最終話 斉藤さんは傍にいたい
♪プルル、プルル、プルル、プルル…
斉藤さんは、規則的な機械音で目を覚ましました。視界は薄明かりが見えるだけで暗く、機械音はじんじんと頭に響きます。コンタクトをしたまま眠ってしまったのか、目を開けようとすると痛く、思わず斉藤さんは目に手をやりました。コンタクトのケースは、枕元に置いていたはず――
普段ケースを置いている辺りを手で探ろうとして、斉藤さんははたと気づきました。ここは、自分が普段暮らしている部屋ではないと。そして、先程から部屋に響いている規則的な機械音――携帯のアラームは、自分のスマートフォンから鳴っているものではないということを――
そこまで事実を反芻すると、斉藤さんの顔色がサッと変わり、視界の悪い状態のまますぐ横に眠っている人影に声を掛けます。
「く、窪田さんっ、ねえ、窪田さんっ、窪田…」
その大きな人影――窪田さんはむくりと上体を起こすと、スマートフォンに手を伸ばして一瞬画面を眺めましたが、片方の手で髪をぐしゃぐしゃとかきむしり、スマートフォンを直ぐ側にあった枕の下へとしまい込んでしまいました。
「窪田さん…!?」
「サナコちゃん……、おはよう」
慌てる斉藤さんとは対照的に、窪田さんは静かに斉藤さんのことをじっと見ています。コンタクトを外して手元のバッグから眼鏡を取り出した斉藤さんは、その窪田さんの姿に思わず驚いて視線をそらします。その視線の先、床には無造作に脱ぎ散らかされた服が転がっていました。
「…!」
お互い一糸まとわぬ姿であることに気づいた斉藤さんは、慌てて布団を身体にまとうと、顔を伏せて急に早口でまくし立てました。
「あっ、あの、く、窪田さん、わたし、その、あの、ごめんなさい、こっ…こんなつもりじゃ」
窪田さんは、黙って首を横に振ると斉藤さんの白い背中に手を伸ばします。
「サナコちゃん…これで会うのが最後になるのは…嫌だな」
「えっ、あっ、でも、窪田さん、あの、おっ、おく…」
「大丈夫。深夜まで仕事してることだって普通にあるし、朝まで飲んでることだってざらにあるよ」
斉藤さんの言葉に、窪田さんは再び首を横に振りました。冷房の効いた部屋で、窪田さんの手はじんわりと熱を帯びているように感じました。斉藤さんの顔を見ると、窪田さんは笑みを浮かべて一言つぶやきました。
「サナコちゃん…、好きだ」
「えっ、あの、窪田さん、窪田さん…ん…んっ」
外へ出ると、斉藤さんの視線の先には大黒天ガーデンタワーが見えます。さっきまでいたのは、大黒天の東口をずいぶんと歩いたところということに気づきました。時計は、朝の7時を過ぎていました。外はどんよりと厚い雲に覆われ、生ぬるい風が吹き付けます。顔にポツポツと雨が当たるのに気づき、斉藤さんは慌てて折りたたみ傘を取り出します。
(…窪田さんが…)
斉藤さんは歩いてきた道をふと振り返りました。昨日の夜、窪田さんが酔ってよろけてからの出来事をひとつひとつ思い出すうちに、斉藤さんはこめかみの辺りにズキズキと痛みを感じ、両手で頭を抱えました。そろそろ、大黒天の駅が近づいてきます。毎朝、行き交う人で溢れかえる西口のバスロータリーは、土曜日ということもあり静まり返っていました。バスロータリーを抜けた先に西口商店街があり、昨日まで勤めていたペンギンテーブルはさらにその先にあります。斉藤さんは改札を通り、いつものフレーバーティーのペットボトルを買うと西口商店街の方をじっと見つめました。
2年前、桜の舞う商店街を意気揚々と歩いて初めて出社した日。営業成績トップを取って、営業部のメンバーにお祝いをしてもらった日。自分の販売したサービスが障害を起こし、取引先に謝罪に向かった雪の降る日。そして、社長に呼び出され、人事本部への異動を告げられたあの日――
箱浜へと向かう電車の扉が開き、斉藤さんは座席に腰掛けました。車窓の風景がゆっくり動き出すと、ここ数ヶ月の思い出が脳裏をよぎります。
公園に足を踏み入れ、「ボク」と目があった瞬間。落ち込む斉藤さんの顔を覗き込み、決意を促すかのようにじっと見つめていた「ボク」。一緒に暮らそう、と斉藤さんが言うと、顔を背けて公園を出ていった「ボク」。その美しいグレーの毛並みの感触や鳴き声、ひとつひとつを斉藤さんは思い出していました。
ふと、斉藤さんは昨日清水さんと交わした会話を思い出していました。清水さんの、悔しさを噛み殺したような横顔が浮かびます。
『最近じゃあ野良猫の数が増えるのを嫌う輩がいるのか、この道路を挟んだ方ですけど、毒餌を撒いたのがいるそうです…昔は商店街にも人が沢山いて、人情のあるいい街だったんですがねぇ…』
その言葉を反芻した瞬間、斉藤さんの心臓はバクバクと急激に波打ち始めました。そして、何か嫌な予感が脳裏をよぎります。電車は、次の駅に到着しようとしていました。扉が開くと、斉藤さんは急に立ち上がり電車を飛び出しました。エスカレーターを駆け上ると、反対側のホームに慌てて向かいます。
『間もなく4番線に、海袋行きの電車が到着します――』
電車が到着すると斉藤さんは慌てて乗り込み、車窓から大黒天の方向を見つめます。ゆっくりと動き出す電車がじれったいのか、斉藤さんは親指の爪をギリギリと噛んでいます。
(…ボク!)
斉藤さんは、昨日退職したはずのペンギンテーブルの入るビルを過ぎ、一目散に公園――昨日まで「大黒天南山公園」だった場所へとやって来ました。すでに公園の入口はオレンジと黒のバリケードで封鎖され、中の様子を窺い知ることはできません。すると、斉藤さんはバリケードに手をかけ、その上に身体を乗り出すようにして公園の中を覗きました。バリケードをまたいで公園を見渡すと、斉藤さんは急に両手で顔を覆いました。
「ボク!!」
斉藤さんの視線の先には、公園の中心部のあたりにぐったりと横たわる「ボク」の姿がありました。目につくような場所に横たわっている時点で、「ボク」がただ寝ているわけではないということは、斉藤さんにも一瞬でわかりました。「ボク」の口元には、昨日食べたであろうものを吐き戻してしまった跡がありました。斉藤さんの心には、かつて飼っていたボクの亡くなった時の姿が浮かびます。
「いやだ! ボク! ボク!!」
バリケードをまたいで公園の中に入ると、履いていたデニムがビリッと音を立てました。飛び出していた針金が引っ掛かってしまい、破れてしまったデニムからは傷が覗いています。しかし、斉藤さんはそんなことを気にしている余裕はありませんでした。「ボク」を抱き寄せると、背中を数回叩いて顔を近づけます。
「ねぇ、ボク、ボクったら! 死んだら嫌だよ! ねぇ、ボク!!」
斉藤さんは、泣きながら「ボク」を呼びました。すると、何かの気配を感じて斉藤さんは再び「ボク」に顔を近づけます。
「…フーッ…フーッ」
「ボク」は、かすかにまだ息をしています。斉藤さんは慌てて「ボク」を担ぎ上げると、再びバリケードを越えて公園の外の道へと下り、左手で「ボク」を抱えると、傘も差さずに大黒天の駅の方へと走り始めました。
「肉屋のさとう」の店の前では奥さんが開店の準備を進めていましたが、「ボク」を抱えた斉藤さんが走ってくることに気づき、目を見開いて斉藤さんを呼び止めました。
「どうしたんだい、お姉ちゃん!?」
「ボクが…公園で倒れていたんです」
「なんだって!?」
「ボク」は苦しそうな表情で、かろうじて呼吸を保っているような状態です。奥さんは店の外を指差すと、斉藤さんの顔を見つめて言いました。
「ここの通りを2、3分歩いたところに、富樫さんっていう動物病院があるんだ。この時間なら開業してるから、この子を連れて…いや、この際だ、わたしも一緒に行くよ」
奥さんの言葉に、斉藤さんは涙を流しながら頷きます。
「…はい…ありがとうございます!!」
「とがし動物病院」へたどり着くと、「ボク」はすぐに診察室へと連れて行かれ、処置が始まります。その光景は、斉藤さんがかつて味わった動物病院での光景にひどく似ていました。その時の焦り、「ボク」を失うかもしれない恐怖が重なり、斉藤さんは顔を覆って嗚咽をこぼしています。「肉屋のさとう」の奥さんが、じっと無言で斉藤さんの背中をさすっていました。
「わたしがあの時、ボクを連れて帰っていたら…ボクはこんなことにならなかったかもしれないのに」
そう言って後悔の念から号泣する斉藤さんを、奥さんは必死に慰めます。
「お姉ちゃんが悪いわけじゃないよ…ボクにもその時の気持ちがあっただろうし、あんたのせいなんかじゃない…それにしても…」
奥さんがそうつぶやくと、処置室から院長先生が現れます。院長先生は厳しい表情のまま、大きくため息をつきました。
「胃の内容物を見ましたが、おそらく最近言われている毒餌ではないかと思います…胃の洗浄を行ったあと、点滴で毒素を体外に排出することになります。ただ、餌を口にしてから時間が経っていると思われ、衰弱がかなり激しい状態です…我々もできる限りの処置を行いますが、予断を許さない状況です」
斉藤さんは奥さんに支えられて立ち上がると、顔を覆ったまま何度もうなずきました。
「よろしく…お願いします…ボクを…ボクを助けてください…あの子は、何度もダメになりそうなわたしを元気づけてくれた…このまま死なせたくないんです…お願いします」
お昼どきの少し前、帰宅した窪田さんは自宅の書斎で仕事をしていましたが、スマートフォンにメッセージが届いていることに気づき手に取りました。そこには、
『ボクが、死にそうです。ボクを助けたいです』
斉藤さんから、短いメッセージが届いていました。窪田さんはリビングの方を向きました。その奥のキッチンからはお昼ごはんのいい匂いが届いてきます。リビングでは、テレビを見ながらはしゃぐような声が聞こえます。窪田さんは再びスマホに視線を落としました。昨夜は、上司との長い打ち合わせからの酒席でどうにか始発で帰ってきたと言って、連絡が取れなかった理由を繕ったばかりです。窪田さんはため息をつくとスマホを手に取りました。
『ごめん。向かうことはできないけど、ボク、助かるといいね』
それだけメッセージを打つと、窪田さんはリビングへと向かいました。
「肉屋のさとう」の奥さんは店へと戻り、土曜の午後の待合室には斉藤さんだけが残っていました。院長先生が処置室へと戻ってから、長い時間が経っていました。斉藤さんは、スマートフォンに残るかつての飼い猫・ボクと、今必死に戦っているであろう「ボク」の写真を交互に見つめては、ずっと涙をこぼしています。斉藤さんがスマホの画像をめくると、数日前に窪田さんが撮影してくれた、斉藤さんと「ボク」の写真が画面に映し出されました。「ボク」は、斉藤さんの方を向いて笑顔のような表情を浮かべています。その写真を斉藤さんはしばらく見つめていましたが、視界がぐるっと周ったかと思うと、斉藤さんは待合室の椅子に崩れ落ちるように倒れ、眠ってしまいました。パシッ、という音を立ててスマートフォンが床に落ちます。
受付の女性が斉藤さんに毛布をかけ、スマートフォンを拾います。すると寝言なのか、小さな声で斉藤さんがつぶやきました。
「ボク、ねぇ、嫌だよ…行っちゃ嫌だよ…」
「終わりました、起きられますか」
院長先生の穏やかな声で、斉藤さんは目を覚ましました。すでに、外は夕日が差すような時間になっていました。斉藤さんが容態を尋ねようとすると、先に院長先生が口を開きました。
「なんとか、処置は終了しました。衰弱が激しくどうなることかと思いましたが、今は落ち着いて寝ています。数日間こちらで様子を見ることになるとは思いますが、一刻を争う状況は脱しました。大丈夫でしょう」
院長先生の言葉に、斉藤さんは安堵の表情を浮かべ、再び涙を流します。それは、不安の涙ではなく、心からの安堵でした。
「よかった…ありがとうございます! 本当にありがとうございます!」
斉藤さんは、入院室のケージを覗き込みました。「ボク」はスースーと寝息を立てていましたが、苦しそうな様子もなく落ち着いているようでした。その顔をみた瞬間、斉藤さんはその場に崩れ落ちました。
「ボク…! 本当によかった…!」
「それで、ボクを飼うことにしたんだね」
そう訊ねる窪田さんに、斉藤さんは笑顔で頷きました。新たな職場で働き始めた斉藤さんは、退院と同時に手続きを行い、「ボク」を家族として迎え入れることに決めたのでした。さらに、斉藤さんはこの大黒天に引っ越すことを決め、新しい生活を「ボク」と始めていました。仕事が終わった夜、ふたりは大黒天の外れにあるレストランで食事をしていました。もちろん、斉藤さんはペットキャリーで「ボク」を連れています。「ボク」は、首元に斉藤さんの選んだバンダナのような首輪をして、誇らしげな表情で窪田さんを見つめています。
「すぐに懐いたんだね?」
窪田さんの言葉に、斉藤さんは深く頷きます。
「家の中で生活するのに慣れてくれるか心配だったんですけど、楽しく過ごしてくれているみたいで…たまに、休みの日は自転車で一緒に遊びに出かけたりして、帰りに佐藤のお母さんのところでコロッケを買うのが楽しみみたいです。ね、ボク」
ボクは、斉藤さんを見つめると笑みを浮かべて顔をスリスリと近づけます。斉藤さんも、充実した表情を浮かべて窪田さんに言います。
「仕事も大変ですけど、ボクがいてくれるから毎日楽しくて…お給料上がったら、ボクにまた新しく何か買ってあげようかと思って…窪田さん、今度の土曜日一緒に見に行ってくれませんか?」
窪田さんは苦笑いを浮かべつつも、ボクを見つめてやはり笑顔になりました。
「ごめんね、なかなか土日は一人では出れないから申し訳ないけど…でも、サナコちゃんもボクも元気そうで、安心したよ」
「ありがとうございます! 買い物は、またの機会にお願いします。でも、この前かわいいキャットステップ買ったんです! ちょっと見に来てほしいです」
斉藤さんがそう言うと、窪田さんは手元の時計を見て頷きます。
「そうだね…終電まではまだ時間があるから、見せてもらおうかな」
そう言って、窪田さんはお会計の準備を始めます。斉藤さんは、席を立つとケージに収める前に、ボクのことをぎゅっと抱き上げました。
「本当に楽しいよ、ボク。来てくれてありがとね」
「ニャアーォ」
ボクは、斉藤さんに抱えられながらのんきな鳴き声を上げました。でもそれは、斉藤さんと一緒に暮らしているからこそ、リラックスできている証拠なのかもしれません。
斉藤さんを見つめるボクの目には、大きな満月が映っていました。
<おしまい>