家族のもとへ
昼頃になってようやく目を覚ました悟は、瞬時に昨夜のことを思い出し、顔を真っ赤にし口を手で押さえた。
「……やばい」
朝になって夜の行動を悔いることはよくあるが、これはその最たるものだった。夜に書いた手紙なら、朝握りつぶせばすむ。しかし、夜書いた手紙をそのままポストに入れてしまったら、もう取り戻すことは出来ない。
悟は起きあがり、顔を洗うべくドアを開けようとしたが、この向こうでは水香にいつ会ってもおかしくないことに気づくと、思わずノブに掛けた手の動きが止まった。
「あっ、挨拶すればいいんだ。明るく、いつものように」
そうはいっても、なかなか開ける勇気は悟の体内からわき出てくれそうになかった。
同じ言葉をゆうに二十回以上も繰り返し、ようやく決心のついた悟はドアを開けた。
……神社によこしまな願い事ばかりがしたせいか、それとも恋の成就を嫌うご先祖さまのあたたかいお計らいか、ドアの向こうには水香がいた。
「!」
百の言葉が頭の中を駆けめぐったが、一つの言葉も吐き出すことができなかった。ただひたすら、二人は顔を真っ赤にして目を見つめた。
「すっ、水香」
ようやく発せられた一言に、水香は体をびくっと反応させ、身をひるがえして走り去ってしまった。
階段を下りる足音を聞いて、ようやく悟は冷静になった。
海の部屋へ走り込んだ。
「海っ!」
海の部屋は一面本棚に埋め尽くされており、奥にある長細い机の前で、海は勉強をしていた。
「何用だ……と言っても、お前が慌てる用といったら水香姉のことしかないか」
悟はドアを閉め、肩で息をしながら床に座り込んだ。海と二人で酒を飲むのは、いつもこの場所だった。海も椅子から降り、向かいに座った。
「昨日のことか?」
「なぜ解る!?」
海は肩をすくめて見せた。
「二人してあんな顔で帰ってきたら、誰だって解る」
悟はおもわず顔を触った。十分に顔を冷やしたせいか、それともそれほど大したパンチではなかったのか、目のあたりが少々腫れ、頬の絆創膏が痛々しいほかは、目立った傷は見られなかった。
「あっ、でも傷のことじゃないぞ。雰囲気だよ。兄妹の一線でもこえたのか」
海の洞察はあい変わらず鋭く、悟は少々慌てた。まるで隠れて見ていたかのような口振りだが、海にとっては「そのぐらい解って当然」と言わんばかりだった。
悟はかいつまんで、昨日の出来事を話した。
「それは、おめでとう。良かったな」
表情一つ崩さず、悟の肩を叩く。
「よかないっ! おかげで、水香は顔をあわせただけで逃げ出した」
「さもありなん。水香姉にとっては何もかもが初めての体験だからな」
「初めての体験?」
海はゆっくりとうなずいて見せた。
「デートも、心が揺れるのも、好きになるのも、キスするのも。今頃はそんな自分に戸惑って、わけが解らなくなっているんじゃないか?」
「……」
「もし少しゆっくり構えればいいさ。向こうの考えが落ちついてから、話をすればいい」
海はそういって立ち上がり、また椅子に座りなおしてしまった。もう言うことはない、という雰囲気だった。
海は状況を冷静に見渡し、的確な指示を出していることは、悟にも理解ができた。
悟はようやく、少しばかり落ちつくことができた。
言葉通りに実行できるかは解らないが、
「努力してみるよ」
それしかないのだから。
「うん。……精いっぱいやれよ」
海の言葉に、悟は笑ってうなずいた。
水香は、母親とともに店の手伝いをしていた。
昼間の喧噪が過ぎ、ようやく客もいなくなった三時前のこと。夕方の用意と昼間の片づけのために、二人の手は動き続けていた。
手伝い始めてからこれまでの間、水香はまだ一言も発してはいない。水香は決しておしゃべりな方ではなかったが、無口であるわけでもない。
隙を見て、弥生は横目でちらちらと自分の娘を観察した。水香は何やら思案しているらしい。
ただその様子は悩んでいると言うよりはむしろ、波ひとつ立っていない湖を見つめているような表情だった。
瞳が澄み、落ちついているけど、意識はここにない。
口を出すべきかどうか弥生はしばらく考えていたが、ようやく好奇心が不安をこえ、声をかけることにした。
「水香、どうしたの?」
「……うん?」
「何か悩んでいるの?」
「いや……悩んでいない。むしろ、何も考えられない」
いつもより、ゆっくりとした口調だった。弥生はおもしろがって、娘の横顔をじっと見つめた。
「悟さんと何かあったんでしょう」
水香はびっくりして、弥生を見た。的をえたことを知った弥生は、嬉しそうに笑った。
「綺麗になった。たった一晩で、女らしくなった。悟さんを好きになったんじゃないの」
「わっ、わかんない」
頬を薄紅に染め、水香はうつむいた。何も考えることができず、胸だけが鼓動を打つ。
「あまり深く考えちゃ駄目よ。自分の気持ちを見つめて、心を偽らないようにね」
弥生はくすくすと笑いながら、娘をながめた。
優しい、澄んだ瞳で、遠くを見つめる水香に、横あいから陽が射している。
背筋をきれいに伸ばし、少しうつむいたその様子は、茎を長く伸ばした花のようだった。
静かになった店内に道ばたで遊ぶ子供の声がし、風が止まっているかと思われるほど穏やかに漂っていた。
ふと止まるかと思われた時の中で、すこし大きめの廊下を歩く足音が聞こえた。
そんな足音をたてるのは、一人だけである。
「弥生さん、買い出しに行って来るよ」
「悟さん」
水香が振り向き目を合わすと、悟は恥ずかしそうに笑って頭をかいた。そして悟は視線をはずし、弥生のもとへ歩いていく。
ご飯をいっぱい詰め込んだみたいに胸が苦しい、と水香は思った。色気はないが、それが一番水香にふさわしい表現だった。
弥生はさらさらと紙に必要なものを書き記すと、悟に手渡しこういった。
「水香と行ってらっしゃい」
はにかんだ後、悟はうなずいた。
家の屋上。
春のあたたかな風にさらされながら、海と玲は並んで座っていた。
二人の視線の先で、悟と水香が寄り添いながら家の前の道を歩いていく。つかず離れず一定に距離を保ちながら、二人は近くの角を曲がり、その姿は見えなくなってしまった。
「うまくいくといいんだが」
「好きあっているなら、きっとうまくいくよ」
玲のつぶやきにに、海はうなずいた。
海は、二人が歩いていった方向を見つめ続けた。
心配しているのではない。
海の心境はむしろ魚を待つ釣り氏のように、結果が出ることを無心に待つものに近かった。
釣れるときはたくさん釣れるだろうし、一匹も釣れないこともあるだろうが、帰りに魚屋に寄るべきかどうかは、結果が出てから考えればすむことである。
水香と悟がうまくいくかどうか今は待とう、と海は考えていた。
玲はずっと海を見ていた。
「教室ではあんなに独りなのに、他人のことばかり考えているんだね」
「……ああ、まあ」
「なのに、私のことは全然考えてくれないの?」
「えっ?」
玲がにじり寄った分、海は後ずさってしまった。海が相手の迫力に対抗できないのは、唯一玲だけである。この子のパワーはどこからやってくるのだろうか、海は真剣に悩んだことがある。
海が先を読めないのも、唯一玲だけだった。
玲はいきなり膝で立ち、人差し指を空に向かって上げた。
「神に誓う。私は、海が好きだ」
真剣な力の入った声を聞いて、海は目を白黒させた。玲の行動を意味を理解することはできないが、冗談ではないことは解る。
「多くは望まないけど、せめて海君の気持ちを海君の口から聞きたい」
語尾が少しふるえている。
緊張している玲の心臓の音が、ここまで聞こえてくるかと思った。
海の気持ちをどうしても知りたくて、こんな思い切ったこと質問の仕方をとるしかなかったことを、ようやく海は悟った。
真剣に答えなくてはいけないのは解っている。でも、玲の真剣さとまっすぐさを見て、微笑ましさのあまり海は笑いたくなった。
ほんの少し頬をゆるませ、海は静かに語りだした。
「生まれてから今に至るまで、俺は好きという感情を味わったことがない。初恋もまだだし、憧れもない。それは玲に対してもそうだ」
別れの言葉にも聞こえる内容を、なんの抵抗もなくいい放った。玲はそのことはすでに解ってたことなのに、胸が痛くなるのを感じた。
体がふるえ、一粒だけ涙が出た。
空はまだ青かった。
それはどこまでも透明に近い色で、ただ雲だけが白く漂っていた。
「俺は物心ついたときから笑ったことがない。笑う感情が欠落しているのだろうと、疑いもしなかった。目の前にあるのはただ理論であり、事実であり、何も意外なことはなく、悲しむことも嬉しいこともなかった」
その海が一度だけ笑った。
たわいもないことだが、ある日の夕方のこと。珍しく外を歩いていた海を、玲が偶然見つけた。
「海くぅーん!」と叫びながら玲はつっこむように走ってきて、そして、何もないところでつまずき、海の目の前でおもいっきり転けた。
あまりのことに数秒絶句した後、海は吹き出して笑った。
こんな単純なことに何を笑っているんだ、と思ったのは海の方だったが、笑いは止まらなかった。
玲は鼻の頭に擦り傷を作りながら、不思議そうに海を見あげたのだった。
海は言葉を続けた。
「俺の笑い顔を見たことがあるのは、一人しかいない」
少し微笑んだ海は、涙をためた玲の瞳を見つめた。
「大事に思っている」
誰も見ていない屋上で、ようやく緊張の解けた玲は涙をこぼし、海は微笑みながら大事そうに、玲を抱きしめた。
帰り道に通る神社は、いつものように静かにただずんでいた。人はなく、鳥の高い鳴き声と、葉の擦れあう音が流れてゆくだけだった。
幾度となく歩いた境内の砂利道を、両手にビニール袋を抱えた二人がならび歩く。二人の間に張り巡らされていた緊張の糸はだいぶ切れたものの、交わす言葉はなかった。
何をいったらいいのか解らない。
相手の気持ちを推し量りかねて、胸に思いばかりを蓄えていく。ほんの些細な思いも、降り積もる雪のように厚さを増し、胸が痛くなるのを感じていた。
ざざっ ざっ ざざっ
強い大きな足音が悟のもので、軽い音は水香のもの。
髪が流れる音は水香のもの。
大きな存在感は悟のもの。
いつも当然のようにあったものが、今は強く感じられる。
本堂の横を通り過ぎるとき、急に水香は方向を変え、手にもっていた袋を置いたかと思うと、両手をあわせて祈りだした。
何を祈っているのかは解らない。
解らなくてもいいのかも知れない。
ただ両足と背筋を綺麗にのばした小さな後ろ姿を見て、悟は遠くなっていくような錯覚を憶えた。
いや事実、水香はもうすぐ家を出る。
二人の心の距離と、実際の距離が広まれば、もう二度ともとには戻れないことは容易に理解できた。
後悔が残る。
心が重くなっていくのを感じる。
しかし、悟はふと、何に対して後悔が残っているのか、よく解っていないことに気づいた。
何を後悔しているのか。
好きになったことを?
それとも唇が触れたことを?
そうかも知れないし、そうじゃないかも知れない。
その時、なぜか海の言葉を思い出し、そしてふと周りが明るくなるのを感じた。
「精いっぱいやれよ」
水香が振り返り、二人は目を合わせた。
少し緊張した水香の表情を見て、何かをいおうとしているのが解った。
その前に、悟は言った。
「好きだ」
低く、落ちついた声で一言。
ほかに言う言葉はなかった。
夕方を知らせるカラスが、かぁ……かぁ……と二人の上を横切っていく。
神の前に、たった二人たたずむ。
悟を見上げる水香の瞳から、大きな涙がこぼれ落ちていった。
表情は変わらない。
目を開けたまま、涙が頬を伝い土にしみこむ。
「こんなに男っぽいぞ」
悟は首を横に振った。
「そこがいい」
「お前の友達にもいい顔できないぞ」
「かまわない」
「遊びも何も知らないし」
「水香からいろいろ教えてもらった」
水香の涙は止まらず、大きく息を吸い込んで言った。
「家族には戻れないかも知れないぞ!」
「結婚すればいい。そうすれば、また家族になれる」
水香は悟に抱きついた。
「オレの泣き顔を知ってるのは、お前だけなんだからな」
表情を変えることなく過ごしてきた、海は笑顔を見せる人をみつけ、水香は泣き顔を見せる人をみつけた。
悟が身をかがめる。
二人は瞳を閉じ、キスをした。
五年たった春の日。
水香は桜を見ていた。
桜は枝を精いっぱいに伸ばし、数十年のときを経た風格をしっかりと備えていた。
茶の節がかった枝は少しばかり垂れ下がり、大きな唐傘のように水香をおおう。
そして桜はその身に、かぎりなく白にちかい紅色の花びらを幾千万とつけている。
水香が細い指をついっとのばすと、その腕にそって花びらは流れ落ちた。
空を見上げる。
天高い空には月があり、その身から白い光が落とし、水香の薄く赤くぬった唇が照らし浮かび上がらせた。
水香は二十三になっていた。
長い裾の青いスカートを自然に着こなし、髪は流れるほどにのびた。
そして、
「水香姉さぁーん」
玲の変わらず元気な声が響く。
腕には生まれたての水香と悟の子供が抱かれていた。
小さな生まれたての赤ちゃん。
そして、その横には落ちついた雰囲気の悟と、さらに体格の良くなった海が。
水香は笑顔のままで走った。
家族のもとへ、と。