ノスタルジー
『ブラックホール』――高密度で、極めて強い重力を持ち、光さえ脱出できない存在。
アレがそうだと云うのか。だがそれで一体なにをしようというのか。
「そんなモン地上に出現させて、何がしたいんだ。世界そのものが滅茶苦茶になるだけじゃないか。……世界の滅亡でも望んでいるのか」
意味が分からない。誰も得をしない所業だ。
「世界の滅亡を望むのなら、核施設を占拠し核ミサイルを打つ放つ方がよっぽど簡単です。こんなまどろっこしい真似はしません。……言ったでしょう、『ビックバンの逆回し』だと!」
雷豪は縮みゆく大蜘蛛を見つめ言う。
恍惚とした表情で、目は爛々と輝いている。
「光さえ脱出できない『事象の地平面』、その内部では時間さえも止まってしまいます。膨張する通常宇宙に比べ、全てが収縮する宇宙なのですから。……ならばその更に内側、特異点の内側はどうなっているんでしょうか。誰にもそれは解りません。何故なら光さえも脱出できない空間は、観測できないのですから。ですが、予測はできます。ビックバン後の過去から未来へと進む膨張宇宙がここならば、ビックバン以前の未来から過去へと進む収縮宇宙――『虚数世界』がそこに在るのではないかと。……多分に期待に満ちた仮説ですがね」
未来から過去へと流れる世界。という事はこいつらの狙いは……。
「まおの目的は『ちづの復元』と言っていたな」
「ええ、完璧な復元でしょう。なにしろ、時を戻した『そのもの』なのですから」
俺の問いに雷豪は無邪気な子どもみたいに答える。
「冒涜だな……」
「神に対する?」
「いや、人の想いに対する冒涜だ。積み上げてきた歴史を、努力を、想いを、すべて無かった事にする冒涜だ」
連綿と受け継がれてきた『魂のリレー』を踏みにじる行いだ。
「『終わり良ければ全て良し』と云うではありませんか」
「そういう問題じゃねぇ!」
結果ではない。それまでに紡がれたドラマが、その存在意義なのだ。
「噛み合いませんね。ジェネレーションギャップと云うんでしょうか、これも」
「世代の溝じゃねえな、信条の溝だ」
やれやれと云う顔を雷豪はする。
……多分こいつは解っていない。人の、己の命よりも重い、託し託されたモノの存在を。
「時間を逆回転さすと云うのなら、なんでつぐみの受精卵を狙う? ちづの身体を復活できるんだろう?」
物事の是非を問う不毛な会話を諦め、思惑を探る会話をする。
「……パラドックスが発生するでしょう、それだと。この巨大な力を行使するには、ちづ様の土蜘蛛の力が必要です。ですがちづ様のお身体を戻せば、土蜘蛛の力は失われる。……さあ、この矛盾を解決するには、どうすればよいのでしょうか」
意地の悪い教師みたいに、煽るように問いかけてくる。
「つぐみの受精卵を依代に、ちづを復活させるか……。ちづの木乃伊はそのままにして」
「それしか無いでしょう。他に代案があれば受精卵は諦めます。……如何でしょう、何かございますか?」
にこやかな顔で訊いてくる。答えは分かりきっているだろうと云う顔だ。
「ご理解頂けたようで、重畳、重畳。それでは、主人の命を果たさせて頂きます」
雷豪は口を吊り上げ目を細め、笑う。悪魔のように。
「お前の受けた命とは、足止めか」
「まあ、そんなとこです。大人しくしてれば、命までは奪いませんよ」
雷豪は後ろで組んでいた手を大きく前に広げる。
両手の指の間には、八本の小刀が挟まれていた。
「行け、童子切!」
雷豪が手を振ると、曲線を描きあらゆる角度から小刀が飛んで来る。
俺は軌道を見極め、ギリギリで躱す。
「童子切安綱は太刀じゃなかったのか」
「あれは式典用の見栄え重視の儀仗です。実戦ならば、こちらの方がよっぽど使い勝手がいい。こんな風に、ねっ」
雷豪はくいっと指を捻る。小刀は急旋回し、再び俺に向かって来た。
目を凝らし小刀を視る。細く黒い糸が、雷豪の指と繋がっていた。
こいつか! 俺は小刀を躱しながら糸を断ち切る。
「お見事! よくぞ見抜きました」
雷豪は余裕の表情で拍手する。
「アサシンみたいな真似をしやがる。『朝家の守護』ともあろうお方が、まあ節操のない」
「大層な肩書ですね。所詮、執事にすぎませんよ、私は。今も昔も。誇りなんぞは、持ち合わせていません」
ふっと自嘲するように雷豪は嗤う。
さて、どうするか。いつ迄もこいつにかまけてる場合ではない。
逡巡する俺の前に、人影が立ちはだかる。
「ここは私に任せ、樹さんはつぐみお姉さまと一緒にちづちゃんの所に行って下さい。そして『ちづちゃん』と『まお』を切り離して下さい。それが出来るのは、お二人の剣と槍だけです。……ここは私が引き受けます!」
水瀬は俺に背を向け、雷豪に対し構えをとる。
その背中には、揺るぎない決意と折れない闘志が漂っていた。
「わかった。その言葉に甘えさせてもらう。だが命令だ。何があっても死ぬな! これだけは守ってもらうからな」
俺の言葉に、水瀬はハンと笑う。
「言われるまでもありません。私は樹さんが死ぬまで、何があっても死なないと決めているんです。つぐみお姉さまを慰めて、その後釜に座ると決めているんです」
油断も隙もないな、こいつ。
本当に――――頼もしい。
「行こう――」
俺はつぐみの手を取り、大蜘蛛の許へと堕ちて行く。
「残念でしたね。あなたのお相手は、私です」
水瀬は雷豪の行く手を遮る。
雷豪は胸に手を当て、うやうやしく頭を下げる。
「いえいえ、願ったり叶ったりです。なにしろ私の狙いは貴方だったんですから――――ナミ様」
「つぐみお姉さまが狙いじゃなかったと?」
訝しげに水瀬は問う。
「……貴方を、まお様と戦わせる訳にはいかないのですよ」
そう語る雷豪の顔は、哀しみを湛えていた。
「貴方のことは、よく知っています。まお様から聞かされました。嫌という程……」
遠い目をし、天を仰ぎ、雷豪は小さく言う。
「先程お出しした椿餅、如何でしたか? お気に召したでしょう。……当然です。あの味は、貴方が創り上げたものなんですから」
真っ直ぐ水瀬を見つめ、問いかけてくる。
「まお様にせがまれたんです。『ナミさんの椿餅を作って欲しい』と。苦労しましたよ、あの味を再現するのに。『甘味が足りない』『もっとモチモチしていた』……何度リテイクを喰らったことか」
ふっと息をもらす。何かを笑うように。
「そして遂に完成させました、あの味を。どうだ、ざまあみろと言ってやるつもりでした。けどね、言えませんでした。泣くんですよ、ポロポロと。『ナミさんの味だ、ナミさんの味だ』と言いながら。あの傲岸不遜の暴君が。……まったく」
始末に負えない感情を持て余すみたいな口ぶりだった。
「貴方とまお様を戦わせたら、厄介な事になるに違いありません。勝っても負けても、ピーピー泣くに決まっています。主従の誓いで、私とまお様は繋がっているんです。ガンガンと、あの泣き声が響くんです。鬱陶しいこと、この上ない!」
吐き捨てるみたいに雷豪は言い放つ。悲鳴をあげるように。
「……アンタ、面倒くさい性格をしてるのね」
「はぁ?」
雷豪は虚を突かれたみたいに間抜けな声をだす。
「自覚なしか……。天然ね」
水瀬は可哀想なものを見るみたいな目を雷豪に向ける。
「人の心の機微を仰っているのかもしれませんが――もはや私には詮無きこと……」
遥かな昔を思い返すみたいな虚ろな目で、雷豪は言い放つ。
「お喋りは、この位に致しましょう。……見せてもらいましょうか。水瀬の一族が千年の時をかけて磨きし技を。剣斗より授かりし人外の技を」
暗い穴から飛び出すみたいな陰鬱で重苦しい声が、吹きすさぶ風の中に溶けていった。