第32話 不敗なる魔術士②
八十郎は、天涯孤独であったため、家族と呼べる者はいない。
体内に潜んでいた妖刀・村正が顕現して以来、生き延びるためとはいえ、数え切れぬほどの命を奪ってきた。
いずれその行いの報いは必ず返ってくるだろうと、八十郎は静かに覚悟していた。だから新たに家族を持つことなど、頭の片隅にもない。
剣豪は、まるで生きる屍のような精神状態に沈んでいたものの――、魔女に圧倒的な敗北を喫した瞬間、心の奥底から生きる力がじわりと湧き出てくるのを感じ始めていた。
その感覚は、凍りついた湖の底から温かな泉が湧き上がるかのようで、剣の道を究めたいという衝動が、静かに、しかし確実に目覚めてきたのである。
八十郎は神経を極限まで研ぎ澄ませていた。
その間合いはおよそ30m。
向かいに立つ建築家と名乗る神父は、まだ一切の攻撃を仕掛けてこない。
その態度は、隙をつくっているわけではなく、攻撃の意思がないだけであった。
なぜなら、彼には相棒となるもう一人の黒魔術士――『不敗なる魔術士』が潜行しつつ八十郎を狙うため、暗躍していたからである。
この次元回廊には、剣豪と建築家のほかに、もう一人の黒魔術士が紛れ込んでいた。
二つ名は『不敗なる魔術士』。年齢も性別も不明。全てが謎に包まれている。
使用する黒魔術は『潜行』。自らが創り出す別次元に身を隠し、敵の目にも攻撃にも一切触れない状態になるのである。
枢機卿ですら「絶対に敗北することはない」と評した伝説的な魔術士。それが『不敗なる魔術士』の名に込められた意味だった。
微弱な電流の流れを読む『ロレンチーニ』の能力を、六惺が活性化させたのだろうか。
八十郎は、完全に気配を消しているはずの『不敗なる魔術士』の存在を、確かに察知していた。
距離にして5m。ゆっくりと間合いを詰めるその気配は、空気を震わせ、微細な波紋を周囲に描いている。
『不敗なる魔術士』の戦法は、至って単純である。
いや、単純であるがゆえに恐ろしい。ゼロ距離で、敵を自らの展開する別次元へ引きずり込み、そこに閉じ込める――ただそれだけの戦法である。
一度その空間に足を踏み入れれば、誰ひとりとして戻ることはできない。
黒魔術士たちは、八十郎が低く「お前達」と呼びかけた瞬間、その存在を察知していた。
視界には映らぬが、空気の揺らぎ、微かな魔力の波紋――すべてが知らせていたのだ。目の前の剣豪が、想像をはるかに超える強敵であるかもしれぬと、直感で判断していたのだろう。
とはいうものの――攻撃が届かぬ事実そのものは、何一つとして変わらないはず。黒魔術士たちは、剣豪そのものを恐れていたのではない。
≪私達の存在に気づいたことは驚きではある。しかし、剣豪の攻撃が届かぬ事実は、何ひとつ変わっていない≫
その声は、空間にかすかに震えながらも響いた。だが八十郎には、まるで水面に落ちる一滴の雨のように静かに聞こえたに過ぎなかった。
目には映らぬ存在を把握していながらも、精神は明鏡止水のごとく揺るがない。六惺に魔術回路を触れさせたことによる覚醒か、あるいは剣の道を究める決意が余計なものを削ぎ落としたのか――心は澄み切り、冷静そのものである。
その間合いに、敵はまるで影のように、音ひとつ立てず、しかし確実に距離を詰めていた。風が止まり、時間さえも張り詰めたかのような空間で、微細な空気の揺らぎが八十郎の肌にかすかに触れる。――ピリリ、と、まるで電流が走るような鋭い感覚。思考が追いつくよりも早く、体が反応を始めていたのだ。指先が微かに震え、肩の筋肉が緊張を帯びる。神経の末端まで、戦いの予感が染み渡るように広がっていく。
八十郎の心と体は一体化し、呼吸のひとつさえも制御されるかのように、彼の感覚は研ぎ澄まされていた。目の前の『不敗なる魔術士』――その存在は、確かにここにある。しかし、空気は重く、刹那の緊張が身体を縛り付ける。時が緩やかに、しかし確実に流れる中、八十郎の体は自然と一閃を放つ準備を整えていた。
———抜刀
予備動作なく、神速の斬撃が〝一閃〟の光とともに切り裂く。
妖刀・村正が振り下ろされる、その瞬間であった。
刹那、空気が一瞬、異様な張力を帯びる。
刀身の軌跡を追う間もなく、『謎のライン』が光の粒子をまとい、空中にくっきりと浮かび上がった。
まるで見えざる筆が空間に刻を描くかのごとく。視界が歪み、時間の流れが微妙にずれ、世界そのものがほんの一瞬、息を止めたかのように感じられる。
地上世界の物理法則では説明できない音が、耳の奥で響き始める。ヒュッ、ビリビリ――空気が裂けるような、肉を抉るような、しかしそれ以上に形容しがたい音。魔術士が口を開き、叫び声を発しようとしたその刹那、鋭い断裂音が胸を直撃し、続けざまに鮮血が弾けた。ピチピチ――と弾ける肉の音が、小規模な爆発が連鎖するかのように、戦場の静寂を震わせながら広がっていく。
空間断裂――そこには物理を超え、次元の奥底に潜む存在さえも引き裂く力が確かにあった。刹那、空気は圧縮され、微細な砂塵が舞い上がる。見えない波が胸を押し、振動が鼓膜だけでなく骨の奥深くにまで届く。世界のすべてが緊張の渦に巻き込まれ、空気の振動さえも戦慄を孕むのだった。
八十郎の視界に映ったのは、真っ二つに裂かれた『不敗なる魔術士』の姿である。身体が魂ごと引き裂かれた瞬間、世界の歪みが空気に刻み込まれ、死の確定が重く沈む。振動する空気の中で、微かに血の匂いが立ち上り、戦場の時間は氷結したかのように伸びる。埃の粒子が、戦いの余韻に呼応してゆらゆらと揺れ、光を受けて微細な光点を散らす。それさえも、戦場の記憶として確かに残ったのだろうか。
妖刀・村正――魔女を討つために生まれ、持ち主の精神すらも魅了する剣。斬れぬものを斬り、空間さえも断つその恐るべき力は、伝説の域に留まらなかった。
『空間断裂』――かつては幻想とされ、信じる者も少なかった現象が、今、現実のものとして立ち現れたのだろう。刀身が振るうたび、空気は凍りつき、微かな風圧が皮膚を撫で、あらゆる感覚が戦慄に支配される。
『不敗なる魔術士』――生き残ることを宿命づけられたかの男。その無敗の誇りも、剣豪の一閃によって歴史の瞬間に消え去った。




