第2話 斉藤さんは転職したい
先日の出来事があって以来、斉藤さんは、小さな公園にしばしば顔を出すようになりました。晴れた平日の昼間、公園に顔を出しては「ボク」を見つけると嬉しそうに手を振り、ボクと話をしては仕事へと戻っていきます。
この日「ボク」は、朝はゆっくりと大黒天の街をうろうろとしていましたが、陽が真上に上るころに公園へとやってきました。隣のお宅の壁をつたって、公園の片隅に降り立つとひとつ大きなあくびをして、少し眠そうに顔を掻きました。
すると、この日は久しぶりに、斉藤さんが電話をしながら公園へとやってきました。
「斉藤です。…はい、先日はありがとうございましたぁ。はい。エッ…そうですかー。うーん、そうですよね、なかなか急にあるわけじゃないですもんね。わっかりまし…はい? はい。希望年収ですか?えっと…450。はい。450です。えっ実績…ですか? えっとそれは、先日お送りした職務経歴書に書いてあると思うんですけど…えっ? 内容? そしたらどうやって書けばいいんですか? あの…そしたら、内定が取れる見本っていうんですか、あの…そういう風に添削とかしていただけないんでしょうかね…? あっ、ちょっと別の所から電話はいったようなんで、失礼します、ハイッ」
斉藤さんは途中で話を切り上げると、携帯電話の終話ボタンを押して大きな溜息をつき、公園のベンチへと腰かけました。すると、斉藤さんは周囲をキョロキョロと見まわして、小さな声で言いました。
「…ねぇ、ボク? ボク。いるかな?」
もう声も聞きなれたのか、斉藤さんの呼ぶ声に反応し「ボク」は木陰から顔を出しました。斉藤さんの足元へとやって来ると「ボク」は、小さく鳴き声をあげました。
「どうしよう、ボク。わたし、今の仕事辞めて、新しい仕事探そうと思ってるんだけど、なかなかすぐ見つからなくて…どうしたらいいんだろう」
そういって斉藤さんは頭を抱えました。「ボク」は不思議そうな表情で斉藤さんを見上げていましたが、すると斉藤さんは弱々しく笑顔を浮かべて話を続けました。
「…フフフ、そんなことボクに言ってもわかるわけないのにね、ごめんね、ボク」
斉藤さんは、手に提げていたコンビニエンスストアの袋から肉まんを取り出すと、ひと口美味しそうに頬張りました。「ボク」は、その様子をなんだかうらめしそうに眺めています。斉藤さんはその視線に気づくと、小さく頭を下げました。
「あ…ごめん」
まだ、湯気のたつかじりかけの肉まんを食べると、斉藤さんは口をモグモグとさせながら言いました。
「ボク、最初に会った時のこと覚えてるかな? わたし今ね、会社は一緒だけど、これまでやってきた仕事と違うことをやることになってさ…最初、わたしがすごい嫌がってたから、周りの人も説得してくれたり、愚痴聞いてくれたり…いろいろしてくれたんだけど、でもやっぱりね、わたし営業の仕事していたい。だから、転職…しようかなって」
「ニャーア…?」
「ボク」には、『転職』という言葉の意味などわかるはずもありません。斉藤さんの悩みを不思議そうな面持ちで眺めていましたが、斉藤さんが困っていることはわかるのでしょう。斉藤さんの真正面に立つと、斉藤さんの目をじーっと見つめています。
「ボク…?」
斉藤さんは戸惑いました。ネコがじーっと目を見つめる時は、何かを伝えたいサインでもあり、一方、緊張や牽制を示すサインでもあります。斉藤さんは「ボク」の気持ちを損なってしまうようなことをしたかと、困った表情を見せました。すると、公園に誰かがやってきて、ふと声を発しました。
「おや『ボク』、新しいお客さんかい? 話し相手ができてよかったじゃないか」
「『ボク』!?」
驚きのあまり、斉藤さんは大声をあげました。「ボク」は斉藤さんの声に驚いて、思わずササッと遠ざかります。
「…それじゃあ、もともとみんなに『ボク』って言われてるんですか?」
斉藤さんの質問に、公園へやってきたいつもの清掃員のおじさん――名札には『清水』と書いてある――が答えます。
「そうそう。『ボク』はこのあたりでも有名な野良ネコでね。ここの公園にいないときは、西口商店街をよくウロウロしてるんですよ。それでよく商店街の『肉屋のさとう』に行って、奥さんにコロッケだのなんだのもらってるうちに懐いちまって、奥さんがこの子のことを『ボク』って呼び出したら、それでお馴染みになっちまったってわけですよ――」
清水さんの話を聞いた斉藤さんは、思わず声をあげました。
「この子、昔飼ってたネコにそっくりで、そのネコの名前が『ボク』っていうので、この子のことずっと『ボク』って呼んでたんです!」
清水さんは驚き、思わずため息を漏らしました。
「ほぉー…! それじゃあ、ここで出会ったのも、何かの縁かもしれないねぇ」
斉藤さんたちの話を、「ボク」は不思議そうな表情で眺めています。斉藤さんは、感慨深げに「ボク」に顔を近づけると言いました。
「そうか…、『ボク』はもともと『ボク』だったんだね…なんだか、昔から一緒にいたような気がするよ」
昼休みの時間が終わり、斉藤さんは会社へと戻っていきました。「ボク」は、暖かな午後の陽射しに気持ちよくなったのか、しばらくウトウトとしていましたが、そのうち起き出すと大黒天の住宅街をそろそろといつものように歩き回りはじめました。
その後しばらく、いつもの寝床にしているお宅の軒下でゆっくりと過ごした「ボク」は、陽も少し傾くころに公園へと戻ってきました。すると、聞きなれた靴の音が足早に迫ってきます。
音の主は、斉藤さんでした。斉藤さんは、いつものように携帯電話でせわしなく話しながら近づいてきます。
「はい。はい。…メーカーの…ルート営業。えと、年収は?380から470。場所、どこですか?あ、小石町ですか?…ちょっと遠いかもですね…わたしは…箱浜から通ってます。戸津川からなので…2時間。はい…、とりあえず、書類が通ったってことですね?はい、ありがとうございます…はい。今日中にご連絡しますので。はい、よろしくお願いいたします」
斉藤さんは、電話を切るといつものようにため息をつきました。すると、「ボク」と目が合った斉藤さんは話し始めました。
「面接がね、決まったんだって。お給料は…まぁ、希望のラインなんだけど、家から遠いのと…業種がね…自動車部品メーカーの営業だっていうんだけど、わたしクルマ乗らないし、あと…家から遠いかな…ハハハ…」
「フニャア?」
「ボク」が、一言鳴き声を上げました。昼休みの穏やかな表情とは少し違う、まるで、こう言いたげな顔をして。
――じゃあ、どんな会社だったら満足なのさ。
斉藤さんには、まるで「ボク」がそう言ったように見えました。思わず斉藤さんは、メガネを直して「ボク」のことをじっくりと見つめました。「ボク」は、やはり同じ表情をしています。斉藤さんはハッとして、頭をポリポリとかいてつぶやきました。
「…ボク、ごめん。わたし、人の言うことに文句ばっかり言って、自分でどうしたいのか、何も考えてなかった」
斉藤さんがそういうと、「ボク」はフェンスを駆け上り、斉藤さんを見下ろすように一つ頷きました。
それでよろしい。そう、言わんばかりに。
「ありがと、ボク。教えてくれて。…またね」
斉藤さんは、照れているのか、喜んでいるのか、いくつかの表情が混じった表情をしてオフィスへと戻っていきました。
午後7時を過ぎて、すっかりと日も暮れた大黒天の街は行き交う車のライトと、鮮やかな飲食店の灯りでキラキラと光っています。「ボク」は、西口商店街にある「肉屋のさとう」の奥さんから、こっそりとコロッケをもらっていました。
「あっ、ボク!」
昼に、清水さんから聞いた話が気になった斉藤さんが店の前を通ると、コロッケをほおばる「ボク」と目が合いました。
「あらあら、ボク、ガールフレンドなんて、マセた子だねぇ」
奥さんが茶化すと、「ボク」はぷい、と顔を背けてしまいました。
「最近、仲良くなったんです。ここによくいるって聞いて」
「ボク」を見てニヤニヤする奥さんに会釈をすると、斉藤さんは手を振って大黒天駅の方へと歩いていきました。
「じゃ、ボク。また明日ね!」
「ボク」は横目で斉藤さんのことを見やると、黙々とコロッケを食べていました。
<つづく>