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クロムヘヴンの偽導者 ~救済を謳う導師と、北の都市に広がる教義の熱~ 全26話完結  作者: 甘栄堂
第四章:真実の顕現

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第二話:湯煙の中で

 夜の宿は静まり返っていた。客の気配も引き、食堂の片隅に残っているのは四人だけだ。卓の上には、これまでに拾った話を書き留めた紙が並んでいるが、誰もそれを手に取ろうとはしない。


 リオが視線を巡らせた。


「光輪の奇跡については……完全に先を行かれてる。正直、後追いもいいところだな」


 否定する者はいなかった。クララは紙の一枚を指で押さえ、そのまま動きを止める。


「街で聞けることは、だいたい出揃ってる。今さら増えはしないと思う」


 ルヴェリスは椅子に腰掛けたまま、卓の上を見つめて言った。


「もはや、こちらが調べる前に、道を塞がれている。これ以上刺激すれば、何が起きるか分からない段階です」


 伊織が低く応じる。


「つまり、ここに居続けても、前には進まないってことだな」


 沈黙が流れた。誰も反論しないが、次に何をすべきかを口にする者もいない。時間だけが過ぎていく。


 セリアが肘を卓につき、顎を乗せた。


「……この調査さ。ちゃんと進んでる?」


 三人の視線が集まる。


「それとも、もう手詰まり?」


 返事はなかった。セリアは一瞬だけ口を結び、顔を上げる。


「じゃあ……温泉行こう!」


 間の抜けた提案だったが、空気は確かに動いた。


「逃げるわけじゃないよ。やめるつもりもないでしょ? ただ、このまま同じ場所にいても、考えが固まるだけでしょ」


 リオが苦笑する。


「気分転換、ってやつか」


 クララは少し考え、頷いた。


「……悪くないと思う」


 ルヴェリスも間を置いてから口を開く。


「流れを変える、という意味では理に適っていますね」


 その言葉に、伊織が肩をすくめた。


「要するに、温泉行きたいだけなんじゃないの?」

「……否定はしませんけど」


 一拍置いて、視線を逸らす。


「伊織様が落ち着いてくれた方が、私も安心です」


 一瞬、間が空いた。セリアがゆっくりと瞬きをし、何も言わずにクララを見る。クララも同じようにセリアを見返し、小さく首を傾けた。どちらも口には出さないが、視線だけで十分だった。


「……はいはい」


 伊織は軽く笑い、立ち上がった。行き先と時間だけを決め、四人は席を立った。夜は、そのまま更けていった。 


 朝の食堂はまだ空いていて、窓際の卓にクララとセリア、リオが先に座っていた。料理は運ばれてきているが、三人とも手を付けず、階段の方へ視線を送っている。


「最近遅いね。前は先生たちの方が早かったに」


 クララが小声で言う。


「歳を取ると早起きになるって言うじゃない」


 セリアが肩をすくめた。


「それを本人に言うなよ」


 リオは苦笑し、杯を口元に運んだ。


「じゃあ伊織先生は……」


 クララが言いかけたところで、二階から足音がする。先に姿を見せたのは伊織だった。表情は明るく、歩みも軽い。


「お早う! 良い朝だ。いや、よく寝た!」


 ここのところ、妙に機嫌が良い。少し遅れて降りてきたルヴェリスは対照的だった。背筋は伸びているが、顔色は冴えず、目の下には疲れが残っている。席に着くと、一礼した。


「……お早うございます。遅くなって申し訳ありません」


 クララは一瞬だけ伊織を見てから、ルヴェリスに視線を戻す。


「大丈夫ですか? 何だか、すごくお疲れに見えます」


 ルヴェリスは一拍置いて頷いた。


「……少し、睡眠不足でして……」

「どうしたんですか? 何かありました?」


 セリアが視線を送る。


「いえ、別に……」


 それ以上は言わず、ルヴェリスは杯に手を伸ばした。伊織は気にした様子もなく椅子に深く腰を下ろし、迷いなく料理に手を付ける。パンを割り、杯を空ける動きにも勢いがあった。


 一方でルヴェリスは、少し間を置いてから食事を始める。口へ運ぶ量は控えめで、噛む動きも慎重だ。視線は卓に落ちたままで、伊織の賑やかな食べ方とは噛み合わない。セリアはその様子を一度見てから、リオの方へ身を寄せた。


「……リオの先生も、隅に置けないね」


 囁くような声だった。


「は? 何が?」


 リオが間の抜けた返事をする。クララは溜息にもならない息を吐き、肩をすくめた。


「これだから男は……」


 セリアは何も言わず、ただ一度だけ頷いた。それ以上、誰も踏み込まなかった。朝食を終えると、一行は揃って席を立ち、そのまま宿を出た。


 宿を出ると、朝の街はすでに賑わい始めていた。人の流れに合わせて歩き出した一行の中で、ルヴェリスは自然に伊織の隣に位置取っていた。誰かが促したわけでもない。それが最初から決まっていたかのように、距離は離れない。


 伊織は歩きながら、時折わずかに速度を落とす。ルヴェリスの歩調に合わせるためのものだった。以前からそうではあった。ただ今日は、特に気を遣っているように見えた。人混みの中で、進路が狭まる。伊織は前を見たまま、短く声を掛けた。


「ルヴェリス」


 それだけで十分だった。ルヴェリスは何も言わず、半歩だけ位置を変える。肩が触れそうな距離のまま、並んで進む。少し後ろを歩きながら、セリアは二人の距離に気づき、思わず口元を押さえた。ちらりとクララを見る。クララも同時に視線を上げ、何か言いたげに眉を動かした。


 言葉は交わさない。ただ一瞬、顔を見合わせただけで十分だった。セリアは肩をすくめ、楽しそうに息を殺す。クララも小さく頷き、何事もなかったふうを装って前を向く。リオは前を歩きながら、振り返った。


「道、こっちで合ってる?」


 セリアが即座に答える。


「うん、そのまま真っ直ぐ」


 言いながら、ちらりとクララを見る。クララも同時に視線を返し、何かを堪えるように口元を押さえた。


「……なに?」


 リオが不思議そうに首を傾ける。セリアは一瞬だけ間を置き、肩をすくめた。


「なんでもない」


 クララが小さく息を吐く。


「ほんと、男って鈍感」


 リオはますます分からない顔をしたまま前を向き、一行はそのまま進む。やがて通りの先に、温泉の建物が見えてきた。


 温泉の建物に入ると、脱衣所へ向かう客たちの動線が交差していた。伊織たちが中へ進むにつれ、何人かの女エルフが足を止める。


「……ねえ」


 年若い女エルフが伊織の前に立った。視線を上から下まで一度走らせ、口元に微かな笑みを浮かべる。


「人間よね? この街の人じゃないでしょう」

「まあ、旅の途中でな」


 伊織がそう答えると、女エルフは一歩だけ距離を詰めた。そして、何も言わずに片手を上げる。掌を水平にしたまま、軽く振る。伊織は一瞬、その意味を測りかねたように瞬いた。


「よかったら――」


 その仕草の途中で、空気が変わった。ルヴェリスが、女エルフへ視線を向けた。ただそれだけだ。声も動きもない。だが、その視線を受けた瞬間、女エルフの表情が硬直する。何かに気づいたように、女エルフは慌てて手を下ろす。隣にいた別のエルフが、小さく首を振る。二人は言葉を交わさず、すぐにルヴェリスから距離を取った。


「……尊き御方おんかた……失礼しました」


 それだけを残し、女エルフたちは足早に去っていく。


「なに、今の」


 クララが小声で言った。


「伊織先生、ずいぶんエルフの女性にモテません?」


 セリアは笑いを堪えながら、ルヴェリスの方を見る。


「しかも、ちゃんと牽制も入る、と」


 ルヴェリスは何事もなかったように視線を戻す。伊織は首を傾げたままだ。


「え? 今の、何かあったか?」


 リオは案内板を見上げながら言った。


「男湯、こっちだな」


 誰も説明しなかった。場はすでに落ち着き、他の客たちは何事もなかったかのように動き出している。やがて、男女で分かれる場所に差しかかる。ルヴェリスは一度だけ伊織を見たが、言葉は交わさなかった。そのまま、女湯の方へ向かう。セリアとクララが、その背中を見送る。伊織だけが、最後まで状況を理解していなかった。


 入口を抜け、それぞれ別の湯へ分かれる。湯に浸かる客たちは、声の大きさも話題もまちまちだった。誰かの様子をうかがうでもなく、思い思いに湯を楽しんでいる。湯に浸かると、身体の芯まで温かさが染みてくる。女湯は広く、湯気に視界が柔らかく滲んでいた。セリアは肩まで沈み、満足そうに息を吐く。


「はぁ……生き返る……」


 そのまま、何気なく隣を見る。


「ね、クララ」


 クララは湯の縁に腰を掛け、髪をまとめ直していた。濡れた肩口に、湯気が絡む。


「クララの体……すっごく綺麗!」


 思ったままを口にしただけだった。


「ちょ、ちょっと……何言ってるの」


 クララは慌てて肩まで湯に沈み、顔を赤らめる。


「そ、そういうの、やめてよ」

「いいじゃん。女同士だし」


 セリアは楽しそうに笑い、湯をぱしゃりと跳ねさせる。クララは困ったように視線を逸らした。少し間を置いて、セリアは声の調子を落とす。


「……ルヴェリス先生」


 ルヴェリスは、湯に静かに身を預けたまま視線を向けた。


「ファルクが、前にあたしに言ったことなんですけど。あれって……知らなきゃ出てこない言い方だったと思いません?」


 ルヴェリスはすぐには答えず、掌ですくった湯を肩に掛けてから言う。


「ええ。偶然とは考えにくいですね」

「ですよね。じゃあ……どうして分かったんでしょう」


 周囲の話し声に紛れるように、ルヴェリスは声を落とした。


「学院から、情報が漏れていた可能性が高いでしょう」


 セリアは眉をひそめる。


「……学院、ですか」

「断定はできません。ただ、その経路が最も自然だ、というだけです」


 それ以上は続けなかった。セリアも頷き、話を切る。


「……分かりました」


 湯の表面が、ゆっくりと揺れる。周囲では、家のことや商売の話が交わされている。クララは縁に背を預け、何気ない調子で隣の客に声を掛けた。


「最近、この街、騒がしいですね。光輪の奇跡、でしたっけ」

「ああ、あの教団?」


 相手は湯をかき混ぜながら頷く。


「急に名前を聞くようになりましたよね。前は、そんなでもなかったのに」


 別の女が会話に乗る。


「“マルテ”って呼ばれてる人でしょ?あれ、家名じゃないらしいよ。聖人の称号なんだって。昔からの血筋じゃないって話」


 そこまで言ったところで、別の声が続いた。


「貴族でも、学院の学者でもないって聞いた」

「灰の区画の出身らしい、って噂もあるよ」


 話はそこまでだった。湯音だけが残り、誰も続きを言おうとしない。クララは相槌だけを打ち、それ以上は踏み込まなかった。


 一方、男湯では、誰かが王政の愚痴を言い、別の者が領主の徴税を罵る。笑いが起き、すぐに別の話に流れる。誰も様子をうかがってはいない。伊織は肩まで湯に沈み、黙って聞いていた。リオは縁に腰を下ろし、しばらく雑談に相槌を打つ。ここなら、少し踏み込んでも不自然ではない。そう判断してから、話題を拾う。


「宗教の話も、最近よく出ますよね」


 近くにいた男が鼻で笑う。


「光輪の奇跡か。急に名前を聞くようになった」

「中でも、ファルクって人」


 リオは、続きを促す。


「……ああ。前は、ルメル・サークの信徒だった。そこでは聖人の称号を得てた、って話だ。それが、ある時期を境に姿を消した」


 男は湯をかき回す。


「次に聞いた時は、もう別の教団の頭だ。それが光輪の奇跡、だな」

「……自分で立ち上げたってことですか」

「そういう噂だ」


 別の男が続ける。


「マルテって呼ばれてるが、家名じゃない。称号だ」


 リオは頷く。


「家柄ではない、と」

「貴族でも、学院の学者でもない」


 そこまで言って、男は湯をかき回す。


「灰の区画の出だって話だ」


 リオは、その言葉に引っかかった。


「灰の区画……?」


 その単語に呼応するかのように、近くの男が低く呟いた。


「……あそこか」

「冗談だろ」


 別の男も反応した。詳しい説明は出ない。リオはそれ以上聞かなかった。だが、その沈黙だけで十分だった。


「そんな所から?」

「ああ。だから異様なんだ」


 話題は、そこで途切れた。しばらくして、別の男が何気ない調子で言う。


「前は、古い聖典ばかり漁ってたって聞いたがな」

「今さら、ってやつだ」


 誰かが言って、湯の向こうで短い笑いが起きた。


「聖人の称号まで持ってんだろ。そこから勉強し直すつもりか、って」

「それで今は、教団の頭だ」


 また笑いが漏れる。


「筋が通らねえ、って話だな」

「だから気味が悪い」


 それ以上、誰も続けなかった。話題は自然に別の世間話へ移る。伊織は黙ったまま湯に浸かり、リオも深追いはしない。やがて湯を上がる者が増え、二人も腰を上げた。


 湯から上がり、身なりを整えると、待合の長椅子に自然と集まった。湯気はまだ残っているが、頭は冴えている。誰からともなく話し始めることはなかった。先に口を開いたのはセリアだった。濡れた髪を肩に払う。


「女湯の方だけどさ。マルテって名前、家名じゃないって話が出てた。称号だって」


 クララが頷く。


「血筋じゃない、って言い方だったね。貴族でも学院の学者でもない、って」


 リオは短く息を吐いた。


「男湯でも似たような話が出ました。前は、ルメル・サークで聖人の称号を得てたらしい、って」


 ルヴェリスが思い出したように言った。


「ルメル・サーク……ああ、ここへ来たばかりの時に話を聞きに行った、在来宗派の……そして、それを捨てて、新しい教団を立ち上げた、と?」

「そういう噂です」


 リオは続ける。


「出自の話も出ました。灰の区画、だそうです」


 セリアがすぐに頷く。


「うん。それ、女湯でも名前だけ出てた」

「意味までは分からなかったけどね」


 クララがそう続ける。リオが少し考えてから言う。


「男湯では、その名前が出た途端、反応がありました。詳しい説明はなかったけど……あまり良い場所じゃなさそうな雰囲気でした」

「名前だけで、そんな空気になるんだ」


 セリアはそう言って、タオルを指先で折り返した。


「それと、古い聖典を漁っていた、と」


 リオの言葉に、伊織が小さく笑った。


「今さら、ってやつだな」


 ルヴェリスは黙って聞いていたが、やがて静かに言った。


「称号まで受けておきながら、教義も系譜も切り離している。過去の権威を捨て、あえて別の場所から組み直している……。権力闘争や内部対立か……もしかすると、教義の純粋化や改革を目指しているのかもしれません」


 伊織は椅子にもたれ、天井を見上げた。


「どれにせよ、ろくでもない匂いしかしないな」


 断片は揃い始めていた。

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