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瑛は豊かな国であった。
北には東大陸を横断する黄成山脈があり、東西を当時大国だった丘と江に挟まれていながら外交で他国との間を上手く立ち回り、内政に力を入れていた。そして、十数年前に導入された官人の登用試験である浄苑により優秀な人材を確保していた。
男は瑛の都に着くと妻を宿で休ませてから、元部下の知人の家に手紙を届けに向かった。
茶屋を経営していたその知人は、元部下の幼馴染であったらしく、久しく交流の絶えていた相手からの手紙にひどく驚いていた。店の一角にある席を借り、手紙を読み終えると茶屋の主人は男に礼を言い、この国でくらすあてはあるのかと尋ねてきた。
どうやら、元部下は手紙で男の面倒についても見てもらえないかと頼んでいたらしい。
あてもつても無いと正直に答えると、それならば、しばらくの間息子の家庭教師として働いてみてはどうかと提案された。
軍人生活には既に辟易しており、長旅で資金もほぼ尽きていた男は、衣食住が保障され、かつ給料が貰えるという好条件に、一旦宿に戻り妻と相談してから了承の返事を出した。
茶屋の主人曰く、家庭教師をしてほしいという息子は四男で、兄弟の中でも出来が大層悪く、いつも店の前で道行く人の流れをただじっと見ていたり、かと思えばいきなり従業員の一人を捕まえて遊びに付き合えと我儘を言ったりして、周りはほとほと彼に手を焼いていた。また、多少問題があっても学があれば生きていけるだろうと教師を付けてもやる気を見せないため、何人もの教師が匙を投げて困っていたらしい。
良くない事前情報ばかり聞かされていた四男であったが、引き合わされ会話してみると、一教えれば百まで理解してしまう程の優れた頭脳の持ち主だということがわかった。
幼さから頭の中で考えたことを周りに伝える事が上手くできず、愚鈍とみなされていたが、どんな些細な事でも聞く前に自分で考える事を誰に言われずとも身に着けていた。
四男にとって、これまでの家庭教師達の話は、まるで一桁の乗算を延々と繰り返し聞かされているだけにしか思えなかったのだが、男の持つ何百年もの知識はそんな子供の知識欲を大いに満たした。
そして一年が経過して8歳になった四男は『五常八徳』を習得し、頭の中で考えた事をしっかりと相手に伝えることができるようになっていた。
正直、この四男の教育に関して男は特に関わった覚えはない。
字の読み書きは一度教えれば事が足り、本の内容も必要な要点のみ伝えれば後は勝手に習得した。
精々男がしたことといえば、四男が伝える拙い言葉を周りにも分かりやすいように修正した位のものだった。
だが、それを知らない周りは当然の様に男をもてはやし、特に親である茶屋の主人は諸手を挙げて喜んだ。
さらに二年かけて学問以外の雑学等を時に妻を交えて教え込んでいた頃、四男は見聞を広めるため他国に遊学している兄の下に身を寄せることになった。それにより、家庭教師もお役御免となったので、今度は都から少し離れた所に行こうと考えだしていた男に、茶屋の主人は声をかけた。
「最近親戚の一人が亡くなってその持家を私が継ぐことになったのですが、特に使うこともないのでもし宜しければ格安でお貸ししますよ」
彼は住み込みの屋敷からでていくために荷物をまとめていた二人を呼び止めると、その空き家となった家に連れて行かれた。
元は大人数の家族が住んでいたというその家は2人で住むには広すぎると男は感じ、妻もこれじゃあ使わない部屋もあって勿体ないとこぼした。
一通りめぐり終わり、庭をもう一度見に行くと言った妻と別れた後、茶屋の主人に感想をきかれたので、そのことを伝えるとならば資金援助もするので私塾でも開いたらどうかと話を切り出された。
上手い話には裏があるという言葉があるが、広い家を格安で貸し、さらには開業資金まで援助するという言葉の裏には、茶屋の主人の思惑があからさますぎる程に透けていた。
四男が学問の才を示し始めると、茶屋の近所の親たちから自分の子供たちの勉強もみてくれないかと頼まれることがあった。しかし、男は特に頷く理由もなかったので、それらすべてを断っていた。一貫してその態度を貫いていたにも関わらず、どうして茶屋の息子はいいのにうちの子は駄目なのだとしつこく来るものもいたので、茶屋の主人は近所に配慮するためにこのような形をとったのだろう。
やはり、人間というものは面倒だと男はため息を吐き、庭を見回っている妻に出る準備を続けるように言おうとした所を、幼い声が遮った。
「老師、今は動かないほうがいいと思いますよ」
いつの間に来ていたのか、空き家の入り口から顔を出した四男は片手に木の実が付いた枝を持って現れた。
「どうやら陵の後継問題に丘がそこにちょっかいをかけてて、丘の気がそれてる隙に江が丘に攻め入ろうとしてるみたいです。こちらを経由してこない様ですが万一の事もありますし、ご自身一人だけでならともかく、女人である奥様を連れられるのでしたら父の話に乗って時期を見られた方がよろしいかと」
四男は現状の見識を淡々とした口調でそう述べた後、妻の所在を問うた。庭にいると告げると、一礼をして妻のいる方へ去っていった。
「これは調理すれば食べられますか?」
「いいえ、これはどうやっても食べられないわ。危ないから私に頂戴」
内容のわりに暢気な口調で交わされる会話を聞き流しながら、男は先ほどの四男の言葉を頭の中で整理した。
各国がそれぞれ覇を唱えているこの時代、戦というのはそう珍しいものではなかった。毎日どこかの国は戦の準備をしており、隙あらば他国を喰らおうと狙っていた。だから男もなるべく周りの情報は仕入れており大丈夫だと判断していたが、四男がわざわざ忠告しに来るということは男が知らないなんらかの動きをつかんでいるのかもしれない。
妻を連れていく以上、瑛にくる道中の様に戦で家を失った子供たちに同情しないとも限らない。
なるべく面倒なことを避けたい男は、少しだけこの都に留まる事に決めた。
私塾は四男のこともあってか、最初からある程度の人数は揃っていた。
余計な労力を使いたくなかった男は授業中の私語を厳禁とし、意味のない質問をした者は即刻たたき出した。代わりに的外れな質問でも本人が考えた末のものならしっかりと答えた。
そうしてふるいをかけて、残った素直で真面目な生徒達だけに徹底的に教えていたせいか、子供たちの学力は伸び郷試の一次を揃って突破した。そして、噂が噂を呼び、評判を聞きつけた親たちがこぞって子供を入塾をさせたがった。
とある金持ちが5倍以上の授業料を払うから自分の子供も受けさせて欲しいとごり押ししてきたこともあるが、定員は20人と決めており、特別や例外を認めると後々面倒になるのですべて断ると、男には清廉な人物という評価まで加えられた。
しかし男はそんな周りからの評価には無関心で、妻も夫の将軍時代の経験から勝手に作られる偶像と現実との乖離を対して気にもかけていなかった。
ただ、塾が休みの時に勝手にやって来る者がおり、男を大層苛立たせた。しかし子供相手だからか、断る時に妻が申し訳ないという顔をするので、しかたなく毎月来て良い日付を決め、その日以外に来ても相手にしないと門に張り紙をして周知させた。
だが、それすら理解できない者もわずかながらおり、男は仕方なくその聞き分けのない子供のうち一人の襟を掴み親元に引きずって行った。
そして、その家でその子供の祖父、宋楽に出会った。