神話の誕生と英雄の憂鬱
闘技場を揺るしていた、地鳴りのような大歓声。
それは、黒鉄の鉱山都市ダグダが、長きにわたる恐怖の支配から、解放されたことを告げる、産声のようだった。人々は、抱き合い、涙を流し、俺の名前を、救世主の名を、繰り返し叫んでいる。
その熱狂の中心で、俺、相川静は、ただ一人、世界から切り離されたかのような、深い孤独を感じていた。
俺が投げた、ただの石ころ。
それが、なぜ、あんな動きをしたのか。
なぜ、あの山の如き巨漢を、一撃で、沈黙させたのか。
何一つ、分からない。理解が、追いつかない。
俺は、自分の体が、自分のものではないような、奇妙な感覚に、囚われていた。
「……これが。これが、貴方様の、本当の御力……」
隣に立つ、勇者アレクサンダーが、震える声で、呟いた。彼の目は、俺を見ているようで、その実、俺を通して、何か、人知を超えた、世界の真理そのものを見ているようだった。
聖女セラフィーナは、ただ、胸の前で、固く手を組み、涙を流している。彼女の『絶対治癒』のスキルでも、この、魂が震えるような衝撃は、癒すことができないのだろう。
賢者レオナルドは、もはや、言葉すら、失っていた。彼の叡智のすべてをもってしても、今、目の前で起きた現象は、分析することも、理解することも、不可能だったからだ。
やがて、街の市長らしき、恰幅のいい男が、衛兵たちをかき分けて、俺たちの元へと、駆け寄ってきた。彼は、俺の目の前で、その場で、深く、深く、ひざまずいた。
「おお……! 救世主サイレントキラー様! このダグダの民を、長きにわたるゴライアスの圧政から、お救いくださり、誠に、誠に、ありがとうございます! この御恩は、街の歴史が続く限り、決して、忘れません!」
市長は、感極まったように、涙ながらに、語り続ける。
「つきましては、ささやかではございますが、街を挙げて、祝宴の席を、設けさせていただきました! どうか、我々からの、感謝の気持ちを、お受け取りください!」
(祝宴……? やめてくれ……)
俺にとって、大勢の人間が集まる場所は、戦場よりも、恐ろしい。
俺は、必死に、首を横に振った。
しかし、その動きは、市長の目には、全く違う意味で、映ったようだった。
「なんと……! 英雄的な御業を成し遂げられたというのに、その素振りすら、お見せにならない……。なんという、ご謙遜。なんという、慈悲深さ。ですが、どうか、我々の顔を、立ててくださいませ!」
市長の、必死の懇願。
そして、周囲の、期待に満ちた、無数の視線。
俺に、断るという、選択肢は、残されていなかった。
◆
その日の夜。
ダグダの街は、何年ぶりかという、明るい光と、人々の笑顔に、包まれていた。
街の中央広場には、長いテーブルが並べられ、そこには、山の幸、海の幸が、これでもかというほど、並べられている。樽からは、エールが、惜しげもなく、注がれていた。
その、祝宴の中心。
一番、上座に、俺は、座らされていた。
俺の周りには、アレクサンダーたちが、まるで、護衛のように、座っている。
次から次へと、街の人々が、俺の元へ、挨拶にやってくる。
「救世主様! この一杯を、どうぞ!」
「我が家の娘が、貴方様のファンだと言っておりまして……。どうか、握手を!」
その度に、俺は、ただ、固まり、俯くだけ。
そして、その俺の、あまりにも、不器用な反応を、仲間たちが、必死に、フォローしてくれていた。
「申し訳ない! サイレントキラー様は、今、大いなる戦いを終え、精神を、深く、深く、瞑想の世界に、沈めておられるのだ。俗世の言葉は、届かぬかもしれん」
アレクサンダーが、そう言って、人々を、うまくいなしていく。
俺は、その、地獄のような時間の中で、ただ、ひたすらに、早く、この宴が終わることだけを、祈っていた。
宴も、たけなわになった頃。
俺は、限界だった。
これ以上、この場所にいれば、俺の精神は、本当に、崩壊してしまう。
俺は、誰にも、気づかれないように、そっと、席を立った。
そして、まるで、影のように、その場を、抜け出した。
俺が、向かったのは、宿屋の、自室だった。
いや、自室ではなく、屋根裏部屋だった。
少しでも、人目につかない、静かな場所が、欲しかったのだ。
屋根裏部屋の、小さな窓から、外を見る。
下では、まだ、祝宴の灯りが、煌々と、輝いている。人々の、楽しそうな笑い声が、風に乗って、聞こえてくる。
その光景が、俺には、どこか、遠い、別の世界の出来事のように、思えた。
俺は、この世界に、いるべき人間じゃない。
俺の居場所は、ここじゃない。
日本に、帰りたい。
あの、狭くて、薄暗い、六畳一間のアパートこそが、俺の、本当の、居場所なんだ。
俺の頬を、一筋の、涙が、伝った。
ホームシック。
それは、あまりにも、切なく、そして、甘い、痛みだった。
その時だった。
「……サイレントキラー様」
背後から、セラフィーナの、声がした。
いつの間にか、彼女が、そこに、立っていた。
俺は、慌てて、涙を拭う。
しかし、彼女は、すべてを、見ていたようだった。
だが、彼女の口から出たのは、俺が、予想していたような、慰めの言葉では、なかった。
彼女は、俺の、その憂いを帯びた横顔に、全く違う、物語を、見ていた。
「……貴方様は、いつも、そうなのですね」
彼女の声は、震えていた。
「街を救い、人々を、笑顔にした。その、輝かしい光の中心に、貴方様は、決して、立とうとはしない。ただ、こうして、物陰から、人々の幸せを、静かに、見守っておられる……」
(違う。ただ、人混みが、苦手なだけだ)
「そして、その瞳に、涙を浮かべて……。それは、きっと、この戦いで、救うことのできなかった、幾多の命を、思ってのことなのでしょう。あるいは、これから、戦わなければならない、世界の、悲しい運命を、憂いてのことなのでしょう」
(違う。ただ、家に帰りたいだけだ)
セラフィーナは、俺の前に、そっと、進み出ると、その、慈愛に満ちた瞳で、俺を、まっすぐに見つめた。
「私には、貴方様の、その、大きすぎる、悲しみを、癒すことは、できないかもしれません。ですが、せめて、そのお側に、寄り添うことだけは、お許しください」
彼女の、あまりにも、純粋な、勘違い。
俺は、何も、言えなかった。
ただ、窓の外の、月を、見上げるだけだった。
その月は、日本の空で、見ていた月と、同じ形を、していた。
◆
祝宴が終わった、深夜。
俺たちは、宿屋の一室で、今後のことを、話し合っていた。
床には、気絶したままの、ゴライアスが、魔法のロープで、ぐるぐる巻きにされて、転がっている。彼は、明日の朝、王都からやってくる、アルフレッド殿たち、王国騎士団に、引き渡されることになっていた。
レオナルドが、王国全土の地図を、テーブルの上に広げた。
そこには、俺が、以前、水滴で濡らしてしまった、三つの地点が、記されている。
そのうちの一つ、ダグダは、今、赤いインクで、大きく、バツ印がつけられていた。
「ゴライアスは、倒しました。ですが、まだ、残りが、二つ、あります」
レオナルドが、残りの二つの地点を、指さす。
バルトス山脈と、古代遺跡ザルツブルグ。
アレクサンダーが、腕を組んで、言った。
「敵も、ダグダが、これほど、あっさりと、陥落するとは、思っていなかっただろう。今頃、大混乱に、陥っているに違いない。攻めるなら、今が、好機だ」
「ですが、どちらへ、向かうべきでしょう」
セラフィーナが、問いかける。
「バルトス山脈は、険しい山岳地帯。古代遺跡ザルツブルグは、内部が、迷宮のようになっていると、聞きます。どちらも、一筋縄では、いかない相手でしょう」
三人の視線が、自然と、俺へと、集まった。
まただ。
また、俺に、神託を、求めている。
俺は、もう、うんざりだった。
俺は、ただ、眠かった。
早く、この、不毛な会議を、終わらせて、眠りたかった。
俺は、ほとんど、無意識に、大きな、あくびを、した。
ふぁ〜あ……。
その、俺の、ごく自然な、生理現象。
それを見た、三人の顔が、同時に、ハッと、目を見開いた。
レオナルドが、震える声で、言った。
「……あくび……。『欠伸』……。いや、違う! これは、神の、『欠片』を、示唆している!」
(はあ!?)
レオナルドは、興奮したように、地図の上を、指でなぞった。
「古代遺跡ザルツブルグ! ここは、かつて、古代文明が栄えた場所! そして、そこには、古代の、強力な、アーティファクトの、『欠片』が、眠っていると、言い伝えられています! サイレントキラー様は、その『欠片』を、手に入れよと、我々に、そう、示されているのです!」
アレクサンダーとセラフィーナが、その、あまりにも、飛躍した、しかし、妙に、説得力のある、解釈に、息を呑んだ。
俺は、ただ、眠かっただけなのに。
俺の、ただのあくびが、次なる、冒険の舞台を、決定してしまった。
俺は、もう、何も、言う気力もなかった。
ただ、いつものように、力なく、呟くだけだった。
「…………うす」
その一言が、「その通りだ。我々は、古代遺跡ザルツブルグへと、向かう」という、絶対的な、GOサインとして、受け止められたことを、俺は、もはや、驚きもせずに、受け入れていた。
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