第33話 自由なる建築家①
ここは『ギルド会館』と異世界を結ぶ、無限の深さと広がりを持つ次元回廊の内部である。
空母クラスの現存最大級の物体でさえ悠々と通過できるほどの広大さが確保され、事実上、理論上は如何なるサイズの物体であろうとも、回廊の寸法はそれに応じて柔軟に拡張されるのである。まさに、次元の理が人知を超えて拡張する場所であるといえよう。
視界を埋め尽くす空間には遮蔽物など皆無でありながら、地上世界と同じく空気が流れ、重力が存在し、人が生活可能な環境が保たれていた。過去において『バベルの塔』が『ギルド会館』へ侵攻を試みた際、彼らはこの回廊にて六惺に迎撃され、粉々に打ち砕かれたことがあったという。壁の向こう側に広がる暗黒の空間は、果たして異世界そのものなのだろうか――。目の前には、『バベルの塔』の残骸が不規則に浮遊し、静寂の中で微かに光を反射している。
回廊内には、六惺の手により投げ込まれた三人の者たちがいた。
一人は剣豪の名を持つ八十郎、そして『自由なる建築家』と名乗る黒魔術士、最後の一人は『不敗なる魔術士』である。だが、その『不敗なる魔術士』は今しがた妖刀村正の餌食となり、身体を真っ二つに斬り裂かれ、絶命した。
「ズシッ…ズシッ」
血飛沫が硬質な床に叩きつけられる音が、断末魔の代わりとして静寂の中に響き渡っている。黒魔術士には、斬られることなど想像すらなかったのだろう。異次元空間に潜行しながら、油断して剣豪に接近してしまった結果、斬るべきでないものさえ斬る妖刀村正の能力の犠牲になったのだ。
その光景を目の当たりにした『自由なる建築家』は、背丈190cmほどの大男であり、相棒の無惨な死を前に絶叫していた。
「ぐわぁあああっ!」
同時に、妖刀村正の声が八十郎の脳裏に刻まれる。血を吸い上げ、狂気と歓喜の混じった声が、剣豪の内面に深く突き刺さってくる。八十郎自身、殺し屋として数多の命を奪ってきたが、妖刀村正が人の生き血に歓喜する様はどうしても受け入れられない。だが、あの純血の魔女との出会いが、彼の心を変え始めているのも事実である。あの圧倒的な力に、ほんの少しでも近づきたい――そう思うあまり、余計な感情を切り捨て、妖刀村正の邪悪な力さえも使いこなす必要があると、肌で感じていた。
一方、上品な顔立ちの『自由なる建築家』の表情は、見る見るうちに鬼のような形相へと変化していた。眉が吊り上がり、瞳が漆黒に光を帯び、口元は固く引き結ばれる。
足元へと視線を落とした、その瞬間だった。
硬質で無機質な床の表面に、信じがたいほど精巧なミニチュアの街が、まるで呼吸をする生き物のように、次々と展開されていくのが見えたのである。
道路は縦横無尽に走り、碁盤の目のように、しかしどこか有機的に絡み合いながら広がっていく。その両脇には、高層建築から低層の住居まで、用途も年代も異なる建物がぎっしりと並び、隙間という隙間を許さぬ密度で都市を形作っていた。
カタン、コトン――鉄道は小さな音を立てながら線路を走り抜け、交差点では信号の灯りがチカチカと瞬く。昼の光と夜の闇が同時に存在しているかのように、白と橙、青と影が入り混じり、街全体がゆらり、ゆらりと揺れていた。
そして。
無数の小さな人影――いや、人影“のような物体”が、街のあちこちから湧き上がるように現れ、群れを成して動き始める。
ざわ……ざわ……。
耳を澄ませば、確かに聞こえるその微かな音が、空間そのものに染み込み、皮膚の内側を撫でるように響いていた。
それはまるで、蟻の大群が巣を拡張していく光景だった。
区画を侵食し、道路を跨ぎ、建物の影に潜り込みながら、街は、いや魔術そのものが生き物のように領土を広げていく。時間が経過するほど、その範囲は確実に、そして容赦なく増大していった。
圧倒的な破壊力を持つわけではない。
とはいうものの、この拡張性だけは、決して侮っていいものではなかった。床一面に広がるその街は、黒魔術の影響力そのものであり、静かに、しかし確実に支配を進めているのだ。
八十郎は、その異様な光景を前に、ただ黙って立ち尽くしていた。
剣豪の目は冷静に状況を捉えている。――不利であることは、理解している。理解している、はずなのだ。
それでも、その表情にはどこか、戸惑いとも困惑ともつかぬ色が滲んでいた。
思い返せば。
次元回廊へと送り込まれる直前、純血の魔女は、お洒落なカフェのテーブル越しに、あまりにも淡々と、こう言い切っていたのだった。
「二人目の黒魔術士は、私が倒します。剣豪さんが何かをする必要はありません」
その言葉を、八十郎は疑いなく信じた。
だからこそ今、無敵の魔女が現れる“その瞬間”を、ただ待ち続けている。
とはいうものの――この空間には、彼女の魔力の気配すら存在しない。
静まり返った異界の空気の中で、剣豪の胸の奥に、微かな不安が、燻る炭のように残っていた。
六惺の言葉を信じたい自分。
そして、異次元の存在が、いつ、どんな手を打ってくるか分からないという現実。
その狭間で、心がわずかに揺れていたのだろうか。
「殺し屋。お前……何かを企んでいるな?」
『自由なる建築家』の神父が、一歩踏み出しながら、鋭利な視線を八十郎へと突き刺す。
声には、明確な警戒と苛立ちが混じっていた。
「……」
沈黙。
八十郎は何も答えない。ただ、街を見下ろしたまま、わずかに呼吸を整えている。
「その様子を見ると、図星のようだな?」
「俺が何を企んでいるのかが、そんなに気になるのか?」
淡々とした声音。
それがかえって、神父の神経を逆撫でする。
「念のために教えておいてやるが、私の魔術範囲は無限だ。広がれば広がるほど、お前は不利になっていくのだぞ!」
言葉と同時に、街がじわりと脈打つ。
ざわ……ざわ……。
建物の影が伸び、道路が増え、要塞は確実に肥大化していた。
「そうか。見た感じ、そうなのだろうな……」
八十郎は、どこか他人事のように呟く。
「私の魔術は『要塞』。私を拠点とし、広がり続けるこの『要塞』を、お前は攻防一体の魔術として、身をもって知ることになるだろう」
「そうか。要塞なのか」
剣豪は、ゆっくりと顔を上げる。
「おそらくだが、俺は何もすることはない。そしてその恐ろしさを、未来永劫知ることはできないだろう」
「殺し屋。お前、やはり何かやるつもりだな。それとも、その“何か”を、もうしていると言うのか!」
「俺が言えるのは――」
一拍。
空気が張り詰める。
「お前の思い通りには、いかないということだ」
「殺し屋ごときが! 調子にのるなよ!」
怒声が響き渡り、街がざわりと揺れた。
戦闘の気配が、確実に、空間を満たし始めていた。




