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もう殿下の悪夢は引き受けません ~「眠らせるだけの女」と婚約破棄された宮廷夢守り、眠れない辺境公に傷ごと大切にされています~  作者: さくらろ
第1章「夜を返す」

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第27話 母の最後の夢

「公家の記憶を、代価に」


 鐘守人は、三度目も同じ言葉を繰り返した。


 廃鐘楼の前室には夕方の青い光が残っている。開いた石扉の前にリディア・フェンとユリアンが立ち、少し後ろ、白墨で引いた退避線の内側にはミナと北辺兵二人がいた。


 吹雪を越えてここまで来た。扉を開けたのも、一人を差し出す答えではなく、五人の署名だった。


 それなのに次の条件が「記憶」では、意味を確かめずに進むわけにはいかない。


 左腕の古い夜傷が、布の下でじわりと熱を持っていた。


「私のものを使え」


 ユリアンが家紋指輪へ指をかける。


「家の責任なら、当主が払う」


「待ってください」


 リディアは、外されかけた指輪ごと彼の手を押し戻した。


「払うものが分かってからです」


「大切な記憶なら、なおさら私が――」


「何を失うのかも分からないのに、大切かどうかは決められません」


 言葉だけは、妙にきれいに出た。こういうときの自分は、たいてい動きまで速くなる。


 だから一度、指を離した。


 母の声を聞けるかもしれない。


 その一事だけで、知らない代価を安く見積もりたくはなかった。


「鐘守人。記憶は奪うのですか。写すのですか」


 石の顔が動く。


「責を負いし記憶を、写す」


「範囲は」


「一つの選び」


「本人から消えますか」


「消えぬ」


「何に使いますか」


 今度は返事がなかった。


「先生、こっちです」


 退避線のそばで、ミナが石床へ膝をついていた。雪で濡れた刻文を布で拭き、指先で一文字ずつ追っている。


「『血だけを見ず、今の主を見分ける』。その次が……『人の前で選び、記されたもの』です」


 ユリアンが眉を寄せた。


「立会いのある選択か」


「たぶんです。でも、たぶんで記憶は出さない方がいいです」


 ミナは顔を上げた。


「わたし、先生にそう教わりました」


 リディアは少しだけ息を吐いた。


「ええ。その通りです」


 鐘守人の胸に、細い文字が浮かぶ。


 責任記憶。


 血筋だけではなく、今の当主が自分の意思で行い、他人の記録にも残った選択を写して照合するものらしい。


 ユリアンはしばらく黙ってから、荷袋の中の文書束を一枚抜いた。


 旧塔を開き、自家に不利な資料も選ばず町議会へ渡した日の公開書だった。下にはユリアン、議長、記録係の三つの署名がある。


「これならどうだ」


「なくなって困る思い出ではなく、なくならない選択ですね」


「言い方が厳しいな」


「今、優しくするところでしょうか」


「いや。助かる」


 彼は指輪を外さなかった。


 三人で、写すのはその一日の選択だけだと紙へ書き足す。鐘守人の手が公開書へ触れると、文字が薄い銀色になって石の胸へ移った。


 ユリアンは目を閉じ、すぐに開いた。


「覚えている」


「町議会で何を言われました?」


「『公爵家に不利な頁まで本当に出すのか』と三回聞かれた」


「十分ですね」


 奥の夢晶石に、初めて灯りが入った。


 人の背丈ほどある結晶の中で、銀の糸が一本ずつほどけていく。


 ミナが小さく言った。


「残夢片です。ここにいるエレナさん本人じゃなくて、保存されたときの見たものと声が流れるだけ」


 問いかけても、新しい答えは返ってこない。


 分かっている。


 それでも、リディアの足は一歩だけ前へ出た。



 次に目を開けたとき、天井いっぱいに黒い管が走っていた。


 王宮地下の夜機室。


 リディアはそこに立っているのに、靴音ひとつ立てられなかった。手も届かない。ただ、保存された夜をエレナのすぐ近くから見ている。


 中央には十二の椅子が輪になり、その背後に十二個の小さな鐘が吊られていた。


 十一の鐘が鳴る。


 一つだけ、鳴らない。


「第三席、戻りました!」


「第七席も負荷低下!」


 研究員の声が飛ぶ。


 輪の中心で、エレナが両手を夢糸の束へ入れていた。頬は青白い。けれど指は止まっていない。


「一人へ集める必要はない。十二へ戻せる」


 その声を聞いた瞬間、胸の奥が縮んだ。


 母の声だった。


 覚えている声より少し若い。


 音声回路から、別の男の声が落ちる。


「結界出力が落ちています」


 穏やかだった。


 グレイヴ局長――オスカーの声だと、リディアには分かった。


「停止試験を中止しなさい。一人の夜で万人の朝を買えるなら、今はそれを使うべきです」


「今だけで済まなくなるから止めるのです」


 エレナは振り返らなかった。


「十二人で交代できる装置を、一人でなければ動かない装置に変えてはいけない」


 別の男が、壁際の封印盤へ手を置いていた。北辺公家の銀糸紋。


 先代公だ。


「エレナ、拍を移す。鐘へ」


「お願いします」


 十一の鐘がもう一度鳴る。


 鳴らない一つの前で、エレナが銀糸を結んだ。


 音のない一拍だけが、妙にはっきり見えた。


 停止拍。


 夜機の流れを一拍だけ止め、その間に負荷を十二人の輪へ返すための合図を、彼女は欠けた鐘音へ縫い込んでいた。


「研究員は下がって」


 エレナが言う。


「ここから先は、退避回路を開いたまま行います。誰も残らないで」


 人が出口へ走る。


 先代公の手元から銀の光が伸び、停止拍が北辺公家の封印へ移っていく。


 その途中だった。


 赤い文字が壁一面に走った。


 撤退回路、閉鎖。


「誰が――」


 先代公が振り向く。


 音声回路の向こうで、オスカーの声だけが変わらない。


「国境結界を維持します。中核を固定」


 十二へ広がりかけていた黒い糸が、いっせいにエレナへ戻った。


 リディアの左腕が焼けたように痛んだ。


 記録の外にいるはずなのに、夜傷が母の負荷を追いかけている。


「お母様」


 呼んでも、エレナは振り向かない。


 これは母本人ではない。


 その事実が、今だけはひどく残酷だった。


 エレナは膝をつきながら、最後の銀糸を先代公の封印へ押し込んだ。


「壊しては駄目です」


 息を切らし、それでも言う。


「結界まで落ちる。止めるなら、一拍。そこから十二へ戻して」


 母は夜機を壊せなかったのではない。


 壊さなかった。


 守るべきものまで巻き込まないために、別の止め方を外へ逃がした。


 そして、自分が逃げる道だけは閉じられていた。



 黒い夜機室の壁がほどけた。


 代わりに、小さな寝台が現れる。


 見覚えのある木の柵。枕元に縫いつけられた、白い小鳥。


 幼い頃の自分の部屋だった。


 エレナが寝台の脇に座っている。


 顔色は悪い。手の甲には黒い線が何本も走っていた。


 リディアは考えるより先に近づいた。


 一歩。


 エレナの指へ触れられそうになる。


 その瞬間、母の腕から伸びた黒い糸が、リディアの夜傷へ向きを変えた。


 熱が肘まで走る。


「リディア」


 遠くからユリアンの声がした。


「中止条件だ。三息、離れる。続けるかは、その後にあなたが決める」


「一つ」


 ミナの声が重なる。


 母は目の前にいる。


 けれど、ここで触れれば何が起こるのか分からない。


「二つ」


 昔の自分なら、耐えられる方を選んだ。


 母の痛みなら、なおさら自分が持てばいいと思ったかもしれない。


「三つ」


 リディアは伸ばした手を引いた。


 夜傷へ絡みつこうとした黒い糸を、銀糸で横から断つ。


「お母様の続きをするためではなく、終わらせるために見ています」


 切れた糸が床へ落ちる前に、鐘が鳴った。


 一音。


 少し遅れて、別の場所からもう一音。


 エレナの声も、一度には届かなかった。


「私の――」


 余韻がほどける。


「続きを――」


 次の音は、リディアの右からではなく、遠い現実側から聞こえた。


「『一人でしないで』です、先生!」


 ミナだった。


 ユリアンの声が続く。


「こちらには、『一人で』まで届いた」


 エレナは寝台の幼い娘を見ている。


 名前を呼ばない。


 代わりに、細い銀糸を三つ、四つと別々の方向へ放した。


「夜を――」


 最後の一語は、またミナが先に拾った。


「持たないで」


 三人の聞いた言葉を重ねる。


 私の続きを一人でしないで。


 一人で夜を持たないで。


 リディアは、母へ触れなかった手を胸元へ戻した。


 泣くより先に、息を吐いた。


 ずっと、母が残した仕事を終えることが、母に近づくことだと思っていた。


 違った。


 少なくとも、この記録の母は、娘を自分の続きにはしていない。


 未完の仕事ではなく、やり方を残していた。


 一人にしないやり方を。


 夢の寝室が白く薄れていく。


 最後まで、エレナは娘の真名を呼ばなかった。



 廃鐘楼へ戻ると、膝の震えだけが残っていた。


 リディアは石床へ手をつく前に、ユリアンが差し出した腕を見た。


「触れてもいいか」


「……はい」


 支えられて立ち直る。


 ミナはすでに三枚の記録を並べていた。自分が聞いた語、ユリアンが聞いた語、リディアが聞いた語。重なるところに丸がついている。


「先生、全部一人で聞けてないです」


「ええ」


「なのに、三人だと全部あります」


「ええ」


 二度目の返事は、少しだけ声が掠れた。


 左腕の夜傷には、奇妙な感覚が残っている。


 痛みではない。


 拍動の中に、一拍だけ何もないところがある。


 停止拍と同じ間だった。


 鐘守人がゆっくりと壁へ向いた。


「外縁記録を、再生する」


「外縁?」


「残夢の後。家紋に残りし声」


 壁が暗くなり、二人の男の声が浮かんだ。


「共同設計者が今さら被害者を名乗るのか」


 オスカーだ。


 返した声は、先ほど夜機室で聞いた先代公のものだった。


「十二人で交代する装置へ署名した。人を使い切る改変には署名していない」


「署名した者が、結果だけ選べると?」


「選べない。だから止める。私の署名も、輸送記録も、全部出す」


 紙を机へ置く音がした。


「停止命令書だ」


 そこで音声が乱れた。


 映し出された紙の受領欄だけが、黒く焼けている。


 受け取りを拒まれたのか。


 誰かが後から消したのか。


 この記録だけでは分からない。


 ユリアンは祖父を庇う言葉を口にしなかった。


 リディアも、オスカーだけを犯人と決める言葉を飲み込んだ。


「次を開きますか」


 ミナが尋ねる。


 鐘守人の壁に、次の記録日が浮かぶ。


 ユリアンの顔から、わずかに血の気が引いた。


「祖父の死亡日だ」


 黒く焼けた受領欄の下で、その日付だけが白く残っていた。

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