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神話の誕生と英雄の憂鬱

闘技場を揺るしていた、地鳴りのような大歓声。

それは、黒鉄の鉱山都市ダグダが、長きにわたる恐怖の支配から、解放されたことを告げる、産声のようだった。人々は、抱き合い、涙を流し、俺の名前を、救世主の名を、繰り返し叫んでいる。


その熱狂の中心で、俺、相川静は、ただ一人、世界から切り離されたかのような、深い孤独を感じていた。

俺が投げた、ただの石ころ。

それが、なぜ、あんな動きをしたのか。

なぜ、あの山の如き巨漢を、一撃で、沈黙させたのか。

何一つ、分からない。理解が、追いつかない。


俺は、自分の体が、自分のものではないような、奇妙な感覚に、囚われていた。


「……これが。これが、貴方様の、本当の御力……」

隣に立つ、勇者アレクサンダーが、震える声で、呟いた。彼の目は、俺を見ているようで、その実、俺を通して、何か、人知を超えた、世界の真理そのものを見ているようだった。


聖女セラフィーナは、ただ、胸の前で、固く手を組み、涙を流している。彼女の『絶対治癒』のスキルでも、この、魂が震えるような衝撃は、癒すことができないのだろう。

賢者レオナルドは、もはや、言葉すら、失っていた。彼の叡智のすべてをもってしても、今、目の前で起きた現象は、分析することも、理解することも、不可能だったからだ。


やがて、街の市長らしき、恰幅のいい男が、衛兵たちをかき分けて、俺たちの元へと、駆け寄ってきた。彼は、俺の目の前で、その場で、深く、深く、ひざまずいた。


「おお……! 救世主サイレントキラー様! このダグダの民を、長きにわたるゴライアスの圧政から、お救いくださり、誠に、誠に、ありがとうございます! この御恩は、街の歴史が続く限り、決して、忘れません!」


市長は、感極まったように、涙ながらに、語り続ける。

「つきましては、ささやかではございますが、街を挙げて、祝宴の席を、設けさせていただきました! どうか、我々からの、感謝の気持ちを、お受け取りください!」


(祝宴……? やめてくれ……)


俺にとって、大勢の人間が集まる場所は、戦場よりも、恐ろしい。

俺は、必死に、首を横に振った。

しかし、その動きは、市長の目には、全く違う意味で、映ったようだった。


「なんと……! 英雄的な御業を成し遂げられたというのに、その素振りすら、お見せにならない……。なんという、ご謙遜。なんという、慈悲深さ。ですが、どうか、我々の顔を、立ててくださいませ!」


市長の、必死の懇願。

そして、周囲の、期待に満ちた、無数の視線。

俺に、断るという、選択肢は、残されていなかった。



その日の夜。

ダグダの街は、何年ぶりかという、明るい光と、人々の笑顔に、包まれていた。

街の中央広場には、長いテーブルが並べられ、そこには、山の幸、海の幸が、これでもかというほど、並べられている。樽からは、エールが、惜しげもなく、注がれていた。


その、祝宴の中心。

一番、上座に、俺は、座らされていた。

俺の周りには、アレクサンダーたちが、まるで、護衛のように、座っている。


次から次へと、街の人々が、俺の元へ、挨拶にやってくる。

「救世主様! この一杯を、どうぞ!」

「我が家の娘が、貴方様のファンだと言っておりまして……。どうか、握手を!」


その度に、俺は、ただ、固まり、俯くだけ。

そして、その俺の、あまりにも、不器用な反応を、仲間たちが、必死に、フォローしてくれていた。


「申し訳ない! サイレントキラー様は、今、大いなる戦いを終え、精神を、深く、深く、瞑想の世界に、沈めておられるのだ。俗世の言葉は、届かぬかもしれん」

アレクサンダーが、そう言って、人々を、うまくいなしていく。


俺は、その、地獄のような時間の中で、ただ、ひたすらに、早く、この宴が終わることだけを、祈っていた。


宴も、たけなわになった頃。

俺は、限界だった。

これ以上、この場所にいれば、俺の精神は、本当に、崩壊してしまう。

俺は、誰にも、気づかれないように、そっと、席を立った。

そして、まるで、影のように、その場を、抜け出した。


俺が、向かったのは、宿屋の、自室だった。

いや、自室ではなく、屋根裏部屋だった。

少しでも、人目につかない、静かな場所が、欲しかったのだ。


屋根裏部屋の、小さな窓から、外を見る。

下では、まだ、祝宴の灯りが、煌々と、輝いている。人々の、楽しそうな笑い声が、風に乗って、聞こえてくる。

その光景が、俺には、どこか、遠い、別の世界の出来事のように、思えた。


俺は、この世界に、いるべき人間じゃない。

俺の居場所は、ここじゃない。

日本に、帰りたい。

あの、狭くて、薄暗い、六畳一間のアパートこそが、俺の、本当の、居場所なんだ。


俺の頬を、一筋の、涙が、伝った。

ホームシック。

それは、あまりにも、切なく、そして、甘い、痛みだった。


その時だった。

「……サイレントキラー様」


背後から、セラフィーナの、声がした。

いつの間にか、彼女が、そこに、立っていた。


俺は、慌てて、涙を拭う。

しかし、彼女は、すべてを、見ていたようだった。


だが、彼女の口から出たのは、俺が、予想していたような、慰めの言葉では、なかった。

彼女は、俺の、その憂いを帯びた横顔に、全く違う、物語を、見ていた。


「……貴方様は、いつも、そうなのですね」

彼女の声は、震えていた。

「街を救い、人々を、笑顔にした。その、輝かしい光の中心に、貴方様は、決して、立とうとはしない。ただ、こうして、物陰から、人々の幸せを、静かに、見守っておられる……」


(違う。ただ、人混みが、苦手なだけだ)


「そして、その瞳に、涙を浮かべて……。それは、きっと、この戦いで、救うことのできなかった、幾多の命を、思ってのことなのでしょう。あるいは、これから、戦わなければならない、世界の、悲しい運命を、憂いてのことなのでしょう」


(違う。ただ、家に帰りたいだけだ)


セラフィーナは、俺の前に、そっと、進み出ると、その、慈愛に満ちた瞳で、俺を、まっすぐに見つめた。

「私には、貴方様の、その、大きすぎる、悲しみを、癒すことは、できないかもしれません。ですが、せめて、そのお側に、寄り添うことだけは、お許しください」


彼女の、あまりにも、純粋な、勘違い。

俺は、何も、言えなかった。

ただ、窓の外の、月を、見上げるだけだった。

その月は、日本の空で、見ていた月と、同じ形を、していた。



祝宴が終わった、深夜。

俺たちは、宿屋の一室で、今後のことを、話し合っていた。

床には、気絶したままの、ゴライアスが、魔法のロープで、ぐるぐる巻きにされて、転がっている。彼は、明日の朝、王都からやってくる、アルフレッド殿たち、王国騎士団に、引き渡されることになっていた。


レオナルドが、王国全土の地図を、テーブルの上に広げた。

そこには、俺が、以前、水滴で濡らしてしまった、三つの地点が、記されている。

そのうちの一つ、ダグダは、今、赤いインクで、大きく、バツ印がつけられていた。


「ゴライアスは、倒しました。ですが、まだ、残りが、二つ、あります」

レオナルドが、残りの二つの地点を、指さす。

バルトス山脈と、古代遺跡ザルツブルグ。


アレクサンダーが、腕を組んで、言った。

「敵も、ダグダが、これほど、あっさりと、陥落するとは、思っていなかっただろう。今頃、大混乱に、陥っているに違いない。攻めるなら、今が、好機だ」


「ですが、どちらへ、向かうべきでしょう」

セラフィーナが、問いかける。

「バルトス山脈は、険しい山岳地帯。古代遺跡ザルツブルグは、内部が、迷宮のようになっていると、聞きます。どちらも、一筋縄では、いかない相手でしょう」


三人の視線が、自然と、俺へと、集まった。

まただ。

また、俺に、神託を、求めている。


俺は、もう、うんざりだった。

俺は、ただ、眠かった。

早く、この、不毛な会議を、終わらせて、眠りたかった。


俺は、ほとんど、無意識に、大きな、あくびを、した。

ふぁ〜あ……。


その、俺の、ごく自然な、生理現象。

それを見た、三人の顔が、同時に、ハッと、目を見開いた。


レオナルドが、震える声で、言った。

「……あくび……。『欠伸』……。いや、違う! これは、神の、『欠片』を、示唆している!」


(はあ!?)


レオナルドは、興奮したように、地図の上を、指でなぞった。

「古代遺跡ザルツブルグ! ここは、かつて、古代文明が栄えた場所! そして、そこには、古代の、強力な、アーティファクトの、『欠片』が、眠っていると、言い伝えられています! サイレントキラー様は、その『欠片』を、手に入れよと、我々に、そう、示されているのです!」


アレクサンダーとセラフィーナが、その、あまりにも、飛躍した、しかし、妙に、説得力のある、解釈に、息を呑んだ。


俺は、ただ、眠かっただけなのに。

俺の、ただのあくびが、次なる、冒険の舞台を、決定してしまった。


俺は、もう、何も、言う気力もなかった。

ただ、いつものように、力なく、呟くだけだった。


「…………うす」


その一言が、「その通りだ。我々は、古代遺跡ザルツブルグへと、向かう」という、絶対的な、GOサインとして、受け止められたことを、俺は、もはや、驚きもせずに、受け入れていた。

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