始めてからこれまでの間、水香はまだ一言も発してはいない。水香は決しておしゃべりな方ではなかったが、無口であるわけでもない。

 隙を見て、弥生は横目でちらちらと自分の娘を観察した。水香は何やら思案しているらしい。

 ただその様子は悩んでいると言うよりはむしろ、波ひとつ立っていない湖を見つめているような表情だった。

 瞳が澄み、落ちついているけど、意識はここにない。

 口を出すべきかどうか弥生はしばらく考えていたが、ようやく好奇心が不安をこえ、声をかけることにした。


「水香、どうしたの?」

「……うん?」

「何か悩んでいるの?」

「いや……悩んでいない。むしろ、何も考えられない」


 いつもより、ゆっくりとした口調だった。弥生はおもしろがって、娘の横顔をじっと見つめた。


「悟さんと何かあったんでしょう」


 水香はびっくりして、弥生を見た。的をえたことを知った弥生は、嬉しそうに笑った。


「綺麗になった。たった一晩で、女らしくなった。悟さんを好きになったんじゃないの」

「わっ、わかんない」


 頬を薄紅に染め、水香はうつむいた。何も考えることができず、胸だけが鼓動を打つ。


「あまり深く考えちゃ駄目よ。自分の気持ちを見つめて、心を偽らないようにね」


 弥生はくすくすと笑いながら、娘をながめた。

 優しい、澄んだ瞳で、遠くを見つめる水香に、横あいから陽が射している。

 背筋をきれいに伸ばし、少しうつむいたその様子は、茎を長く伸ばした花のようだった。

 静かになった店内に道ばたで遊ぶ子供の声がし、風が止まっているかと思われるほど穏やかに漂っていた。

 ふと止まるかと思われた時の中で、すこし大きめの廊下を歩く足音が聞こえた。

 そんな足音をたてるのは、一人だけである。


「弥生さん、買い出しに行って来るよ」

「悟さん」


 水香が振り向き目を合わすと、悟は恥ずかしそうに笑って頭をかいた。そして悟は視線をはずし、弥生のもとへ歩いていく。

 ご飯をいっぱい詰め込んだみたいに胸が苦しい、と水香は思った。色気はないが、それが一番水香にふさわしい表現だった。

 弥生はさらさらと紙に必要なものを書き記すと、悟に手渡しこういった。


「水香と行ってらっしゃい」


 はにかんだ後、悟はうなずいた。



 家の屋上。

 春のあたたかな風にさらされながら、海と玲は並んで座っていた。

 二人の視線の先で、悟と水香が寄り添いながら家の前の道を歩いていく。つかず離れず一定に距離を保ちながら、二人は近くの角を曲がり、その姿は見えなくなってしまった。


「うまくいくといいんだが」

「好きあっているなら、きっとうまくいくよ」


 玲のつぶやきにに、海はうなずいた。

 海は、二人が歩いていった方向を見つめ続けた。

 心配しているのではない。

 海の心境はむしろ魚を待つ釣り氏のように、結果が出ることを無心に待つものに近かった。

 釣れるときはたくさん釣れるだろうし、一匹も釣れないこともあるだろうが、帰りに魚屋に寄るべきかどうかは、結果が出てから考えればすむことである。

 水香と悟がうまくいくかどうか今は待とう、と海は考えていた。

 玲はずっと海を見ていた。


「教室ではあんなに独りなのに、他人のことばかり考えているんだね」

「……ああ、まあ」

「なのに、私のことは全然考えてくれないの?」

「えっ?」


 玲がにじり寄った分、海は後ずさってしまった。海が相手の迫力に対抗できないのは、唯一玲だけである。この子のパワーはどこからやってくるのだろうか、海は真剣に悩んだことがある。

 海が先を読めないのも、唯一玲だけだった。

 玲はいきなり膝で立ち、人差し指を空に向かって上げた。


「神に誓う。私は、海が好きだ」


 真剣な力の入った声を聞いて、海は目を白黒させた。玲の行動を意味を理解することはできないが、冗談ではないことは解る。


「多くは望まないけど、せめて海君の気持ちを海君の口から聞きたい」


 語尾が少しふるえている。

 緊張している玲の心臓の音が、ここまで聞こえてくるかと思った。

 海の気持ちをどうしても知りたくて、こんな思い切ったこと質問の仕方をとるしかなかったことを、ようやく海は悟った。

 真剣に答えなくてはいけないのは解っている。でも、玲の真剣さとまっすぐさを見て、微笑ましさのあまり海は笑いたくなった。

 ほんの少し頬をゆるませ、海は静かに語りだした。


「生まれてから今に至るまで、俺は好きという感情を味わったことがない。初恋もまだだし、憧れもない。それは玲に対してもそうだ」


 別れの言葉にも聞こえる内容を、なんの抵抗もなくいい放った。玲はそのことはすでに解ってたことなのに、胸が痛くなるのを感じた。

 体がふるえ、一粒だけ涙が出た。

 空はまだ青かった。

 それはどこまでも透明に近い色で、ただ雲だけが白く漂っていた。


「俺は物心ついたときから笑ったことがない。笑う感情が欠落しているのだろうと、疑いもしなかった。目の前にあるのはただ理論であり、事実であり、何も意外なことはなく、悲しむことも嬉しいこともなかった」


 その海が一度だけ笑った。

 たわいもないことだが、ある日の夕方のこと。珍しく外を歩いていた海を、玲が偶然見つけた。

「海くぅーん!」と叫びながら玲はつっこむように走ってきて、そして、何もないところでつまずき、海の目の前でおもいっきり転けた。

 あまりのことに数秒絶句した後、海は吹き出して笑った。

 こんな単純なことに何を笑っているんだ、と思ったのは海の方だったが、笑いは止まらなかった。

 玲は鼻の頭に擦り傷を作りながら、不思議そうに海を見あげたのだった。

 海は言葉を続けた。


「俺の笑い顔を見たことがあるのは、一人しかいない」


 少し微笑んだ海は、涙をためた玲の瞳を見つめた。


「大事に思っている」


 誰も見ていない屋上で、ようやく緊張の解けた玲は涙をこぼし、海は微笑みながら大事そうに、玲を抱きしめた。



 帰り道に通る神社は、いつものように静かにただずんでいた。人はなく、鳥の高い鳴き声と、葉の擦れあう音が流れてゆくだけだった。

 幾度となく歩いた境内の砂利道を、両手にビニール袋を抱えた二人がならび歩く。二人の間に張り巡らされていた緊張の糸はだいぶ切れたものの、交わす言葉はなかった。

 何をいったらいいのか解らない。

 相手の気持ちを推し量りかねて、胸に思いばかりを蓄えていく。ほんの些細な思いも、降り積もる雪のように厚さを増し、胸が痛くなるのを感じていた。


 ざざっ ざっ ざざっ


 強い大きな足音が悟のもので、軽い音は水香のもの。

 髪が流れる音は水香のもの。

 大きな存在感は悟のもの。

 いつも当然のようにあったものが、今は強く感じられる。

 本堂の横を通り過ぎるとき、急に水香は方向を変え、手にもっていた袋を置いたかと思うと、両手をあわせて祈りだした。

 何を祈っているのかは解らない。

 解らなくてもいいのかも知れない。

 ただ両足と背筋を綺麗にのばした小さな後ろ姿を見て、悟は遠くなっていくような錯覚を憶えた。

 いや事実、水香はもうすぐ家を出る。

 二人の心の距離と、実際の距離が広まれば、もう二度ともとには戻れないことは容易に理解できた。

 後悔が残る。

 心が重くなっていくのを感じる。

 しかし、悟はふと、何に対して後悔が残っているのか、よく解っていないことに気づいた。

 何を後悔しているのか。

 好きになったことを?

 それとも唇が触れたことを?

 そうかも知れないし、そうじゃないかも知れない。

 その時、なぜか海の言葉を思い出し、そしてふと周りが明るくなるのを感じた。


「精いっぱいやれよ」


 水香が振り返り、二人は目を合わせた。

 少し緊張した水香の表情を見て、何かをいおうとしているのが解った。

 その前に、悟は言った。


「好きだ」


 低く、落ちついた声で一言。

 ほかに言う言葉はなかった。

 夕方を知らせるカラスが、かぁ……かぁ……と二人の上を横切っていく。

 神の前に、たった二人たたずむ。

 悟を見上げる水香の瞳から、大きな涙がこぼれ落ちていった。

 表情は変わらない。

 目を開けたまま、涙が頬を伝い土にしみこむ。


「こんなに男っぽいぞ」


 悟は首を横に振った。


「そこがいい」

「お前の友達にもいい顔できないぞ」

「かまわない」

「遊びも何も知らないし」

「水香からいろいろ教えてもらった」


 水香の涙は止まらず、大きく息を吸い込んで言った。


「家族には戻れないかも知れないぞ!」


「結婚すればいい。そうすれば、また家族になれる」


 水香は悟に抱きついた。


「オレの泣き顔を知ってるのは、お前だけなんだからな」


 表情を変えることなく過ごしてきた、海は笑顔を見せる人をみつけ、水香は泣き顔を見せる人をみつけた。

 悟が身をかがめる。

 二人は瞳を閉じ、キスをした。



 五年たった春の日。

 水香は桜を見ていた。

 桜は枝を精いっぱいに伸ばし、数十年のときを経た風格をしっかりと備えていた。

 茶の節がかった枝は少しばかり垂れ下がり、大きな唐傘のように水香をおおう。

 そして桜はその身に、かぎりなく白にちかい紅色の花びらを幾千万とつけている。

 水香が細い指をついっとのばすと、その腕にそって花びらは流れ落ちた。

 空を見上げる。

 天高い空には月があり、その身から白い光が落とし、水香の薄く赤くぬった唇が照らし浮かび上がらせた。

 水香は二十三になっていた。

 長い裾の青いスカートを自然に着こなし、髪は流れるほどにのびた。

 そして、


「水香姉さぁーん」


 玲の変わらず元気な声が響く。

 腕には生まれたての水香と悟の子供が抱かれていた。

 小さな生まれたての赤ちゃん。

 そして、その横には落ちついた雰囲気の悟と、さらに体格の良くなった海が。

 水香は笑顔のままで走った。


 家族のもとへ、と。




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