第1話 今夜から、眠りはご自分で
王宮大広間の燭台が、磨かれた床へ白い光を落としていた。王太子アルベルト・ルーゼンは壇上、その隣には聖夢聖女セラフィナ・ベル。婚約者のリディア・フェンは、一段下に立っていた。
眠い、とリディアは思った。けれど、それは今夜の予定を変える理由にはならない。
昨夜もアルベルトの悪夢を引き受け、空が白み始めてから自室へ戻った。自分がそのあと何を夢に見たのかは覚えていない。思い返せば、もう長いこと、自分の夢というものを持ち帰った記憶がなかった。
その代わり、アルベルトの目の下には影がない。頬の色もよく、長い夜会の最中だというのに呼吸まで穏やかだった。
よく眠れた人の顔だ。
リディアは無意識に左腕へ右手を重ねた。礼装の袖の下には、昨夜増えた細い夜傷が一本ある。触れれば少し熱いが、問題はない。今夜も同じ手順を終えればいい。
胸元には銀の夢鍵が下がっていた。特定の相手の夢へ入る許可を示す、宮廷夢守りの仕事道具だ。婚約者の宝飾品にしては冷たく、仕事道具にしてはよく磨かれている。
「皆に、伝えておきたいことがある」
アルベルトの声で、楽団の音が止んだ。
誕生日を祝うために集まった貴族たちが、一斉に壇上を見る。リディアも顔を上げた。アルベルトは杯ではなく、隣のセラフィナへ手を差し伸べていた。
セラフィナは一拍遅れて、その手を取った。もう片方の手では、祝辞の紙が少しだけ潰れている。
「私は長く、自分を支えてくれていたものを見誤っていた」
広間の空気が変わった。
リディアは、アルベルトの目元からセラフィナの指へ視線を移した。予定されていた祝辞なら、あれほど紙を握り直す必要はない。
「私が夜ごと安らかに眠り、王太子として立っていられるのは、セラフィナが私の苦しみを理解してくれたからだ。彼女こそ、私の真実の支えだった」
どこかで、小さな息を呑む音がした。
リディアは胸元の鍵を指で押さえた。今夜の呼び出しは夜会のあと。いつもなら、それまでに少し水を飲み、眠気を散らす薬を半量だけ使う。明朝には別の予定もあったはずだ。
「ゆえに、リディアとの婚約を解消する」
その予定だけが、音もなく消えた。
胸の奥に痛みはあった。十年以上、将来の隣にいるものとして扱ってきた名前を、公衆の前で外されたのだから、痛まない方がおかしい。
けれど広間は、その痛みを待っているように静かだった。
泣くのか。縋るのか。セラフィナを責めるのか。
そんな視線が、言葉より先に分かった。
「リディア」
アルベルトは、なだめるように名を呼んだ。
「君がしてきたことを否定するつもりはない。だが、決められた手順で私を眠らせるだけでは、伴侶とは呼べない。私の苦しみに寄り添ってくれたのはセラフィナだった」
セラフィナの顔から、わずかに血の気が引いた。
「殿下、私は……」
彼女はそこまで言って、広間に集まった視線を受けると口を閉じた。潰れた祝辞の紙だけが、さらに細く折れていく。
リディアはアルベルトを見た。
知らないのだ。
昨夜、彼が何度悪夢の中で息を詰まらせたか。何度、黒い影をこちらへ引き受けたか。夜明け前に彼の呼吸が落ち着くまで、誰が夢の中にいたのか。
十年分を、知らない。
そして今、彼は十分に眠れた顔で、それをセラフィナのものだと言っている。
リディアの指先から、胸元の鍵の冷たさだけが伝わってきた。
「確認させてください、アルベルト殿下」
自分の声が、思ったよりきれいに出た。
「婚約解消は、本日付でよろしいのですね」
アルベルトが眉を寄せた。泣き声の代わりに日付を尋ねられるとは思っていなかったらしい。
「ああ。今夜をもって正式に解消する」
「承知いたしました」
広間のどこかが、またざわめいた。
「それだけか?」
「必要な確認でしたので」
「……君なら、王国のために受け入れてくれると思っていた」
受け入れる。
その言葉は、リディアにとってずっと、耐えることとほとんど同じ意味だった。
頼まれれば引き受ける。ほかの夢守りが倒れそうなら自分が入る。明朝に予定があっても、アルベルトが眠れなければ夜を渡す。自分なら耐えられるから、その方が早い。
今夜も、そうするつもりだった。
婚約者ではなくなったあとも。
そこまで考えて、リディアは初めて妙だと思った。
婚約は今夜で終わる。それなのに、自分は数刻後には何事もなかったように彼の夢へ入るつもりでいる。
捨てられたことと、働き続けることが、なぜ当然のように同じ夜へ並んでいるのだろう。
リディアは夢鍵の留め具へ指をかけた。
細い金具がいつもより一度だけ引っかかった。眠気のせいか、指が少し震えていた。それでも二度目には外れた。
壇前の卓へ歩み寄る。
「何をしている、リディア」
返事の代わりに、銀の鍵を卓上へ置いた。
かちり、と小さな音がした。
「婚約解消を受諾いたします」
リディアは一度、息を吸った。
「それとは別に、今夜予定されていた夜間奉仕も終了いたします」
「待て。それは話が違う」
アルベルトの声が低くなる。
「婚約と君の夢守りとしての役目は別だ。私情で公務を投げ出すつもりか」
「はい。別です」
だからこそ、混ぜない。
「婚約は婚約として、ただいま受諾いたしました。夜間奉仕は夜間奉仕として、今夜から引き受けません。正式な辞職手続きは明朝行います」
言い終えると、腕の夜傷が遅れて熱を持った。
今夜だけなら耐えられる、といつもの考えが頭の隅で囁いた。
今夜だけ。最後だから。誰かが困るかもしれないから。
それを十年続けた結果が、いま目の前にある。
「私を困らせれば、婚約を考え直すとでも思っているのか」
「いいえ」
答えはすぐに出た。
「考え直していただく必要はございません」
アルベルトから返事はない。
リディアは卓上の夢鍵を見た。手元から離れたそれは、急にただの銀の鍵に見えた。
「今夜から、殿下の悪夢は殿下ご自身でお願いいたします」
広間のざわめきが、今度ははっきり大きくなった。
「悪夢?」
「夜間奉仕とは、いったい……」
誰かの囁きが聞こえたが、リディアは説明しなかった。ここで十年分を並べれば、まるで理解してもらうことが条件のようになる。
もう条件ではない。
「リディア様」
セラフィナが小さく呼んだ。
リディアは彼女へ顔を向けた。セラフィナは何か言おうとしている。けれど、今夜ここで答えを求める気にはなれなかった。
「セラフィナ様。お祝いの席を止めてしまい、失礼いたしました」
「いえ、私は――」
「必要なことは、明日から書面で整理いたします」
自分でも驚くほど事務的な言葉だった。けれど、それ以外の言葉を選べば、今はきっと余計なものまで溢れる。
リディアはアルベルトへ一礼した。
「ほかに、今夜中に私が確認すべきことはございますか」
「……ない」
返事を待ってから、背を向けた。
◇
大広間を出ると、回廊の空気は少し冷たかった。扉が閉じても、夜会のざわめきは厚い壁の向こうから追いかけてくる。
リディアは婚約者用宿舎へ向かった。今夜までは、そこに自分の荷物がある。明朝、宮廷夢守局へ辞職を出すなら、返却する物もまとめておかなければならない。
「リディア様、お待ちください」
後ろから侍従が追いついてきた。
「殿下も、今はお心が高ぶっておられます。今夜だけは、いつもどおりになさった方がよろしいのでは」
いつもどおり。
それは便利な言葉だった。何をどれだけ続けるのかを説明しなくても、昨日と同じことを今日もさせられる。
「ご心配ありがとうございます」
疲れているときほど、敬語だけは整う。
「今後のご依頼は、書面でお願いいたします」
「ですが、もし殿下がお眠りになれなければ――」
足が一瞬だけ止まりかけた。
眠れなければ。
その続きを、リディアの身体はよく知っている。呼ばれれば鍵に手を伸ばし、袖をまくる。悪夢へ入り、朝になれば「問題ありません」と言う。
「明朝、正式に手続きをいたします」
それだけ答えて、歩き出した。
宿舎の部屋へ戻ると、侍女を呼ばずに手袋を外した。胸元へ手を伸ばし、指が何も掴まないところで止まる。
夢鍵はもうない。
小さな重みが消えただけなのに、そこだけ夜気が触れるように冷たかった。
机の上には、明日の予定を書き込むための白い紙が残っていた。今夜の奉仕が終われば、朝一番で局へ向かう。その予定だけは、まだ自分で決められる。
遠くで時を告げる鐘が鳴った。
いつもなら、そろそろ夢鍵が小さく応える頃だった。
何も鳴らない。
リディアはしばらく、静かな胸元を見下ろしていた。
アルベルトは、今夜も眠れるだろうか。
問いが浮かぶと、身体の方が先に答えた。見に行くべきだ。念のために。最後の一晩だけ。
リディアは机の端を掴んだ。
最後の一晩を、十年続けてきた。
ゆっくり手を離す。
呼び出しはない。鍵もない。今夜は誰の悪夢にも入らない――そう決めた。
それが怖いことなのか、嬉しいことなのか、まだ分からなかった。
ただ、誰にも決められていない夜が一つ、目の前に残っている。
リディアは椅子を引き、白い紙を自分の方へ寄せた。
ペン先を置く。
最初の一行に、「辞職願」と書いた。




