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もう殿下の悪夢は引き受けません ~「眠らせるだけの女」と婚約破棄された宮廷夢守り、眠れない辺境公に傷ごと大切にされています~  作者: さくらろ
第1章「夜を返す」

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第26話 廃鐘楼への道

 行程表の「判断者」欄には、ユリアン・ノルドの名しかなかった。


 北辺城の門内。夜明け直後の空は灰色で、雪はまだ細かい。廃鐘楼へ向かう五人の外套には、出発前から白い粒が張りついていた。


 ユリアンは門の外、懐中時計、最後にリディアの左袖を見た。昨日、リディアの母エレナが、夜機の停止試験で一人に負荷を固定されて死んだと分かった。その調査を終えた直後から、布の下の夜傷は夜機の拍動と同じ間隔で熱を返している。


 廃鐘楼は、その反応が地図の上で示した場所だった。停止鍵は自分の予知夢を守る封印へ移されたらしい。ならば、現実側から確かめられる手掛かりを先に拾う。


 そのための行程表を、ユリアンは夜のうちに作っていた。


「最短路は西の尾根です。兵を前後に一名ずつ。異常があれば私の判断で引き返す」


 説明を終えると、リディアは紙を受け取った。


 読み始めてすぐ、彼女の指が一つの欄で止まる。


「この『判断者』は、すべてユリアンですか」


「進路も護衛も私の責任です」


「私の夜傷の変化も?」


 返事が一拍遅れた。


 それは読めない。彼女が申告しなければ、熱も痛みも分からない。


 リディアは空いていた余白へ線を引いた。


「進路と予知はユリアン。夢糸と身体の変化は私。記録と中止確認はミナ。退路標と撤収補助はお二人にお願いします」


 兵たちが顔を見合わせた。


「危険判断まで分けるのですか」


「分けます。私の傷をあなたが読めないのと同じで、私には雪道も公家の古い道標も読めません」


 言い切ってから、リディアはもう一行を足した。


「それから、中止は全員が宣言できます」


 ユリアンの喉まで、反論が上がった。


 吹雪の中で判断が割れれば遅れる。責任者が一人なら早い。領主としてなら、そう書く方が自然だった。


 だが、その早さの先に何があるかを、彼はもう知っている。


 ミナが小さな札を受け取り、自分の外套の一番上の留め具へ結んだ。


「中止札、ここでいいですか。袖の中だと、立派な規則でも見えません」


「見える方がいい」


 ユリアンは自分の欄へ署名した。


 残り四人の名が並んだところで、門番が外から駆け込んできた。


「公爵閣下。吹雪が早まっています。帰路に使える時間は、見込みより二刻ほど短いかと」


 紙の下端に、四刻後の撤収時刻が書き足された。


 今度はユリアン一人の字ではなかった。



 昼前には、道の色がなくなっていた。


 白い斜面と低い空の境目さえ曖昧で、後方の兵が立てた退路標だけが辛うじて列を作っている。


 ユリアンは先頭で足を止めた。


 左右に一本ずつ、雪を被った枯木が立っている。


 見覚えがあった。


 夢の中では、その二本の間で黒い鐘が鳴る。


 右へ視線を向けた瞬間、景色が一度だけ暗転した。


 鐘楼の石段。倒れているリディア。雪の上へ伸びる銀色の糸。


 左を見る。


 今度は自分の左手に鐘縄が巻きつき、指が動かなくなる。遠くで誰かが名前を呼んでいるのに、声が届かない。


「右へ――」


 命令が口を出かけた。


 ユリアンは噛み止めた。


 右が安全なのではない。左が危険なのでもない。


 自分は今、二つの危険を見て、片方だけを他人に渡そうとしていた。


「止まってくれ。予知を見た」


 全員が足を止める。


 リディアは続きを急かさなかった。


「右では、あなたが鐘楼前で倒れる。左では、私が鐘縄に拘束される。右の像が先、その後に左。鐘は三度だった」


 懐中時計を開く。


 秒針が、ほんの一拍だけ止まった。


 ユリアンは時刻を読み上げ、ミナが地図の端へ書き込んだ。


「見えた道は、その二つだけですか」


「二つだけだ。だが、二つしかないとは言えない」


 言葉にすると、少しだけ呼吸が戻った。


 リディアは右へ身体を向け、次に左へ向けた。左腕を庇うような動きはない。ただ、布の上から指先で熱の位置を確かめる。


 それから、二本の枯木の間へ正面を向いた。


「こちらです」


「道はない」


「傷が一番強く反応しています。左右ではなく、中央に」


 ミナが地図へ顔を近づけた。


「先生。これ、三本じゃないですか」


 余白に描かれた古い印は、雪でかすれた三本の縄に見えた。


 ユリアンの記憶にも、同じ形が引っかかった。


「鐘守路だ」


 先代の頃まで使われた冬の避難路。雪で道が消えた時、地面に埋めた鐘縄石を順に探して進む。公爵家の古い家紋と鐘の印を道標にした道だ。


「では、私は銀糸を読みます」


 リディアが顔を上げた。


「あなたは死ぬ道ではなく、戻れる道を数えてください」


 兵が中央の雪を掘った。


 ほどなく、石の角が出る。


 雪を払うと、欠けた鐘の印が現れた。


 夢の中にはなかった道だった。


 中央路は人一人がやっと通れる幅しかなく、雪庇の下を抜けていた。全員が渡り終えた直後、後方で雪が小さく崩れ、来た道の一部を埋める。


「帰りは使えませんね」


 ミナの声から冗談が消えた。


「ああ。鐘楼側で別の退路を見つける」


 ユリアンはそう答えた。


 それは命令ではなく、自分の担当だった。



 午後、廃鐘楼は吹雪の向こうから急に姿を現した。


 屋根の半分を失った石塔だった。鐘は見えない。塔の手前に低い石が二つ並び、片方には北辺公家の紋章の半分、もう片方には銀糸を束ねたような印の半分が刻まれている。


 岩陰で一度休止を取る。


 ユリアンは人数を数え、退路標を確かめ、それからリディアを見た。


「夜傷は」


「熱は上がっています。歩行はできます。次の確認までは進みます」


 いつもの「問題ありません」ではなかった。


 それだけで、少し安心する。


 石へ近づくと、ユリアンの指輪が冷えた。


 同時に、リディアが左腕を押さえる。


 二つの石の間には、薄い黒ずみが走っていた。一方へ触れ続ければ、その黒ずみが片側へ寄る。


「同時には触れない方がよさそうです」


 リディアが白墨を出した。


「私が銀糸の流れを見ます。ユリアンは家の印を」


 ユリアンは指輪を抜きかけた。


「これを使うなら、預ける」


 リディアは首を振った。


「あなたが持って、あなたが読んでください」


 短い返事だった。


 指輪まで彼女へ渡してしまえば、自分はまた「守るだけ」の位置へ戻る。そう気づくまで、少し時間がかかった。


「分かった」


 ミナが三息を数える。


 最初にユリアンが家紋へ指輪を近づけ、離す。次にリディアが銀糸側へ白墨を当てる。二度、三度と交互に繰り返すたび、黒ずみは一方へ偏らず二つの石の間へ細く集まった。


 やがて雪の下へ、矢印が浮いた。


 塔の正面ではなく、石扉の脇へ続く退路の印だった。


「帰り道を先に見せる封印か」


「少なくとも、入ることだけを求めてはいません」


 その時だった。


 石扉の中央に刻まれた北辺公家の家紋が、黒く光った。


 冷たい光が雪へ落ちる。


 入口脇にうずくまっていた石像が、ゆっくり顔を上げた。


 もう、気づかれずに引き返すことはできない。



 夕刻。


 ミナと兵二人を白墨の退避線へ残し、ユリアンとリディアは石扉の前に立った。


 塔の内側から、鐘が一度だけ鳴った。


 石像の目に、銀色の線が灯る。


「誰が夜を持つ」


 低い声だった。


 問いは一人を求めていた。


 胸の奥から、答えが反射で上がる。


 北辺公家の封印なら、自分が引き受ける。家の責任なら、自分が払う。


「私が――」


 そこで止めた。


 リディアは何も言わず、待っている。


 ユリアンは外套の内側から、朝に五人で署名した行程表を出した。


「進路と予知は、私が持つ」


 一行目を読む。


「夢糸と身体の変化は、リディアが自分で申告する」


 リディアが続けた。


「記録と中止確認はミナ。退路標と撤収補助は兵のお二人です。中止は誰でも宣言できます」


 石像の目が細くなる。


「誰が夜を持つ」


 同じ問いが返る。


 ユリアンは紙を畳まなかった。


「一人では持たない」


「持てないからではありません」


 リディアの声は穏やかだった。


「一人に持たせないために、分けます」


 白墨線の内側から、ミナが中止札を掲げる。


 ユリアンは連名の札を家紋へ当てた。


 黒い霜が指先へ伸びる。


 一人分の手形になる直前、霜は五本の細い線へ割れた。それぞれが署名の位置へ走り、そこで止まる。


 石像が初めて瞬きをした。


「では、持たぬために分けよ」


 重い音を立て、石扉が内側へ開く。


 冷えた空気の奥に、暗い鐘楼の階段が見えた。


 ユリアンの指輪に刻まれた家紋が、扉の内側の印と細い光でつながる。


 石像――鐘守人は、その光を確かめるように見下ろした。


「エレナの最後の夢を求めるか」


 リディアの呼吸が止まる気配がした。


「求めます」


 彼女は答えた。


 鐘守人の視線が、今度はユリアンへ向く。


「ならば、公家の記憶を代価にせよ」


 雪の音だけが、開いた扉の外で鳴っていた。


 何を失うのか。


 どこまで失うのか。


 ユリアンの口には、家の責任なら自分が、と言うための言葉がまだ残っていた。


 だが今度は、すぐには答えなかった。

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