6-7 二人の秘密
『愛書典』まであと数日。
ハンナ・クレイリッジは睡魔と戦いながら、手を動かし続けた。──黙々と。
連日の夜ふかしで目の下には隈が浮き出ている。
しかし、手を止めるわけにはいかない。明日までに完成させると決めたから。
気がつけばカーテンの隙間から朝日が差し込んでいたが、それでも針を持つ手は止まることはなかった。
完成したらまずは見せたい人がいる。──ハンナの腕を買ってくれた、ブリジット・メイアン。
早く彼女に捧げたい。
その想いがハンナの重たい身体を奮い立たせている。
朝の空気を吸いに外に出た。
大きく息を吸い込み、陽の光を浴びる。両手を持ち上げて、背伸びをしていると、人の気配を感じた。
「あ、ハンナ」
目の前にルシエルが立っていた。
ハンナは慌てて前髪を指で整えた。
「ど、どうしたの? ルシエル。こんな早くに」
ハンナは俯いたまま、ルシエルの顔を見ようとしない。
それよりも今の自分の姿を見られるのが心苦しい。
「あ、えーっと。なんて言うか、ハンナにこれを。それで、寮長から渡してもらおうと思って」
ルシエルは紙袋をハンナに手渡した。
首を傾げながら封を開けたハンナの目は大きく開かれた。
「え? これ、どうしたの?」
「最近、ハンナ頑張ってたでしょ? 目の下に隈を作りながらも弱音は吐かない姿に刺激を受けたというか、その……。
だから、昨日授業が終わった後、街まで行って買ってきたんだ。
ほら、甘いものは疲れに効くっていうから」
中には人気店のパンが入っていた。
ハンナの目は輝きを帯びている。
ルシエルはその嬉しそうな顔を見たところで「じゃ、またあとで」と踵を返そうとしたが、
ハンナに一緒に食べようと誘われ、ここで少しだけ待っててと言い寮へと駆けていった。
しばらくすると、髪を整えたハンナが、バスケットを抱えて出てきた。
二人は寮から離れて、なるべく人の通らなそうなベンチに腰を下ろした。
「シャルがこれ作ってくれたんだ。夜中に飲んでも冷めないようにって」
シャーロットが彼女のために作った保温機能のある容器から注がれる紅茶から湯気が立つ。
ルシエルはそれを両手で受け取った。
ハンナは用意してきたナイフでパンを半分に切り分ける。
「全部ハンナが食べてよかったのに」と言いつつパンを受け取り、口に頬張る。
クルミの香ばしい香りが口の中いっぱいに広がり、焦がし砂糖のほろ苦さが重なる。
「わー、美味しい」
頬を膨らませながらゆっくりと咀嚼するハンナの顔は今にもとろけてしまいそうだった。
「ドレスはどう? 順調?」
「うん、さっき終わったところ。長かったぁ。けど、すっごく楽しかった」
その言葉を聞いたルシエルは身体が熱くなり、昨日は街まで出向いたことが喜ばしかった。
「さっき? ってことは寝てないの?」
「──うん。どうしても今日仕上げたかったんだ」
その顔は充実感に満ちたもので、さらに照れもせず、はむっとパンを頬張るハンナの顔がルシエルの奥底に焼きついた。
そして、この早朝ピクニックは二人だけの秘密となる。
ルシエルはまた今度、絶対にやろうと心に決めた。
木漏れ日と鳥の声に二人の時間はとてもゆったりと流れ、そしてその場で別れた。
「じゃ、また後で」
「うん。また、後で」
小さく手を振り、ハンナに背を向ける。
その足取りは軽い。
今まで小さなことで煮えきらなかったことが嘘のように。
その頭上には青い小鳥が飛んでいたが、ピピッと鳴いて静かに姿を消した。
* * * * *
放課後、ハンナは駆け足で宮廷文化科の教室へと向かった。
途中、教頭と出会い頭でぶつかり、叱られたが、ハンナの耳には教頭の小言は届いていない。
すでに心は違う場所へと向かっている。
「失礼します。あの、ブリジット様はいらっしゃいますか?」
教室入り口付近にいた生徒に声をかけ、辺りを見渡した。
しかし、どこにも見当たらない。
仕方なく出直すかと小さく息を吐いた時、背後から肩をそっと触れられた。
「やぁ、ハンナくん。どうしたんだいこんなところで」
振り返るとそこには金髪碧眼の生徒、アルバート・ローゼンベルクが笑みを浮かべている。
「あ、ローゼンベルク、くん。こんにちは」
金髪をなびかせて笑顔を振りまくローゼンベルクは、一瞬眉根を寄せる。
──もう何度も「アルバートでいいよ」と伝えているのに。
が、すぐに頬を緩ませて髪をかき上げた。
「ああ、ブリジットさんなら礼拝堂にいたよ。ちょうど僕もそっちへ行くから案内するよ」
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
ローゼンベルクはハンナの荷物を持とうしたが、「これは大丈夫。自分で持てるから」と胸に抱えたまま歩幅をローゼンベルクに合わせた。
礼拝堂に到着し、彼にお礼を言うと、『ついでだから』とローゼンベルクも同行した。
祭壇のところに数人の生徒がいるのが見え、そこにブリジットの姿があった。
「あら、ハンナさん。ごきげんよう。どうしたの? お二人で」
「あ、あの、教室に行ったらブリジット様は礼拝堂にいると、ローゼンベルクくんが案内してくれたんです。──あ、ブリジット様にこれを」
「──もしかして、もう完成したのですか?」
ブリジットは目を輝かせて包みを受け取る。
そして、丁寧に開けた途端、歓喜の声が礼拝堂に響き渡り、慌てて手で口を押さえた。
肩口を持ち上げ自分の身体に合わせて、頬を持ち上げるブリジットは普段見せることのない少女のような顔をしてハンナを見ている。
「本当に素晴らしい出来栄えだね、ハンナくん。君の手は魔法の手だ。
この礼拝堂のどんな芸術品よりも、今はその刺繍の方が人の目を惹いているよ」
「ローゼンベルクさんの言う通りですわ。あなたに頼んでよかった。
上品な中にもしっかりと各々の主張が見えますね。今回の私たちの役割に相応しい衣装となりました。
今、私はとても感動しております。
ハンナさん、今度、個人的にお願いしてもよろしいかしら? もちろん謝礼はいたします」
ハンナの目はみるみるうちに潤んでいった。
両手で口元を覆い、肩を震わせながら、ブリジットに向かい深くお辞儀をした。
「ありがとうございます。とても光栄です」
ローゼンベルクは爽やかな笑みを浮かべ、両手のひらをハンナに突き出した。
「完成おめでとう」
ハンナはやや戸惑いながらも、パンと小さく合わせてそれに、応えた。
ハンナは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
自分の作ったものが誰かを喜ばせる。
──それが、こんなにも嬉しいことだなんて。




