第40話 聖騎士教会の塔級騎士⑤
観客の影は一切なく、冷たい静寂が闘技場全体を包み込んでいた。その中央、白い大理石の床にぽつりと立つ北欧の少女は、真っ白な肌をさらしつつ、烏が手渡した純白のレイピアを指先までぴんと緊張させて握りしめていた。鋼の冷たさが掌の奥底にじんわりと染み込み、手首から肘にかけては微かに震えが走る。
そのレイピアは、六惺の使い魔にして彼女の師匠を自称する烏の要請を受け、純血の魔女によって創り替えられた特別な武器であった。元々は『ブリューナクの槍』として名高い魔具であり、しかし今はAstrid専用のレイピアとして潜在能力が引き上げられた代物である。白銀の刃はまるで生きているかのように微かに震え、光を反射して周囲を淡く、幽かに照らし出していた。その光景は、息を止めて見つめる者さえも心をざわつかせるほど、静かな威圧感に満ちている。
やがて少女の掌にあるレイピアから、どこか機械的でありながら意思を感じさせる声が、ゆっくりと、スローモーションのように耳へ届いた。
「初心者騎士、Astridを新たな仮の所有者として承認しました!」
「これより基礎能力値の補正を開始します!」
「精神値が『N+』から『N++』へ上昇しました!」
「続いて、神聖力、運動能力、反射速度、その他の補正を順次実施します!」
戦場でも日常でも、精神力は最も重要な要素である。金髪の少女騎士はその声を聞くやいなや、拳をぎゅっと握りしめ、指の節が白くなるほど力を込め、身体の小さな震えを必死に抑えながら、無意識に小さなガッツポーズを繰り返していた。頬には満足そうな微笑みが浮かび、瞳は好奇心と高揚で輝いている。
その様子を、少し離れた位置で見つめる人狼の女、九重は、眉をひそめていた。内心で『いやいや、N++って、能力値低すぎるだろう』と突っ込みを入れても、口には出せないのだろう。さらにその場に居合わせた八十郎――一見すると普通の中年男性――は、魔女の存在を知った後では、N++程度の精神力で耐えられるのか心配で仕方がなかった。
とはいうものの、倫理観が少し独特なAstridは、誰よりも素直に六惺の存在を受け入れていた。少女の前で、再び『名も無きレイピア』から能力値補正の告知がゆっくりと流れ始める。
「…運動能力、NからN。反応速度、NからN。神聖力、NからN。その他、NからN…」
「…基礎の能力値が低すぎます。これ以上、能力値を引き上げることはできません!」
「…総合能力はN+です!」
「…仮の所有者から潜在能力を感知しました」
「…修行して、基礎能力の向上に努めてください!」
冷徹な事実が淡々と告げられると、少女の胸中に一瞬の凍りつきが走った。口を「あんぐり」と開け、身体が硬直し、目が一瞬だけ虚ろになる。だが、六惺と烏が静かに見守る中、Astridの脳はゆっくりと再起動し、思考のギアを入れ替えた。そして、握るレイピアに向かって、まるで武器自身と押し問答をするかのように口を開く。
「待ってください!どうして私の内に眠る潜在能力を、引き出してくれないのですか!私は十年もの間、修道士として厳しい修行を積んできました。それなのに、もっと能力値が上がってもいいはずではありませんか!」
「…修行は決して裏切りません。これからも精進を続けてください」
「そんな…何気に突き放すのはやめてください!私は仮とはいえ、『名もなきレイピア』、あなたの所有者のはずです!量産型のキャラクターのように、努力をすることなく、新たな力を手に入れたく渇望しております! 能力値の補正、再考していただけませんか!」
「…大器晩成の可能性も十分にあります。地道に修行を積み重ねることを強くお勧めします」
「この違和感は何でしょう!話が全く噛み合っていませんよね? インチキ占い師のように、『大器晩成型』と言っておけば喜ぶだろう、とでも思っているのですか! 私はそこまで単純ではありません!」
「…強い決意を持ち、努力し続ければ、必ず成し遂げられるという『一念痛天』という言葉があります。努力は、仮の所有者であるあなたに必ずプラスになるはずです!」
「精神論を押し付けるのは、駄目な上司の証拠です!もしかして、名もなきレイピアさん、今の時代に思考が追いついていないのではありませんか!?」
「…」
『名も無きレイピア』は、呆れ果てたのだろうか。
言葉は出さず、ただ黙り込むのみ。何度も繰り返される、取るに足らない押し問答の間、闘技場の端――観客席の歓声と砂埃が入り混じる空間の片隅で、ひときわ目立つ影がゆっくりと歩を進めていた。背丈は軽く2mを超える褐色の男。その存在感は圧倒的で、光の角度によって浮かび上がる筋肉の輪郭は、まるで大理石の彫像が息を吹き返したかのように堂々としている。肩幅は広く、鎧の切れ目から覗く皮膚は硬く、日焼けした色合いを帯びていた。
彼は聖騎士教会の塔級騎士。金髪の少女騎士にとっては、尊敬と憧れを抱くべき“先輩”である。
純血の魔女との戦闘に敗れ、アリーナ席と競技場を隔てる壁に体を叩きつけられ、しばらく意識を失っていたのだ。ようやく、重く朦朧とした意識が戻り始めている――とはいうものの、その足取りは定まらず、地面を踏むたびに微かな音を立て、かすかに砂埃が舞い上がった。
意識は徐々に回復しつつあるものの、自分が弾き飛ばされた直前の光景は、記憶のどこかから欠落していた。
そして、手元にあるはずの『魔を狩る槍』――純白に輝くあの槍――が消えていることに、ようやく気づいたのである。怒りは抑えきれず、荒々しい声が闘技場に轟いた。
「魔女……俺に、いったい何をしたんだ……!」
完全な記憶の回復には、まだ時間が必要だったのだろう。
褐色の聖騎士は、自身の状況をまったく把握できていない。しかも、その態度はどこか上から目線で、まるで何事もなかったかのように平常心を装っている。神聖力を失い、強化されていた自身の能力がすべて消え去ったことに、まだ気づいていないのだ。
低く尖った声が、男の傲慢さを容赦なく断罪した。
発したのは後輩騎士のAstrid。普段の弱気な面影は完全に消え去り、精神の奥底から煮えたぎる冷徹な怒りをその声に宿している。言葉のひとつひとつが、聖騎士の胸に刺さり、頭の中で轟音のように反響した。
「先輩……まだ、自分の置かれた状況を理解できていないのですか? 本当に、まだ分かっていないのですか……?」
聖騎士は一瞬、言葉を失った。格下の存在に、こんな口をきかれるとは――想像すらしていなかった。だが、頭の中で渦巻くのはただひとつ。『魔を狩る槍』を取り戻すこと。教会から授かった、純血の魔女を討つための必須武具を失うわけにはいかない。
冷静さを装おうと必死に踏ん張るものの、内心は混乱と焦燥で煮えくり返っていた。感情を押し殺し、荒々しい声を絞り出す。
「Astrid……今は緊急事態だ。その態度は控えてくれ。『ブリューナクの槍』は、どこにある! 早く……教えろ!」
「先輩……あなたは、本当に自分の立場を分かっていないのですね……」
「お前……いい加減にしろよ! 俺に舐めた口をきくんじゃねぇ……!」
「すみません……ですが、その言葉、先輩にそのままお返ししてもよろしいでしょうか……?」
「……ん? 俺の耳がおかしいのか? 今、何と言った……?」
「訂正します。格下のくせに、生意気な態度を格上である私に向けるのは、控えていただけませんか……?」
「お前よりも、この俺が……格下だと……!?」
「はい、先輩。今のあなたは、完全にクソ雑魚です」
「いくら寛容な俺でも……もう許さないぞ!」
「先輩は、決して寛容ではありません。弱者にしかマウントを取れず、仕事もできず、友も作れない……器の小さな雑魚です。言い換えれば、先輩はただの人間に戻ったにすぎません。もう一度言います……クソ雑魚です。したがって、格上である私に生意気な口をきくのは控えてください……!」
「俺を……誰だと思っているんだ……!」
「魔女様の言葉を借ります。全身に入れ墨を入れて威嚇したところで、ただの人間になった先輩では、私には勝てません。いい加減、自分の立場を理解してください……。大海のごとく広い私の心も、もう限界です。ぶちのめして泣かせて差し上げましょうか……クソ雑魚先輩。まだ生意気な口をきくつもりですか……?」
褐色の塔級騎士は、ようやく自らの神聖力が完全に消えていることに気づいた。
強化されていた筋力は解除され、ただの人に戻ったのだ。
Astridの強気な態度に圧倒される一方、八十郎は小物感に感心し、九重はその少女の凛々しい姿に好感を抱いた。
その瞬間である。
突如、コロッセオの空間が歪む。
「ビリッ……バリバリッ!」という鈍い音が辺りに響き渡り、まるでグラフィック画面にバグが発生したかのように、アリーナが崩れ始める。六惺による結界が解除され、コロッセオそのものが消え去ろうとしているのだ。魔女は、望むときに創り出し、望むときに消し去ることができるのだろうか。
八十郎や九重にとっては、すでに体験済みの現象。驚きは少ない。だが、金髪の少女騎士は違った。歓喜の声にも似た「キャッキャッ」と弾む声をあげ、目を輝かせている。
烏は、何かを企んでいるのだろうか――アルカイックレコードの記述を手がかりに、すでにこの世界で起こる未来を知っているかのように、細く微笑む。
金髪の少女騎士は、八十郎たちと共に、異世界の戦地へと送り込まれる未来を待っているのだろう。
同時刻。
異世界――汚染された空の世界を航行する『ノアの方舟』にて、事件が起きていた。




